旅立ちの日
いろいろあったが、結局ナタリアはマクシムを雇うことに成功する。
ナタリアとしては、ゾーエ・マルタンが失神するような事態はかなり悪印象を与えたはずで――最早ほとんど脅迫と受け取られても仕方ない――それでも挽回できたのは、必死に謝ったからと支払うお金を可能な限り高くしたからだった。
それと、竜という視覚的なインパクトはやはり大きかったようだ。
本当に英雄に関して何かがあり、よく分からないがマクシムの力が必要なんだ、と。
ただ、今回やってきた竜はリトル。最も幼い竜であることは伝えなかったが、それでも十分すぎるほど巨体であった。
ちなみに、ゾーエはナタリアのことを警戒していた理由がもうひとつあった。
「あのさ、ルチアちゃん、あのマクシムのこと本気で好きだからさ。あんまり傷つけないようにね。多分、これ分かっている人、うちの姉妹と私くらいしかいない気がするけどさ」
という要望を言っていた。
ただ、ナタリアとしてはどうしようもない気もする。
傷つける気がなくても、恋愛は奪い合いな一面があるから……。
「それは難しいかと……」とナタリアが言うと、
「分かっているけどね、あたしもいろいろあったし」とゾーエは苦笑した。
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本日、マクシムたちが旅立つことは特に伝えていなかった。
だが、何故か、その場にはマクシムの自称婚約者──ルチア・ゾフが待機していた。
マクシムは不思議に思いながら問いかける。
「えーっと……ルチアちゃん、どうして?」
「それは婚約者だからです」
どうして、とだけしか聞けなかったし、そもそも、答えになっていないが、よく分からない説得力があった。
マクシムはとりあえず注意する。
「学校は大丈夫?」
「今日はお休みです」
「あれ? でも、妹たちは登校していったけど」
「授業ではないです。二人とも最近クラブ活動をしているです」
「そうなんだ。何のクラブ?」
「内緒です。口止めされているです」
「そうなんだ……」
全然聞いていないが、最近兄離れの著しい二人だから教えてくれないのも仕方ないのか。
一抹の寂しさを覚えながら、マクシムは更に訊ねる。
「で、どうしてここにいるのさ」
「それは婚約者だからです」
会話がループしている。
そこでルチアはゴホンと咳払いする。
「ところで、ナタリアさん、ズルいじゃないです?」
「え? ワタクシ? 何がでしょうか?」
「マクシムさんを独り占めしたいから雇うなんてズルです」
「いや、そういうわけではありませんの」
「じゃあ、どういうわけです?」
「えーっと、それは……」
「答え、教えて欲しいです」
ナタリアが押されている。実際、彼女はルチアを警戒して引き離したいという意図がなかったわけではないからだ。つまり、図星。
そこで、マクシムは助け船を出す。
「いや、実はこれ、元々僕の案件というかね。いろいろ知りたいことがあってね」
「『案山子』ですよね。分かっているです」
「「え」」
何かとんでもないことを言われて、マクシムとナタリアは固まる。
いや、聞き間違いかもしれない。『案山子』ではなく、何だろう。似たような単語は思いつかないが、ルチアに分かるわけがないのだ。
聞き返そうとする前に、ルチアは言う。
「ところで、マクシムさん。ちょっとゴミがついているです」
「えーっと、いや、それはどうでも良くて」
「どうでも良くないです。身だしなみは大切です」
「いや、そうだよね。どうでも良くないか」
パンパンと埃を払おうとするが、ルチアは仕方ないなぁ、と笑う。
「ほら、襟元です。少し屈んで欲しいです」
「あ、うん、ありがとう」
マクシムが屈んでゴミを取って貰おうとした時だった。
ルチアは背伸びをして、そのままチュッとキスをしてきた。
柔らかくて温かい小さな口づけ。
すごく不器用なキス。
とてつもなく甘い未経験の感触にマクシムは固まる。
そして、ナタリアも固まる。
それは本当に一瞬の触れ合いで、ルチアはすぐに離れた。
彼女は年齢不相応の妖艶な笑みを浮かべる。
それは年下の少女とは思えないほど、艶があった。
「「え」」とマクシムとナタリア。
マクシムは何も言えなかった。ただ、口元を押さえるしかない。
ナタリアも固まっている。ただ、顔面蒼白になっている。
ルチアは二人に宣言するように言う。
「ルチアはマクシムさんの婚約者です。忘れないで欲しいです」
マクシムは返事もできないで、曖昧に頷いた。別に同意したわけではなく、反射である。
ルチアはそれから「ではではです」とそそくさとその場を後にする。
もしかしたら、それなりに照れていたのかもしれない。ちょっといつもより早歩きだった。
嵐のような出来事。
そして、ナタリアと目を見合わせて、再度呟く。
「「え」」
それらの光景を背後で黙って見ていたシラは「あーあー」と嘆息した。




