5.面白い予感
「レオは表情筋がゆるいんだよね」
空は陽が落ちはじめていた。
スケッチがひと段落し、リチェ希望の食堂に向かっている途中、レオの隣りを歩いていたリチェがそっと言葉を転がす。
それは意気揚々と二人に背を向けて進んでいるソアに聞かれないようにするためだということをレオはすぐに気づいた。
「なにする気だ?」
「なにも。表情と、あと口さえ閉じていれば、貴族の替え玉で稼げるのになーって」
眉間にシワが寄るのを感じつつレオは声をひそめてリチェに言葉の意味を問えば、ふと思いついただけ、とでも言うようにふわりとした笑みが返ってきた。
「それは…とうの昔に諦めただろ」
表情、つまり感情がよく顔に出ていると言うこと。貴族として偽るには、その感情を読ませない巧みな表情使いが必要になる。会話も同様に。レオの見た目がいくら貴族に見えようがそれらが使えないのでは全く意味のないものだ。
レオは身をもってそのことを知っている。
ノドの奥で息が詰まったレオの頭の中では、苦い記憶が疾風がごとく通りすぎていた。
まばたきよりも短い時間だったが、レオの気力を削るには十分な時間だった。
リチェも思い出したのか、クスクスと声を漏らしている。
「そうだったね。ただ、今日はなんか面白いことが起きる予感がするんだ」
それはつまり。レオにとって”悪い予感”と言い換えることができる。
すでにげんなりとしていたレオの表情をさらに歪める言葉だ。
視線をレオに止めたリチェは、それはそれは楽しそうに笑った。
せりあがるため息を無理やり飲み込んだレオから見えるリチェの瞳は、キラキラと夜空に星が瞬くように輝いていた。
「着いたぞ!」
リチェの言葉遊びのようなものに付き合って間もなく目的の場所へ到着した。
夕食にはすこし早い時間のためか、客の声は聞こえない。外灯はまだ点いていないが、窓から明かりがこぼれている。外壁は木造、土台は採掘場がある街らしく岩石を使用した造り。特別な装飾があるわけではなく、質素な佇まい。ソアの説明通り、下町の食堂であった。
「思ったより小綺麗だな」
下町の食堂と言っても、ピンキリだと思っていたが、ソアの案内ということもあって期待をしていなかった分、レオは驚いた。
小綺麗さを外観まで手が行き届いている、と言えば聞こえはいいが、観光地ではないこの街では必要とされているものではないと思ったからだ。
そんなレオの素直な感想をもらせば、リチェにすぐさま窘められた。
「レオ、失礼だよ」
「そうだぞ! 知り合いってことで、開店時間早めてもらったんだぞ」
ついでに年少のソアからも指摘されてしまえば、分が悪く、レオは口をつぐんだ。
「じゃあさっそく、お店に入ろうか」
「おぅ! すごくウマいんだ!」
「それは楽しみだよ」
ちりりんとドアベルが鳴る。
相当食べることが嬉しいらしく、ソアがはしゃぎながら勢いよく開いたドアにリチェが続く。
リチェは店の中へ入りきる前、足を止めて振り返る。
「ほら。レオも拗ねてないでついてきて」
どこか居心地が悪く感じ、なかなか進まずにいたレオの気配を察したらしいリチェが揶揄うように声をかける。
「拗ねてないし、入るに決まっているだろ」
ふんとレオが鼻を鳴らして歩き出せば、リチェの唇はゆるりと弧を描いた。
「そっか。なら、よかった」
「そうかよ」
レオがリチェに続いて店内へ入れば、ぎしりと木板がしなった。
ソアの言うとおり、開店時間より早いためか、ほかの客はおらず、店内はカウンター席と四角いテーブル席がいくつかあった。人数によって、テーブルの配置を変えているのだろう。
これから通常の開店時間になれば客も入ってくることを考えると、テーブル席よりカウンターの方が店にとって都合が良いようにレオは思った。
「カウンターにするか?」
「ううん。ソアもいるし、テーブル席の方が食べやすいでしょ」
リチェの言い分もわかるが、開店時間まで早めてもらっているらしい店にとって、かなり迷惑な客ではないのか。
気が使えているんだが、使えていないんだが分からないリチェの言葉に、レオは目線を美味しそうな匂いがする厨房の方へ向けた。そこには白い調理服を着た恰幅のいい男が立ち、ご機嫌取りのように両手をすり合わせながらニコニコと笑っている。
「テーブル席を使っていただいて、かまいませんよ」
直接聞いてしまおうとレオが口を開く前に、男は客商売らしく応えた。
店の者がそう言うのであれば、使って問題ないのだろう。レオも別にカウンターにこだわりがあるわけでもない。
「あなたがこの店の主人なんですか?」
「えぇ。ソアからも聞いております。よくしていただいていると。ささっ気にせずどうぞお使いください」
店主はリチェの問いかけに人好きのする笑顔を浮かべた。
「ありがとう。では遠慮なく使わせてもらおっか」
店主にふわりと微笑みを返しながら、レオに声をかけるリチェ。
只人のような言動を好き好む変わり者とは言え、振る舞いにはどこか上品さを感じる。レオにはつくることのできないもの。
やはり自分には、腹の探り合いより体を鍛える方が性に合っていると、つくづくレオは思った。