『夢界』
ルチアに砕けた枝の破片が降り注ぐ。
硬質化したそれが砲弾のように直撃し、ルチアは吹っ飛んだ。
肉が潰れたような鈍い音――まるで水風船が破裂したようだった。
マクシムは声にならない叫び声をあげながら――意識せずに叫んでいた――ルチアに駆け寄る。
「……あ、か……は、くっ……」
ルチアはもう死のうとしていた。
まだ息はしている。口の端の血の泡が揺れているから間違いない。
ただ、即死でないのが不思議なほどの致命傷に見えた。
顔には傷がないが、それ以外は全身に傷を負っていた。肉が削げ、骨が折れ、はらわたが零れ落ちそうになっている。
マクシムは触れることにためらいを覚える。
それは血に対する恐怖や嫌悪ではなく、触れることで息絶えるのではないかという思いからだ。
そんなバカな。
この子が死ぬわけがない。
未来が見える『予言者』と同じ力があるのだから、ルチアが死ぬことだけはないはずなのだ。
「マク、シム、さん……」
「ルチアちゃん……」
いつの間にか『獣姫』はどこかへいなくなっている。それはギンも同じだった。
どこかに逃げたのか、あるいは、どこかで戦闘を続けているのかは分からない。
だから、この場には二人きりになっていた。
マクシムは力の入らない足を操り、どうにかルチアの傍に。
足元には血が広がりつつあった。
もう助からない――それがマクシムにも分かる。
力の入らなかった足が自然と震え始める。
視界が狭く暗いのはなぜか分からない。その中で赤だけが鮮烈だった。
絶望。
それが血だまりとして目の前に広がっていた。
「だ、大丈夫だから……そうだ! 僕の能力は蘇生効果があるんだから。薬草の効果は保証済みだからほらこうやって血を止めてだいじょうぶだからうんだいじょうぶだよ。本当だから安心して。一緒に帰ろう。お家に帰ろうよ」
自分でも何を言っているのか分からないが、口は動きを止めない。マクシムは励まし続ける。
ルチアは弱弱しく微笑んだ。
「マクシムさんには、そんな力……ないのです」
ルチアは血の塊を吐き出す。
「ニルデさんが、生き残ったのは……『武道家』の力が反映されなかったから。なのです……」
「え」
とても重要なことを言われている気がした。
だが、マクシムの脳が言葉を咀嚼しようとしない。
「『武道家』は完全継承……叶わなかった部分だけが残った残骸が、今のニルデさんです……もう彼女は竜には騎乗できないし、このままでは意識を決して取り戻さない……生きているのが不思議なくらいですが、ただの奇跡ではないのです……ルチアがわずかに掴んだ億が一の可能性なのです……」
「もう無理に喋らなくて良いから」
マクシムはルチアが大切なことを言っている気がしたが、必死に薬草を生み出して止血する。
ルチアはうわごとのように喋るのを止めない。
「マクシムさんは自分の、目的だけではここまで来られなかったのです……。そもそも、『料理人』が殺された理由そのものは、大したことではないからです……。その結果が甚大な被害を引き起こすとしても、理由は些細なこと。それに、血の繋がりがあるとしても、何十年も前に死んだ人のことなんて、人間は考えられないのです……。マクシムさんがここまで来るために必要だったのです……」
もっと良い薬草を。
止血効果と痛み止めと回復効果のある薬草を。
マクシムは死ぬ気で生み出そうとする。
この世に存在しない、万能薬を、求める!
思考が加速するし、震えながらも力を振り絞る。
どうにか、この子だけは死んで欲しくない。
いや、死なせてなるものか。
その想いが――奇跡を生み出す。
そのはずだった。
「ムダなのです……。その気持ちは嬉しいです。でも、マクシムさんの能力ではルチアは助からないのです。それよりも聞いて欲しいのです……」
「助からないなんて言わないでよ! 絶対に大丈夫だから!」
「お願いなのです……耳を傾けて欲しいのです……」
「…………」
マクシムは泣きそうだった。
助からないのだ。
もう何もできない。
それがようやく理解できてきたからだ。
ただ、嗚咽を漏らしそうになるのを必死で抑え、ルチアの手を握る。
もう彼女は弱弱しく握り返す力さえも残っていないようだ。
「うん……」
「ありがとです……。これから話す話を、よく覚えておいて欲しいのです……」
ルチアは一度咳き込み――再び血を吐いた――それから続ける。
「ルチアとマクシムさんは本来の歴史なら今から五年後に結婚するのです」
「本来の歴史……?」
「その未来では四人の子どもが生まれるのです……もちろん、マクシムさんはナタリアさんと出会うこともないのです……。ルチアがその未来を一部改変したのは、これから起きる戦いに備えるためです……。そのままの未来では、この世界の人類種は全滅するからです……」
本当のことを言っているのかもしれない。
だが、マクシムはそれよりも失われていく命でルチアの言葉を飲み込むことが難しい。うん、うん、と分からないなりに頷く。
「ルチアはたくさんの人の運命を操ったのです……。人の生き死にさえも左右してきたのです……。直接手を下したのは、『魔女』カルメン・ピコット大佐だけですが……あの人は死にかけていたですが、ルチアがトドメを刺したのです……」
「え……」
「そうしないと、最後の命を使って、シラちゃんの身に危険が及んだのです……」
どういうことだ。
何故、シラが狙われるんだ?
「もちろん、違う未来を選ぶこともできたです……。ただ、暗黒大陸で生き残る覚悟のために、ルチアが手を下したのです……。後悔はしてないのです……。ただ、苦しかったのです……。怖かったのです……」
ルチアの目の端に涙が浮かぶ。
その涙の意味を単純化することはできないだろう。自分の命が尽きることももちろんあるだろうが、ただ、後悔がないと言いながらも後悔はありそうだった。
「ルチアちゃん……」
「違うのです、そういうことが言いたいのじゃないのです……。言葉では伝えきれないのです……あ、そうなのです」
ルチアの目にほんのわずかに力が蘇った。
「伝えられる力の可能性を掴むのです」
「え?」
その次の瞬間だった。
目の前の世界が一変した。
ルチアどころか、景色も一瞬で変わっていた。
ただ、知らない場所ではない。
むしろ、どこよりもよく知った場所だった。
「ここは、僕の家……?」
マクシムたちが生まれ育った地元の光景が広がっていた。自然豊かで穏やかな故郷。
暗黒大陸にいたはずなのに、どうして……? 言葉を失い呆然としていると、後ろから呼びかけられる。
「マクシム」
それはルチアの声だった。
マクシムは振り返る。
「え」
思わず声を漏らす。
「どうしたの? 幽霊でも見た顔して」
それは確かにルチアだ。
間違いない。
面影はあった。
だが、明らかに同一人物には見えなかった。
「ルチアちゃん……?」
「どうしたの、本当に変よ。ちゃん付けって昔みたい。もう子どもじゃないんだから」
ルチアは成長していた。
年齢は二十くらいだろうか。
しかも、幼い子どもを一人抱え、一人背負っている。子どもたちはママァと甘えているし、マクシムを見てパパだーと笑う。
子どもだ。
マクシムたちの子どもか?
四人生まれるという子どもの二人?
だが、そこではない。
マクシムが最初に違和感を覚えたのはそこじゃなかった。
「変なマクシム」
微笑むルチアからは完璧すぎる美しさが欠けていた。
平凡な、どこにでもいそうな女性になっていた。
ただ、それがあまりにも自然体だった。
何が起きたのかは分からない。
分からないが、何か大事なことが起きているのはマクシムにも理解できた。
ルチアは空いた手をこちらに差し伸べながら微笑む。
「マクシム、早く家に帰りましょ」




