聖櫃
マクシムがルチアを抱きとめていると控えめなノックがあった。
「そろそろ構わない?」
マクシムは居住まいを正し、ルチアも一生懸命紅潮した頬を冷まそうとしている。
顔を見せてきた『大魔法つかい』クラーラの顔も何故か赤かった。視線がさまよっている。
マクシムが半眼で訴えかけたのは照れくささをごまかした面もあった。
「……覗き? 悪趣味だと思うんだけど」
「の、覗いているわけなんてないし! バッカじゃないの! あんたらがイチャイチャしてんのが悪いでしょ!」
「ちょっと舌を入れただけなのにそんなに叫ばないでよ」
「はぁ!? そこの女の子が感極まってあんたに抱き着いただけ――あ!」
自白が取れたところでマクシムは満面の笑みを浮かべる。可能な限り優しく言う。
「『大魔法つかい』さまは大変覗きがお好きなようですなぁ。英雄なのにえっちですねぇ。驚きの真実ですわぁ。まぁ、恐い」
「あんた、アダムの子孫だわ! 間違いないわ!」
ルチアは静かにしているのは呼吸を整えるのに必死だからだ。首筋まで真っ赤になっているので会話が届いていない可能性もあった。
「冗談はともかくとして、どうしたの?」
「別に……そろそろ話が終わったなら、あたしともお話をしようってだけ」
「そんなに会話に飢えていたんだね」
「全っ然違うわよ! さっさと終わらせたいだけ! あんたたちにお帰り願いたいだけだから!」
クラーラからすれば招かれざる客というやつなので当然かもしれない。
ただ、マクシムの軽口を叩くという賭けは奏功したようだ。何となく彼女は怒りで肩の力が抜けたように見える。
少なくとも先ほどまであったある種の張りつめた空気感は消えている。
「そういえば、以前よりクラーラさん、若いというかなんていうか分からないんだけど、若返りの魔法でも使ったの? 前は二十歳くらいに見えたんだけど……」
「あたしが何歳か知らないでしょ。いや、そもそも、いつ見たのよ?」
「『案山子』の作ったヒトガタで」
あれは少佐昇任試験が終わってから少し経ってあったこと。ミッチェン・ミミックのもうひとつの人格であるハセ・ミコトが生み出したクラーラのヒトガタと会話をした時の話だ。
今目の前にいるクラーラはかなり幼い少女に見える。
多めに見積もってもルチアより少し年上程度だ。つまり、十代前半だ。
だが、あの時のクラーラは二十歳くらいに見えた。
クラーラは得心したのか一回頷き、その後に首を横に振った。
「それはしょせんヒトガタだからで済んじゃう話だけど、もうひとつ補足するなら仮想人格だからね」
「え? 下層?」と聞き慣れない単語だったのでマクシムは聞き返した。
「ハセの創るヒトガタを完全に防ぐのはあたしでも不可能に近いの。で、そういう時のための生贄というか、あたしの一部を身代わりにするの。それが仮想人格」
「じゃあ、あの時の会話は完全に偽物ってこと?」
「いいえ、そこまでごまかせるならあの『案山子』を完全に防いだってことでしょ。それは無理なの。あたしの一部であることは変わりないわ。ただ、自動的だからどうなっているのかあたしにも分からないの」
「自分でも分からないなんてことがあるの? 本当に?」
「どうして疑うのよ。自分では制御できないからこその身代わりでしょ。あたしは『案山子』の殺人能力をほぼ無効化するためにそういう一種の断絶を選んだの。で、どんなことを言ったのか教えてくれない」
マクシムは思い出せる限りのことを説明した。
クラーラは「ふーん」と頷いた。
「なるほど、あたしの罪悪感が強く表れたみたいね。『料理人』を殺すしかなかった罪悪感。人類の感情は多面的だからそういう一部があるのは否定しないわ。でも、それだけじゃないかな」
「じゃあ、他にはアダムに対してどう思っているのさ」
「怒り、哀れみ、嘆き、いろいろ混ざっているわね。でも、確かに罪悪感を引き当てる可能性が高いでしょうね」
正直、あんたには会いたくなかったわ、とクラーラはボソッと言った。
マクシムは逃げるように視線を逸らす。避けたい相手とされるのは気まずい。
マクシムはアダム・ザッカーバードによく似た容姿をしているらしいので、特に罪悪感が刺激されるのだろう。
「じゃあ、成長していたのは?」
「そちらはルチアが解説した方が良いかもしれないのです」とようやく平静を取り戻した――まだ顔は赤らんでいるが――ルチア。
「クラーラさまは無意識だった可能性もあるかもしれないのです」
「無意識? あたしにも分からないってこと?」
「本来のあなたはそれくらい成長していたはずなのです。幼年期の終わりを前にして孵化してしまった究極の一が『大魔法つかい』なのです」
ルチアの言葉でクラーラは得心したのか、ひとつ頷く。そして、どこか自嘲的な笑みを浮かべた。
「……あんた、本当に『予言者』より優秀でしょ。ま、そりゃそうか。二人だけで暗黒大陸の深部まで来れたわけだもんね。優秀を超えて怪物だわ」
「二人きりではないのです。ギンがいなければ不可能だったです。それに、勇者たちの戦いの恩恵もあるのです。そして、クラーラさまのそれは誉め言葉ではないです」
「正解。ちょっっっと腹立つもんね」
本当に気分を害しているわけではないのだろう、クラーラは苦笑しているし、口調も柔らかい。
ルチアは少し視線を鋭くした。
「『聖櫃』は『幻想境』にあるです。ここまで運んできたのです?」
「うん、捨てるわけにもいかないしね」
「深海に封じるのはどうです? 火山に沈めるでも、もう二度と浮上しないと思うです」
「しないわよ、そんなこと。別に捨てたいわけではないもの」
知らない単語で会話を続けられるのは辛い。
『聖櫃』? いきなり何だ?
マクシムがそう思っていると、クラーラが言う。
「マクシムは知らないんだね。あたしが『大魔法つかい』って呼ばれている理由も」
「はいです。マクシムさんは基本的に何も知らないです」
「上手く情報操作しているのね。『予言者』の後継者らしいわ。で、マクシム。あんたさぁ、何も知らないのに命がけの旅って怖いんだけど。愛? それとも、バカ?」
「愛です!」ルチアは勢い込んで叫んだ。
「どうしてあんたが答えるのよ」とクラーラはあきれ顔。
「いや、良いからさ。アークってなに? 一つずつ教えてよ」
「大した話じゃないけどね。あたしが魔法使いたちの祖というだけよ」
クラーラはパチンと指を弾いた。
その次の瞬間、部屋の背後に大きな函が出現していた。
というか、部屋の面積が急に広がった気がするが、それは気にしてはならないのだろう。
クラーラはいつの間にか手にしたお茶を口元に。優雅な仕草だし、ティーセットも高級品だろう。深窓の令嬢然としているが、それは外見だけだ。
「はい、これが『聖櫃』よ」
「いや、はいじゃないでしょ」
「正確には『聖櫃』の一つだけどね」
『聖櫃』は一辺が二メル近い、立方体に近い函だった。
複雑な文様が刻まれている……いや、それは奇妙だった。刻まれているはずなのに凹凸がない。だが、どう見ても文様は存在していた。
観察していると遠近感が狂い、眩暈がする。
そして、不思議なのは箱に一振りの剣が突き立っていた。その剣だけが函の文様の調和を乱している。
ルチアが感嘆の息を漏らす。
「これが『聖櫃』。『大魔法つかい』クラーラ・マウロさまが封じられ、『士』クレート・ガンドルフィが解き放ったという伝説の――」
そんなことを言われても。
マクシムとしては「何だ、それ」だった。




