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姉上、ご褒美をください  作者: 初春餅


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12/20

クロティルダ――我が人生の光6

 遂に狂宴発生の一報を受けた夜、オレールは適当に髪を結ぼうとしていた私の手から黒ビロードの細いリボンを取り、手早くひとつに結んでくれた。


 訓練時やその他、髪を結ぶ必要がある時はいつも、私は姉上の髪の色を思わせる、漆黒のリボンを愛用している。


 これは誰にも何も言ったことはないが、「もう二度と姉上を失望させる男にはならない」という私自身への戒めだった。


「頑張ってくださいね」

「うん」

「ご武運を」

「うん」

「どうか、ご無事で!」

「うん」


 ――そんなに心配そうな顔をするな。


 私はオレールの頭をぽんと撫でて身を翻した。


 困ったことだ。


 この手で守りたいものが増えていく。


 城の前庭に降り立つと、グザヴィエを含む十名の武装神官たちが、既に整列して私を待っていた。


「行くぞ」


 群れが人里に到達する前に、すべて仕留めなくてはならない。


 対魔獣発見用に訓練された、特別な鷹が緩く旋回する空の下を目指し、私たちは馬を走らせた。


 幼い頃の刷り込みのせいか、私は武装神官たちの中にいると守られているような気分になり、心が非常に落ち着いた。


「ジュールズ様」


 私をそう呼ぶのはグザヴィエである。他の者は私を「ドラージュ公」と呼ぶ。


「大まかな振り分けですが、向かって右の三頭を。残りは我々が」

「分かった」


 前方に見える群れは九頭、私たちは総勢十一名、私の受け持ちがやや多い気がしたが、一人で一頭倒せる技量の持ち主ですら、なかなかいないというのが現実だった。群れに対応できる者となると、もっと希少である。グザヴィエの判断はまあ妥当と言えるだろう。


 今宵、我らの狂った宴はすぐに乱戦となった。一対一で組み合ってくれるほど、我らの友は上品ではない。だが、大好きな武装神官に囲まれ、平常心でのびのびと戦う私にとって、そんなことは些末だった。ドゥミリューヌもほどよく血に飢えて、終わってみれば私と彼女で四頭倒していた。


 受け持ち外の一頭は、倒れた武装神官を庇おうとした私と、暴れ足りないドゥミリューヌの思惑が一致した結果だった。


 戦闘の高揚が落ち着いてくると、浴びまくった獣の返り血や肉片が急に気になり出して、私の気分は最悪になった。一刻も早く風呂にと思いながら帰還すると、早朝だというのに沿道につめかけた民衆に大歓声で出迎えられた。


 ――ジュールズ様、手をお振りに。


 にこやかな笑みを浮かべたグザヴィエが小声で私に指示してきた。


 生臭さのせいで表情を取り繕えず、浮かぬ顔のまま手を振った私は、後でグザヴィエに叱られた。


 この記念すべき凱旋の日以降、私に対する周囲の視線は、徐々に変化していった。


 グザヴィエ含む武装神官たちは皆、強いだけでなく体格も見目も良く、彼らに囲まれて移動する小さな私は、王派やその他大勢の男たちから「姫」と揶揄されていた。


 だが、宴に赴く度、誰より返り血を浴びて帰ってくるのは私であった。


 帰還の度に大衆から熱狂的に出迎えられ、いつしか血まみれのまま笑顔で手を振れるようになっていた私への陰口は、勝手に下火になっていった。


 宮廷内の潮目が変わったのもこの頃だった。


 王派の若い剣士が二人ほど、いきなり私に跪いて討伐への参加を申し出てくれたのを皮切りに、徐々に私への支持を鮮明にする者が出始めた。


 驚くようなことではない。


 王の忠臣たるラモンドが、私の両親殺害の実行犯として捕えられ、処刑されるのを、王はただ傍観していただけだった。


 王との付き合いも長く、甘い汁もたっぷり吸った一部重臣以外は、それをよく見ていた。


 一度私に傾いた天秤は、もう元には戻らなかった。


 私の皿はずしりと沈み、王の皿は跳ね上がり、後になればなるほど重りの移動は露骨だった。


 さして期待もしていなかったが、意外にも、厄災の撃退より宮廷での足場固めの方が早く終わった。


 冷ややかで打算まみれの男の世界とは違い、女たちからは連れている武装神官込みで最初から絶大な人気があった。


 王派の刺客も中にはいたのかもしれないが、私と寝室をともにしたいという女は後を絶たなかった。


 皆、例外なく華奢で色素の薄い、儚げなダルメス美女である。


 ――ライスターの男女を娶らねばならぬとは、何とおいたわしい。お慰めして差し上げたく存じます。


 ここダルメスでは、私が後ろ盾欲しさに渋々姉上を娶るのだと誰もが思っていた。


 確かに姉上は普段男装しているし、十二歳で魔獣を倒した大記録の持ち主だし、髪や瞳の色が父譲りである上、よく見ると端正な顔立ちをしている辺境伯と面差しもやはり似ていたから、姉上の容貌を尋ねられた者が、「きりりと雄々しく、若き日の辺境伯にそっくりです」などと安易に答えることがよくあった。


 だが、そのせいで、姉上はライスターの地から離れれば離れるほど、岩のような体格をした、屈強な男女というイメージを持たれていた。


 私は言い寄ってくる女たちを相手にしなかった。


 姉上を馬鹿にする女など不快でしかない。


 そもそも、私が寝室をともにしたいと思うのは姉上だけだった。


 彼女たちにしたところで、私への愛など皆無である。狙いは私の首か、愛妾の待遇か、或いは不遜にも姉上を差し置いて、ダルメス王妃となることを望むか。いずれにせよ、私がうだつの上がらない傍系王族、ドラージュ卿のままだったなら、私のことなど視界の端にも入れない女たちだった。


 ――身分など要りません。ただお慕いしているのです。


 姉上のことを一切悪く言わず、いつも潤んだ目で私を見上げる、華奢で可憐な令嬢が一人いて、この者は何度断っても私のことを諦めなかった。


 ――ふーん……。


 大多数の男は騙せるだろうが、同類たる私にはすぐに分かった。


 妖精のように小さなこの口が、どんなに耳障りのいい言葉をほざこうと、この女の狙いはダルメス王妃の地位である。


 たった一度でもこやつと関係を結んだが最後、彼女は私からの「ご寵愛」をさりげなく周囲に吹聴し、あえかに目を潤ませながら、姉上にもそう匂わせるだろう。そうなると、ご自身の女性としての魅力を過小評価している姉上は「あ、じゃあ……」と引き下がってしまわれるに違いない。考え過ぎかもしれないが、この女には何らかの情報網があり、姉上の性格を把握しているようにも思われた。


「――そうか」

「ゲリュオネス様……」


 女が潤んだ目で上目遣いに私を見る。


 この女に呼ばれた私の名は、他人のもののようだった。


 と言うか、そもそも名で呼ぶことを許した覚えもない。


「そなたの思いに心を打たれた。私も覚悟を決めるとしよう」


 そう言って、私は目線で彼女をすぐそばの柱の陰に誘導した。


「え? あの、寝室へは……?」

「今すぐ、ここでというのは駄目か」


 女が薄桃の頬を引きつらせるが、私は気づかぬふりをした。


「勿論、こんなところで関係を持ってしまえば、大勢の者に目撃されてしまうだろうな。ご息女を軽んじられた辺境伯は、私を八つ裂きにするだろう。そなたは串刺しにでもされるだろうか? そなたの家族もただでは済まぬし、怒れるライスター軍の襲撃で、ダルメスも焦土と化すだろう。が、それはそなたも覚悟の上と見た。私がいずれ辺境伯の姫を娶ると知りながら、敢えて私の愛を求めるということは、つまりそういうことなのだから。そなたは稀代の悪女、祖国を滅ぼした愚かな売女として歴史に名を刻むだろうが、それも本望と笑ってくれるか」


 女の頬は今や、引きつりを通り越して痙攣していた。


 漆黒の悪魔という異名をとるライスター軍だが、それは純粋に強さのあまりついた二つ名であり、見せしめに人を八つ裂きにしたり、串刺しにしたりするかどうかまでは私も知らない。多分しないだろう。だが、ここはライスターから山ひとつ越えたダルメスであり、彼らについてはいろんな噂に長い尾ひれがついていた。


 無論、ライスター軍がどれほど強くとも、全面戦争なら一辺境伯の軍勢に大国ダルメスの軍が一方的に敗れるということはない。が、彼らに死ぬ気で王都に乗り込まれてしまった場合、友軍の配置を待たずして、王城を奪われる可能性なら普通にあった。


 離宮で病気療養中の王がまだ意気軒昂だった頃、ライスター側の山で採れる岩塩を狙って、彼の地に食指を動かそうとしたことがあるらしい。


 とは言え、ライスターは決して正面切って戦いたい相手ではなく、隣国王の手前もある。ああだこうだと皆で策を巡らせているうち、「離間策を仕掛けてライスターと隣国王を争わせるのはどうか」という、実にダルメスらしい、いやらしい案が出た。


 ――ですが、奸計を何より嫌うライスターに、万が一我らの策が発覚すれば……。


 怒り狂ったライスター軍に、生還など度外視で王都まで踏み込まれてしまえば、王城が落ちるのは秒である。


 幸いなことに、それでもやろうと言う者は一人もおらず、無事にこの話は立ち消えになった。


 かつての王派で、今は私の下に来てくれている者が、遠い目をして語った昔話である。


 私は目の前にいる女を見据えた。


 外国の身分ある令嬢との婚姻が決まっている男と深い仲になろうとするなど、軽率極まりない。今回は特に、先方は別に私でなくてもよいところを、こちらが縋りついて取り付けた縁談である。絶対にあり得ないことだが、もし仮に、婚礼前に私が他の女と深く情を通じ、可愛がっていたなどという事実が発覚すれば、先方の心証は最悪だろう。


 ――お前はお前の野心が引き起こすかもしれない事態を、本当に理解しているのか。ダルメス全土を巻き込んで、ライスター軍を敵に回す覚悟はあるんだろうな?


 大体、この者らが浅はかにも邪推している通り、私が後ろ盾欲しさにライスターと縁続きになることを望んでいるというのなら、どうして私がみすみすその後ろ盾を怒らせるような真似をすると思うのか。


 しばし無言で見つめ合った後、女はふっ……と気高く笑った。


「――お慕いしています、ゲリュオネス様。だからこそ、私は身を引くのです……!」


 女が身を翻し、悲しげに走り去っていく。


 ようやく解放された私は、やれやれと息をついた。


 思ったほど食い下がられなかったのは幸いだった。


 新鮮な空気が吸いたくて、宮廷らしい振る舞いなどお構いなしに、子供のようにひょいと窓枠に背を預けて座る。心持ち顔を外に出すと、気持ちのよい風が私の髪を撫でた。


 ――ジュールズ、今日もさらさらだね。


 姉上、姉上。会いたいです。


 ここには清純ぶった女狐しかいません。


 私は風が頬を撫でるに任せ、ぼんやりと佇んだ。


 ああ……会いたい。姉上に会いたい……。生クリーム食べて、ほわーんってなってる顔が見たい。いつもの男装姿が見たい。ひらひらのドレス姿も見たい。初めて同衾した時みたいに、髪をほどいて薄い夜着だけ着てる姉上もいい。


 ――ジュールズ……。


 薄暗い寝室で、とろりと細められる葡萄酒色の瞳。


 何とみだらで美しいのだろう、私の妻となる人は。


「ああ……早く姉上を抱きたいなあ……」


 背後でがちゃりと音がして、見ればオレールが盆に載せた茶器をぎりぎり落とさず持ちこたえていた。さすが。


「何かお悩みのように見え、心配しておりましたが、私の気にし過ぎだったようです」


 オレールはそう言い捨てて、シャカシャカと足早に立ち去っていく。


「ま……ッ、待て!」


 オレールの首根っこをつかんで連れ戻し、「違うんだ」と言いたかったが、何が違うのかと問われたら何も違わない。


 結局私は何も言えず、オレールの華奢な背中を黙って見送った。






 夜空を染め上げる松明の明かりが、禁忌の森の手前で赤く燃え盛っていた。


 私は森と王城の半ばくらいのところにある、小さな城の露台からそれを見ていた。


 既に顕現しているドゥミリューヌは明らかに高揚している。


 私の隣にはダルメス神殿武装神官長、フラ・リュカの姿があった。私がしくじった場合、後のことはすべてこの男の仕事になる。


「――来る」

「ええ」


 燃え盛る松明の向こう、閉ざされた森の奥に目を凝らす。ずるり、と闇ごと歪な刃で切り取ったように、真っ黒なその一画が蠢いた。


「……大きくないか」

「本当ですね。間が開くと、その分巨大化するんでしょうか」


 ――全長はあなた二人分弱といったところでしょうか。それほど大きくありませんよ。

 ――いやいや、大きい大きい。


 最初に聞いていたのでさえ「大きいな」と思ったのに、ぬっと頭をもたげるそれは、どう見ても私三人分はあった。うそだろ……私の気分は急降下である。


 その大きさや相貌はさておき、ぬるぬるした粘液をまとったそれは、まるで生まれたての赤子のようだった。やがて、真っ赤な双眸が開く。その目は私のいる小さな城を通り越し、はっきりとダルメス王城を見据えた。


 二百年の時を経て現れた、禍々しき獣が今、咆哮を上げて勢いよく地を蹴る。


 目覚める度、それはまっしぐらに王城へ向かうとリュカから聞かされていた通りだった。


 ダルメス王家と厄災の間に一体どんな因縁があるのか、その辺りは何故か記録が残っていないから分からないのだが、子々孫々に至るまで、厄介ごとを受け継がせた元凶ご先祖は誰で、果たして何をしでかしてくれたのかと歴代の守護者が全員、絶対に思ったであろうことを私も思う。どちらが悪いというものでもないのかもしれないが、ダルメス王家の性格の悪さと不自然な記録の欠落を思うに、何となく人間側に非があったような気がする。かと言って、大人しく蹂躙される訳にもいかないが。


 獣の進行方向で、二手に分かれて待機していた武装神官たちが左右から「聖なる矢」を雨のように浴びせかけた。安全の為、攻撃は十分に離れた場所からしかさせられない。彼らが放つ矢は夜空に次々と弧を描き、厄災に到達しては剛毛の間にさくっさくっと浅く刺さったり、跳ね返されたりしていた。獣の勢いは一向に衰えない。聖なる矢のありがたい威力がいかほどのものか知らないが、見たところ体に止まった蝿といったところだろうか。文句を言える立場でもないが、これ全然効いてない。


「いえいえ。そう馬鹿にしたものでもありませんよ」


 何故私が考えていることが分かった。顔に出したつもりもないのに。


「あの矢はじわじわと厄災の体力を奪い、厄災の動きを多少は制限することを狙って……」


 ふーん、と私は適当に説明を聞いた。前者はどうか怪しいが、後者はまあ、あるかもしれない。だが、風に乗っているかのような厄災の動きを見る限り、過度の期待は禁物だろう。そもそも、厄災はたとえ心臓を深く突き刺しても、しばらくは何事もなく動くと教えてくれたのはお前ではなかったか。


 だから、最後まで気を抜かぬように、と口を酸っぱくして何度も何度も。


「それより、そろそろ」

「分かっている」


 獣はまるで、白き島を統べる麗しの女王の冠飾のごとく、黄金の矢を体中に突き立てて、凄まじい速さで私たちがいる城のすぐそばまで迫る。


 厄災、或いは自然現象なるものは、押しべて迂回などしない。


 だから――ここで跳ぶ。


 獣の前足が地を圧し潰すようにえぐった瞬間、私は露台から跳んだ。同時に、投網の要領で手のひらからありったけの魔力を放出する。


 ――あれ、ちょっと頼りない?


 そう思った次の瞬間、リュカの魔力が継ぎ足され、私が放った膜はぐんと広がった。


「――あなたを一人で戦わせることはしません」


 さすがは大ダルメスの武装神官長。私三人分と言わず、気前よく広がった膜が、耳障りな咆哮ごと厄災を絡め取る。


 そして、こう!


 私は膜を更に引き伸ばし、円柱状のだだっ広い空間にして、私自身もその中に飛び込んだ。


 王都には多くの民がいる。皆に被害を及ぼさぬ為の措置だった。


 私が若干、リュカの手を借りて作り上げた半透明の膜は今、仄かな光を帯びて、ゆらゆらと宙に浮かんでいる。


 ダルメスの善良な老若男女が固唾を飲んで見守るそれは、古来より民に娯楽を提供してきたという円形闘技場そのものだった。


 私をはっきりと視界に捉え、厄災が唸り声を上げる。


 前足が膜の地を蹴った。


 凄まじい速さで横薙ぎに飛んでくる爪をかわし、僅かな隙間から心臓を狙ってドゥミリューヌを突き出す。獣は俊敏な動きで剣先を逃れ、獰猛な爪を再び大きく振り下ろす。私は跳び退って回避する。


 歯を剥き出した獣が再び爪を振るい、私がかわし、獣もまた剣先をかわす。


 私に息つく暇も与えず、獣は同じことを何度も執拗に繰り返した。


 ――嬲られている……。


 獣の口が笑みの形に歪んだように見えた。


 魔獣は獲物を食らう前に遊ぶことを好む。


 こうして散々追い詰めて遊んだ後は、疲れて動けなくなった私を地に押さえつけ、柔らかいヒトの皮膚に牙をくいと引っかけて、生きたまま皮を剥ぐ感触を楽しみたいのだろう。趣味の悪い。


 カスパーが羽ペンをくるくると回すように、私はドゥミリューヌをくるくると回して構え直す。


 私が剣を突き出すより早く、獣の爪が唸りを上げて風を切った。間一髪、私がそれを避けたと知る前に、地上から大きな悲鳴が届く。


 ああ、そうだった。下には民がいる。


 危ないから今夜は外に出るなと神殿が再三通告しているにもかかわらず、無数の民が外に出て空を見上げていた。軽食や麦酒の屋台まで出ているのだから、完全にお祭り気分である。


 上空では、ちょこまかと逃げる私に獣が焦れ、手応えのない膜を激しく震わせた。


 再び下界から悲鳴が上がる。


「頑張ってぇー」という老婦人の激励も、「何やってんだ、そこ右だっ!」という指示も一緒くたになって、地上には妙な熱気が渦巻いていた。


 ――意外と聞こえるものだな……。


 この間も、私と獣は互いに激しく剣と爪を繰り出し、死闘を繰り広げていた。


 民は知らない。


 至近距離にある獣の荒い息遣いも、だらしなく開いた口から覗く牙の大きさも。


 閉じた空間でたった一人、厄災に立ち向かう恐ろしさも。


 だが、それでいい。百年に一度、あるかないかの怪物退治を安全なところから見ているのでいい。王とは所詮、見世物である。


 ――あれ……?


 気のせいかと思ったが、厄災の動きが明らかに鈍くなっていた。手負いを装い、こちらの油断を誘う気だろうか。獣といえど、彼らは人間も舌を巻くほど頭が良くて狡猾である。


 ――違う。


 剛毛の中に突き立てられた黄金の矢が、いつの間にか、黒灰の体に深く沈み込んでいた。獣自身もそれと気づかぬほどゆっくりと、時間をかけて。


 ――あなたを一人で戦わせることはしません。


 さすが。


 厄災はままならぬ体に怒り狂い、一息に私の喉を噛み切ろうとして、一直線に襲い掛かってきた。


 何の捻りもない、単調な動き。


 私は獣を誘うように後ろに倒れながら、ドゥミリューヌを構えて待った。


 獣は私に襲い掛かった勢いのまま、凄まじい速さで抱きしめるようにドゥミリューヌを心臓に迎え入れた。


 ここまでが、一瞬のこと。


 まだ死んでいない。まだ動く。私はドゥミリューヌ越しに魔力を流し込み、最後の力で獣の心臓を潰した。


 勢いあまって心臓どころか体ごと砕け散り、私は返り血と肉片を容赦なく浴びた。


 うそだろ……。


 拭おうにも、袖もおんなじ状況だった。


 はぁ……と私は膜を消し、のろのろと地上に降り立った。


 勝利の喜びより、気持ち悪さが勝っていた。


 顔や騎士服は獣の血と肉片にまみれ、髪も乱れてリボンもほどけかけている。神殿関係者が湯に浸けて絞った布を渡してくれた。礼を言ってそれで顔を拭うと、ほんの少しだけ気分が落ち着いた。


 ドゥミリューヌに付いた血を振るうと、うとうととまどろみかけていたドゥミリューヌが貴婦人のように抗議した。


 ――私は少し眠りたいの。


 ああ、そうか……。


 こんなにすぐだとは思わなかったが、もしかしたら、彼女とはもうお別れなのかもしれなかった。まあ、それもそうか。厄災も撃退したことだし。


 私は彼女をねぎらうように、鍔の部分に口づけた。


 ゆっくりお休み、ドゥミリューヌ。この後すぐにお前を清めて、元の岩に戻してあげよう。お前が次に目覚めるのは、私が死んだ後だろうか……。


 私の首の後ろで、黒いリボンがするりとほどけて風に乗り、夜の闇に溶けていく。


 私はドゥミリューヌを起こさぬよう、ゆっくりと高く突き上げた。


 大歓声が私を包む。


 この日、私は名実ともにダルメスの王となった。

次回、最終話です

なっがい短編でしたね……

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