空、強襲
カゴから見下ろす世界はひどく遠く感じられた。
というより、竜の足につけられたカゴに入っているという状況からして、まるで現実感に欠けていた。
どうしてこうなった。
何を間違えた。
マクシムはひたすらそんなことを考えていた。
かなりの速度が出ているはずだが、風をほとんど感じないのも現実感の喪失理由のひとつかもしれない。
竜に直接触れることもできたが、なんとなくマクシムは避けていた。
カゴに大人しく小さくなりながら、世界を見下ろし、ひたすら考えていた。
『魔王の眷属』との戦闘は間違いなく死闘になるだろう。
『竜騎士』アメデオ・サバトが難なく勝利することを祈るばかりである。
それにしてもかなりの高度で飛んでいるため、下界の景色がよく見える。
他にできることもないので、外を見るくらいしかできないのだ。
街まで普通に歩けば二日はかかるという話だったが、竜の飛行速度はとてつもなかった。
ジャーダ鉱山から街をあっという間に通過し、海に出る。
正直、ずっと陸地が続いて欲しかった。
『魔王』の眷属との闘いなんて参加したくなかったし、そもそも、海はあまり見たことがないのでなんとなく怖い。
湖や川とは違い、水がずっと続くという環境がマクシムにはあまり理解できない。
水が塩辛いという話は知っているが――実際、塩田は少しだけ見学をしたことがある――どうやったらこんなものができたのか、あまりの広大さに慄いている、と。
「もう少しで到着するぞ」
「え、会話できるんですか」
「声に魔力をのせればな」
「僕、そんなことできないんですけど」
「わしの方が聴力を強化したんだよ」
正確には聴覚を強化したというのは、耳を強化したわけではなく――鼓膜を物理的にのばせるわけではない――空気の震えを魔力で検知し、余計な音を排除したのだが、そこまでアメデオは説明しない。
そもそも、『竜騎士』は騎乗した竜を強化するだけでなく、竜による力のフィードバックもあった。
魔力的にも、身体能力的にも通常時とは比較にならない。
そうでなければ、高速で移動する竜に平気で騎乗することなどできない。
アメデオは『竜騎士』としている時は超人なのだ。
そして、実のところ、彼が長命であるのはその恩恵もあった。
アメデオはボソッと言う。
「見えたな」
「……何が?」
「分かるだろ、反射している」
マクシムは今度は何が、とは訊ねなかった。
遠く見える海が反射していた。
薄い虹のような光が見えた。
「あれ、何?」
マクシムの問いに答えはない。
徐々に高度が下がり、何が起きているのか理解できるようになったからだ。
油だ。
海の上を油膜が張っている。
そして、その辺りを木材と鉄材が浮いている。
更には明らかに人の残骸のようなものも浮いている。
死体だ。
かなりの数だ。
マクシムは言葉を失う。
腹の底が冷える感覚に襲われる。
唾を飲み込もうとするが、喉がカラカラで失敗する。
恐怖がこみあげていた。
ここが死地であると、ゴミのように浮く死体で強制的に理解させられていた。
凄惨な現場の上で滞空しながらマクシムはしばし言葉を失う。
アメデオは注意深く周囲を睨みつけている。
マクシムは死体から目を逸らし、どうでも良い疑問を口にする。
「あの油は?」
正直、答えが欲しかったわけではないが、アメデオは答えてくれた。
「燃料だろうな」
「船、だよね」
「軍船、あとは飛行機もあるようだな……」
「戦って、負けたってこと?」
「ああ、『魔王の眷属』と戦うためには力不足だったようだな」
「でも、軍船や飛行機だよ? 強力な大砲とか爆弾とかあるんじゃないの?」
「人類は、まだ、遠距離武器に魔力を込める技術を確立していないからな」
「魔力を込めた武器じゃないと戦えないってこと?」
「とも限らんが、高位存在になると例外はほぼないな。お、いたな」
そこで、アメデオは何かに気づいたようだった。
キンバリーを操り、そちらに移動する。
向きが変わったことでマクシムにも見えた。
船、いや、砲台が備わっているし、軍旗も見える――軍船だ。
ただし、それほど大きくはない。
小さいが、鋭角な船首からして速度の出そうな船だった。
少し離れた海域の軍船に向かっていると、アメデオが言った。
「下すぞ」
「え」
言葉の一瞬後に浮遊感。
マクシムは魔力の誘導で、空中に投げ出されていた。
マクシムは悲鳴もあげられない。
かなりの高度から投げ出されて、「あ、死ぬ」という思考に捉われていた。
ただし、浮遊感は長く続かなかった。
何らかの力場が働き、ゆっくりと軍船へ運ばれる。
酷く頼りないが、マクシムはホッと安堵の吐息――墜落死はなさそうだ。
軍船上の船員たちが騒いでいるが、それはマクシムよりもアメデオとキンバリーに向けている視線が多い。
ただ一人だけ、明確にマクシムを見ている者がいた。
「…………」
背は低そうだ。
マクシムと変わらないくらい小柄に見える。
彼の服装――ロングコートがパッツンパッツンに見えるほど太っている。
ただし、顔にはそこまで肉がついていないのが奇妙だった。
そして目を引くのが、彼の腰にある一振りの剣。
容姿は異なっているが、服装は以前見た『士』見習いのイーサンと似ていた。
もしかしたら、あの人は『士』の人間か、と軍船に着地する瞬間には落ち着いていたマクシムは冷静に考えていた。
他の船員たちは遠巻きにしていたが、その男だけは気軽に話しかけてきた。
「やぁ」
「はい、どうも」
「君はアメデオさんの、仲間。増援なのかな」
パッと見て若そうな雰囲気があるが、その男は三十半ばくらいに見える。
どこか眠そうな目で、人の好さそうな笑みが顔に張り付いている。
ただし、警戒しているのか、少しだけ重心が低い。
それはいつでも剣を抜ける体勢だが、マクシムはそういう微妙な違いに気づけない。
マクシムは首肯する。
「えーっと、一応そのつもりです」
「ふーん、君みたいな子どもが……。アメデオさんが連れてきたなら大丈夫なんだろうね。ですよね、アメデオさん」
「ああ、そうだな」
アメデオは上空で待機したまま、普通にそう応答してきた。
魔力に声をのせることで、距離に関係なく会話が可能となる。
「この度はご助力、誠に感謝します」
「なに。『士』で対処しているのは、お前さんだけかい? ピッキエーレ少佐」
「あ、嬉しいな。英雄に覚えられているなんて光栄ですよ」
「十四人しかいない『硝子の剣』を授けられた佐官だ。さすがに覚えているさ」
「でも、自分、他の人たちに比べると地味ですから」
「『猪』は地味じゃないだろ」
「その二つ名、あまり好きじゃないんですけどね」
マクシムは先ほどの海域の凄惨な現場と、呑気に雑談をしている二人との落差でクラクラとした。
現在の状況を確認するため、しかし、何を問いかけて良いか分からずマクシムが迷っていると、
「で、敵は?」
「明確な敵は一柱。自分たちはブラッチォと呼称しました」
「古い言葉で腕か。腕に特徴があるのか?」
「いえ、腕だけしかない生き物です」
「なるほど、それは厄介だろ。剣法が通用しそうにない」
「ええ、急所も分からなければ、視線誘導も通用せず、体重移動も不明だから動きも読みづらい。あれは厄介な敵です」
「他の『士』は?」
「今のところ自分だけです。多分、他の奴らは間に合わないです」
二人は状況確認を始めた。
「しかし、一柱ということはないだろ」
「考えらえる理由はいくつかありますが、一柱だけでこちらを制圧できる自信があるんじゃないですかね」
「それくらいの個体か……本当に厄介だな。十一年前は物量で押しつぶしに来たようだが、戦力の逐次投入が無意味というくらいには強いんだろうな」
「ええ。ま、すぐに分かりますよ」
その次の瞬間だった。
ピッキエーレ少佐の手が動いた。
次の体勢は剣を抜き打った体制で、先ほどの背面を向き、キィィィィィンと何か硬質な音が響いていた。
マクシムは見た。
その剣は刃の部分がなかった。
いや、それはマクシムの目に見えないだけで、刀身が人の目には見えないほど透明なのだ。
実際の素材は異なっているが、故につけられた名前が『硝子の剣』。
世界で十四振りしか存在しない、最も卑怯な対人武器。
それを使って、ピッキエーレ少佐は敵の攻撃を防御していた。
敵——―ブラッチォの攻撃を打ち落とした体勢で、ピッキエーレ少佐は言う。
「ほらね」
非常に軽い口調だったが、ピッキエーレ少佐の視線の先。
部下であろう船員が上半身を消し飛ばしていた。
しかも、その数三人。
彼の剣の届かない範囲に攻撃を受けた船員が殺されていた。
だから、ピッキエーレ少佐は穏やかな口調のまま――激怒していた。
その怒りに呼応したのか、キンバリーが威嚇の声をあげた。
ピッキエーレ少佐は依頼する。
「反撃、お願いします」
アメデオは即答する。
「承知した」
そして、戦争が始まった。




