『武道家』の現在 その二
それは異常だった。
異常すぎる成長だと言えた。
ディアナ・フェルミ大尉はその動きを見ながら絶望めいたため息を静かに吐く。
もちろん、実際に何か望みが断たれたわけではないが、戦闘技能者としての差を感じて漏れてしまった。
『武道家』の本気の鍛錬を目にし、圧迫感を受けていた。一歩引くほどではないが、直視し続けるのはしんどいくらいの具合だ。
「疲れているのか?」
「え」
「吐息に疲れが含まれている」
音を出さずにため息を吐いたのに悟られてしまった。
ディアナは再びため息が出そうになるのを押しとどめるために、呼吸を鎮めようとする。が、そのせいで意識をしたせいで呼吸のリズムが不規則になる。
苦しい。
が、どうして自分が苦しまねばならないのか。
ディアナは深呼吸に意識を集中することで『武道家』を思考の外に追い出す。十分に時間をかけ、落ち着いてから観察を再開する。
今代の『武道家』は若い男の子だった。
どれだけ多く見積もっても十代前半にしか見えない。下手したら一桁の可能性さえある。
幽閉されて十分な休息は取れていないはずなのに、肉体がまだ幼いためか、背も伸びるし、骨格自体も大きくなっている。
過酷な生活を送っているが、ただし、その過酷さは牢獄に幽閉されているからだけではなかった。
『武道家』は鍛錬を続けていた。
常人では耐えられない強度の鍛錬を、両手首足首に鎖のついた錠がはめられたまま行っていた。
その手錠足錠は現存する最も堅固な封印だ。
かの『獣姫』にも同種が施されている、獣縛封印最上位のもの。
この封印は最強の魔獣である竜でさえ行動を縛れる強度を誇る。らしい。
魔法か呪法か不明だが、鎖の先は虚空に消えている。
どこにつながっているかをディアナは知らない。
『武道家』は一年ほど前まではその封印で動けなくなっていた。それが今はどうか。
現在の彼は逆立ちをした状態で腕立て伏せを続けている。しかも、人差し指と親指の二本だけでしか体重を支えていない。最初ディアナは横目で数えていたが、千回を超えたところで諦めた。キリがない。
通常ではありえない鍛錬を当然のようにこなせる、異常なバランス感覚と筋力と持久力である。
英雄として、人類種の領域を遥かに超越していた。
「……これでは負荷が軽すぎるな」
「は?」ナニヲイッテイルノコノヒト?
「この手錠足錠も意味がなくなってきたな。知っているかい? 元々この錠の先――つまり、虚空の先では、異世界の凶獣がつながれているそうだ。どういう生き物かはこちらの世界に引きずり出さない限り分からないが、強大な力を持っているらしい。
相反する存在の獣につながれることで体力を吸い取る封印だ。言い換えると体力を吸い取る法則を知り、それに適応すれば良いだけだ」
『武道家』は獣縛封印について淡々と説明をしてくれた。獣を縛る結界は獣と縛る結界だったらしい。
ただ、それに対してどうコメントすべきか、ディアナは皆目見当つかなかった。
「適応って……」
「つながった縁がある以上は影響を与えあう。そこから感じられる気を整えることでその影響を抑える……いや、反発すれば吸い取られるから同化するというかな。色を混ぜる感覚に近い。俺にはこんなことができるという概念さえなかった。こうやって安全な環境でその業を追求できたから、ここに封じられて感謝している」
「それは強がりですか?」
「本音だよ。こんな高負荷の修業は得がたい。ここまでの負荷はなかなか実現しないんだ。そうだな……比較するなら、竜との殴り合いと同等の負荷だな」
ディアナは昇任試験で見たあの竜たちの姿を覚えている。生き物としての格が違う。同じ場にいれば空気さえも震える畏怖の対象。
最強の魔獣は生物として人類種を圧倒している。
『士』でも単騎で戦闘できる人間は片手に満たないだろう。チームで組んだとしてもかなりの難敵。命がけの戦いになる。
――それを修行相手としか見ていない。
つまり、視点が違いすぎた。
「そろそろ、終わりだな」
終わり? と問い返すことができなかった。
『武道家』は淡々と事実を語るような口ぶりで続ける。
「ここでの生活も終わりだ。これ以上の実りがなければここにいても意味はないからな」
「っ」全力で平静を保ちながら「ここは『士』の中でも最堅牢かつ最深部です。脱獄できるとでも思うのですか?」
「俺にはどれほど堅牢かつ深部になっても無意味だ。俺には拘束も封印も最初から意味がない。知らないのか、俺の能力を?
死ねばこんなもの何の意味がある?」
『武道家』は鎖をつまみながら言った。
言われてみれば当然だった。ディアナはこの最高位の獣縛封印に何の意味がなかったことを知る。
死を恐れず転生を繰り返すことができる人間はどこへでもどこまでも逃げられる。
別人になってしまえば追うことさえも難しい。
いや、違う。
これは封印ですらなかったのだ。
考え方が根底から間違っていた。
ただ修行のための装置。
『武道家』にとってはある種の娯楽だ。だから、完全に克服するまでこの場に留まっていただけなのだ。
「フン!」
どうやったのかは分からない。
だが、『武道家』の封印が、両手首足首から離れ、その場に落ちた。金属が跳ねる甲高い音が響く。
『武道家』は両手首をさすりながら言う。
「ああ、そうだ。伝えたいことがあった。ほら、あの特務大尉。犬じゃない方だ」
「ジャンマルコ特務大尉?」
「そうだ、彼だ。彼に伝えてくれ。俺は完敗した。次はこうはいかない。リベンジさせてもらう。とね」
『武道家』はほとんど病気だ。
呼吸をするように戦いたがる戦闘狂。
その嬉しそうな顔を見ながらディアナは一歩下がる。それはおそれからくる本能的な一歩。
逃げられて責任を取らされるのは運が悪すぎる。
「特務大尉と戦いたいならこの場にいてください。すぐに呼べるか保証はできませんが、数日以内には呼びますから」
「この場じゃ勝ち目がないことは想像できているからな。状況を整えるためにここを離れるよ」
「特務大尉にまた負けて捕まえられるなら逃亡意味ないと思うのですけど?」
「その場合はまたここにお世話になるだけだよ」
「うちの牢獄、ホテルじゃないのですが……」
「意外と快適なんでね」
「どんな社会不適合者ですか」
「ははは、英雄に対して無礼だね」
「無礼な態度を取られることが不満なら大人しくしてください」
「断る」
「なら、嫌味くらい言われて当然でしょう」
確かに。
そう笑いながら『武道家』はまるで子どもが紙を片手で突き破るように、鉄筋コンクリートを軽々と引き裂いた。
――『武道家』脱獄。
最強の男が野に放たれた。




