4.
ざっざと紙の上を走る、鉛筆の音が聞こえる。
開け放たれた窓からは時折、穏やかな陽射しとともに小鳥のさえずりが流れてくる。
「ふぅ…」
リチェの口から吐息が漏れる。
「ん。終わり」
リチェは鉛筆を置き、満足げに笑みを浮かべながらスケッチを見返している 。
「あーーー。長かったー」
ソアはリチェの言葉を合図に「んー」と腕を左右に伸ばし、固まった身体をほぐすようにひねった。足を上下に伸ばしてぴょんぴょんと野ウサギのように跳ねるソアに気づいたリチェは、ポケットからチャリと音を立てて硬貨を出した。
「お疲れ様。はい、これお駄賃だよ」
「よっしゃ」
警備隊に突き出さない代わりにはじめたスケッチは、数回繰り返す内にソアの棘のある態度も軟化していった。
そうなればデッサンの休憩がてらソアの身の上話が入るのも当然のこと。
気がつけば、こんな風に”お駄賃”なる報酬が発生するようになっていた。
甘い。本当に、甘い。
レオはこぼれそうになるため息を飲み込んだ。
世の中の厳しさを教える、という名目はどこかへ消え去ってしまったのだろう。
その言葉さえ、軽口であったことはギリギリ予想の範囲内であったが、ただ一時の関係であるはずの者にモノを与えることは甘さでもあり、酷なことにもなる。
わかってやっているのか、わかっていないのか。
何年仕えようが、真意を理解することはどんな暗号解読よりも難しい。
「そうだ。ソア、美味しい地元料理店を案内してくれない?」
レオが思考を整えていると、リチェがまたこうして突拍子もない思いつきを口にする。
「はぁ〜? 地元料理って下町の食堂ぐらいしかねぇぞ」
飛び跳ねる足を地面に止めたソアは、どかっと荒々しく椅子の上に腰をのせた。
その様子を楽しげに見たリチェはへらりと笑った。
「もちろん、そのつもりだよ」
「ほんと。リチェって変わってるなー」
行儀悪く椅子の上であぐらをかきはじめたソアは当初の頃に比べて、随分くだけた態度をとっている。
もう少し警戒心があっても良いと思うが、リチェと過ごして無意味だと悟ったのかもしれない。
「頑張ってくれたご褒美に、ソアも好きなだけ食べていいよ」
「それって、おごり、無料ってことだよな!?」
うろんな表情を浮かべていたソアの瞳がキラキラと輝き出す。
心なしか、口元にはよだれが垂れているような幻覚も見える。
「もちろん。食べきれなかったら持ち帰ってもらっても良いよ」
「よしきたっ! 男に二言はないからな!」
リチェの返事に、興奮しながらにパチンと指を鳴らしたソア。
「ないよ。だから、とびきり美味しいお店を紹介してね」
「まかせとけ!」
人の良い笑顔を浮かべるリチェと、鼻息荒く胸を張るソア。
レオはしみじみ、本当によくも懐かれたものだと2人を傍観する。
「あぁ、それと、レオのことも忘れずにね」
楽しげに目元を緩めるリチェと目線が合った、かと思うとリチェの唇はなんとも間抜けな言葉を転がす。
護衛は対象者の危険から身を守るのが仕事だ。
リチェの発言は、そんな根本的で基本である仕事を放棄すると同意のことである、護衛対象から離れてしまうことになる。
レオは、なに言っているんだと眉間に力が入る。
「あっ! 忘れてた!」
「なんでだよ」
思わずレオは口を開いてしまった。
あまりにも予想を遥かに超える間抜けな生き物がいたのだかから、仕方がない。
そう脳内で理由を連ねて、自分の言動について弁護をする。
「あはは。こんな”傾国の美男子”とも言われるレオの存在を忘れるなんて、ソアは大物だね」
声を上げて笑うリチェ。
レオの眉間にしわが寄せた。レオは自分の見た目について散々、人に言われてきたし、自覚はある。そして不名誉な呼び名だとも思っている。だから、忘れていることについて非難的な言葉が飛び出したわけではなかった。
どれだけ同じ部屋で、長時間に共にしていたか、それを忘れているのか。いくら言葉を発していないとは言え存在を忘れているなんて・・・しかし護衛として目立たずにいることの方が優れているとも言い換えることができる。そう納得できる説明が思いつきながらも、レオはなんともに納得いかない気持ちがくすぶってしまうのであった。
「見た目はスゴいけど。美人は3日で飽きるってみんな言ってたよ」
「そうだね。とても真理だよね」
悶々と考えを巡らせるレオ。
リチェとソアは、うんうんと自分たちの言葉で頷き合う。
そこでレオはハッとする。
「待て待て。美男子である俺を忘れたことを不服に思っている、という前提で会話を進めるな!」
いろいろと指摘したいことがあるが、現在進行形で固まりつつある誤った思考はいまここで停止しなくてはいけない。
そう言った考えからの発言ではあったが、リチェとソアの二人がレオの言葉に顔を見合わせてから、視線を再びレオへ向ける。
その眼差しは、残念な生き物を見るように生暖かい。
「っとに、お前ら楽しそうだなっ!」
一杯喰わされた。とレオが気づいた時には遅い。
モデルと画家という静かな時間の中で、よくぞコンビネーションを高めたとも称えることもできるが、レオには取っては面倒この上ないものである。
レオは、なんとも言えないフラストレーションを机の上に拳を当てることで発散する。
二人はパチリとまぶたを瞬かせた。
そして、ふっと息が漏れる音をレオの耳が拾った。
「あはは」
「レオって面白いやつー」
年端もいかない少年に「面白い」と言われ、レオは唇を強く引き結んだ。