祈り
ナタリアは祈りを捧げる。
祈りの対象は過去にこの世界を去ったという神様などではない。
そんな不誠実なものに祈ることはない。
彼女は真摯に――曾祖父の武運を、そして、マクシムの幸運を祈っていた。
まだ彼らが出撃しそれほどの時間は経過していなかったが、おそらく既に交戦状態にあるだろう。
ナタリアは十一年前、父母や従兄たちが亡くなった時のことをうっすらと記憶している。
夕方くらいから騒ぎ出し、そして、すぐに出撃していった。
出撃していたのは半日にも満たない時間で――これは後から記録を確認したのであって記憶していたわけではない――、一家総出で対応に当たった。
留守番をしていたのはナタリアとニルデ、そして、家政婦として雇われていたシラの母親。あとは体調不良で寝込んでいたアメデオ。
ナタリアたちに詳しい状況説明はなされなかった。
仮に説明されたとしてもまだ幼く理解できなかっただろうし、そもそも、その時間もなかった。
ただ、何が起きているのか分からないながらも、ニルデと一緒に興奮して眠れない夜を過ごした。といっても、実際にはすぐに寝てしまったのだろうが、何か凄いことが起きていることだけは理解していた。
それでもナタリアは明確に覚えている。
あの勝利後の笑顔。
そして、絶望を。
昼くらいに帰ってきた後の楽しい祝杯も、その後に苦しみだした家族のことも覚えている。
本当にとても長期間の出来事だった気がするが、記録を確認すると全ては数カ月に満たない間のことで、幼子にとっての時間感覚による錯覚もあるだろう。
しかし、紛れもなくあれは重大な出来事だった。
少しだけナタリアは想像したことがある。
仮にあの時、アメデオも出撃し、共に死亡していたらナタリアたちはどうなっていたのか?
案外、シラの母親が面倒を見てくれた可能性もあるが、シラの母親もシラを産んだ後、肥立ちが悪くてすぐに亡くなってしまった。
ちなみに、シラの父親は元から分からない。
おそらくは行商人の誰かだったとは思うが、今も不明である。
つまり、まだ幼い彼女らではどうしようもなかった。
もしかしたら、『士』が後見人になってくれたかもしれないが、それもアメデオの存在があればこそ。
もしかしたら、ナタリアたちは『竜騎士』の血を引くがゆえにイーサンのように『士』の一員になっていたかもしれない。
その場合も自分は不要かもな、とナタリアは自嘲気味に思い、それ以上の想像を重ねることはしなかった。
ワタクシは『竜騎士』ではありません。
『竜騎士』にはなれませんでした。
不安からネガティブに流れる思考。物思いに耽っていると、シラが心配そうに話しかけてきた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「シラ、ええ、大丈夫ですわ」
「ごめん。大丈夫なわけないのに大丈夫って訊いた」
「そんなことはありませんわ。心配してくれてありがとう」
ナタリアは微笑んで首を横に振る。
正直、シラが同じ部屋にいることもあまり意識していなかった。
これでは駄目だ、とナタリアが反省していると。
ピーピーという――何か機械音が聞こえた。
それはシラのポケットからだった。
シラはポケットから何やら機械を取り出した。
「シラ? それは?」
「これ、おじいちゃんから渡された」
「それは無線機ですよね」
「うん。ここ押したら使える」
だが、シラの言葉は不足しており、そのボタンを押すことでこちらから送話できるというのが正確である。
故に、通信自体は向こうから一方的に話しかけてきた。
『聞こえる!? いや、聞こえてなくても良いから話すね!』
それは切迫した、マクシムの声だった。
「マクシムさん!?」というナタリアの声は彼には届かなかった。
彼は一方的に話し始めた。
『今、交戦中。で、死にかけている。いや、一回倒して、同じ敵かと思ったら、アメデオさんとか少佐の能力を把握した、よく分からないけど、強い敵で』
マクシムは早口に怒鳴るようにまくし立てているが、その背後では明らかに爆発音。
きっと声を届けるのにも必死なのだろう。
それに最初に言われたことで状況は分からないなりにも分かった。
苦戦して、敗北しそうになっている。
ナタリアは聞き返したくなる気持ちをグッと抑えつける。
『今回の敵、『魔王の眷属』、腕みたいなの、あれ、本当に意味分かんないけど、とにかく防御も攻撃もさっきまでとは全然違って、アメデオさんがどうにか耐えているけど、少佐は足が吹っ飛んで、今止血していて。いや、そんなこと言われても困るか。僕もできるだけ船を植物で耐えられるように、浮力とか耐久力とか、でも、多分、もうあんまり保たないし、というか、聞こえているのかな、これ?』
「ええ、聞こえておりますわ」
『ああ、ナタリア……。やっぱり聴いてくれたんだ。ありがとう』
それは万感を込めた吐息ととても嬉しそうな声。
その中に、何か今まで味わったことのない手触りがあった。
ナタリアは考えてみるが、その正体が掴めなかった。
未知の触感、ただし、何か馴染みのあるもの。
ただし、残念ながら深く考える時間はなかった。
マクシムは同じ声色のまま続ける。
『多分、僕ら勝てないと思う』
「それは、それは冗談でございますよね。ひいおじい様がいらっしゃるのに……」
『うん、そうだね。冗談みたいな話だよ』
「ごめんなさい。その、続けてください」
『うん、だからさ、増援とかも間に合わないと思うんだ。でも、水際でくい止める必要があるからさ。お願いできるかな、伝言を』
そこでナタリアは気づく。
彼の声音に含まれているものの正体に。
それは諦観。
マクシムは生きることを諦めていた。
『ナタリア?』
「だ、大丈夫ですわ! まだ間に合います! お姉さまがいますもの!」
『それは次の『武道家』が、今この場に現れるってこと?』
「そうですわ! きっと助けに来てくれるはずです!」
姉は、ニルデ・サバトはそういう人だった。
ナタリアたちが困っていたら必ず助けに来てくれた。
彼女は『武道家』になってまで力を求めた。
絶望的な困難を前にして、姉が今、この場に現れないわけがない!
ナタリアが信頼感からそう言うと、マクシムはとても優しい笑い声をあげた。
『そっか、それは卑怯だな。この状況で助けられたらきっと僕はニルデのこと好きになっちゃうよ』
「好きになって下さい! お姉さまは卑怯なのです! 卑怯なくらいカッコ良い人ですから! この状況で助けに来ないなんて――」
『――うん、そうかもね』
「――っぅ」
マクシムの背後では爆発音。
更に、誰かが発した苦悶の声。
無線の先は明らかに地獄だった。
声でつながっているのに、その温度差は明らかで、自分が現実逃避し、ただの願望を叫ぶだけということに気づいて――ナタリアは絶句する。
お腹の底が冷たくなる。
それはあまりにも恥ずかしいことだった。
「ごめんなさい……その、ごめんなさい……」
『何のことさ。それよりもさ』
「はい」
『お元気で』
それで無線は途切れた。
「……え」
それは最期に残す言葉としてはあまりにもアッサリとしていた。
ナタリアは、最期という言葉を考え、自分にゾッとする。
彼女は震える足を叱咤し、どうにか絞り出してシラに言う。
「……イーサンですわ」
「え?」
「シラはイーサン経由で『士』に連絡を。どこかで重複しているかもしれませんが、念押しでひいおじい様たちの危険を伝えてください。それは無駄ではありませんから」
「ナタリアおねえちゃん、どうするの?」
「ワタクシは、もう一度、できることをしますわ」
二人で頷き合い、ナタリアはすぐに家を飛び出した。
もうかなり竜に食べられた草原を横切り、いつも竜たちのブラッシングをしているところまで辿りつき、彼女は叫んだ。
「お願い! 助けて! ワタクシたちを助けてください!」




