26%
その時だった。
マクシムは目を剥く。
時間がゆっくりと流れていく感覚。
土が爆ぜる。
それは命の危機を感じた結果。
音は耳に届かず、衝撃として感じた。
意識を取り戻したギンが体を震わせながら吠えた。
んにゃああああああああああああああ!
それは世界を切り裂くほどの切実な叫び声。
何か、許せないことがあったような怒りのこもった声だった。
もちろん、ギンは直接的には『獣姫』を知らない。
だが、それでもギンは知っていたのだ。
仲間たちの最期を。
ギンたちは二十頭でひとつの部隊となる。
その完全な獣軍は『獣姫』であっても打倒できるほどの戦力を誇る。
その秘密こそは部隊間での情報共有。互いの位置や敵の状態などを完璧に分析し、敵殲滅のために役立てるシステム。部隊間完全即時同期機構とでもいうべきそれにより、戦闘能力はけた違いに跳ね上がる。
言い換えると、それは一頭だけでは不可能だということだ。
ただし、そのシステムが消えたわけではなかった。
だから、ギンは知っていた。
システムに残った情報を得ていた。
仲間たちの最期を、その仇の正体を。
ギンは『賊党』フランチェスカ・ベッリーニと『獣姫』アイーシャ・サレハに対して心の底から怒りを感じていた。
ギンの猛りを感じた『獣姫』アイーシャは首を傾げる。
「ふむ。あれはお主らのものじゃろ。なら、壊すのは忍びないのぉ」
彼女は敵意を向けられても全く気負った様子がなかった。
ドクンドクンとマクシムは血の流れる音が耳でしていた。
ギンは見たことがないほど怒っていた。
『魔王』の死体と相対した時でも今ほどではない。
ルチアは叫んだ。
「ギンは殺さないでです!」
「壊すのは忍びないと言うたじゃろ」
「アイーシャ・サレハ様! あなたは向かって来る敵に対して手加減ができないのです! 殺そうとしなくても殺してしまうのです」
「わしは壊さんと言うたじゃろ? 信用せい」
――全然信用できない。
そう思ったのはマクシムだけではなかったはずだ。
ギンを撫でただけなのに地面にめり込ませてしまったのだ。手加減が下手すぎて信用できるわけがない。
「ルチアちゃん、下がろう」
マクシムはいつ爆発するか分からないギンを見ながらそう提案する。唸る姿は獣のそれ。機械の見た目でも紛れもない一匹の猛獣だ。
植物を生み出して防御体勢に入りたかったが、それがきっかけで暴発しそうな気がして動けない。
「ダメです」ときっぱりルチア。
「ダメって……」
「今のギンはルチアたちが守らないとダメなのです」
「これに巻き込まれたら、その、大変だよ」
「マクシムさん、安心してくださいです。ルチアは『予言者』の後継者なのです。巻き込まれずに収める可能性も見えているのです」
あるいは。
ギンがアイーシャへ即座に飛びかからないのは、その可能性が見えているからかもしれない。
ギンは低い体勢のまま低い唸り声をあげて『獣姫』を威嚇している。
この状態のまま収まって欲しい――そのマクシムの願いは叶わない。
「ギン、落ち着いて欲しいのです。先ほどのは攻撃じゃないのです。アイーシャ様の力加減が間違ってしまっただけなのです。ちょっとしたおっちょこちょいなのです。ほら、ルチアのことを見るのです。全然大丈夫なのでーす。安心するでーす」
「おっちょこちょい……?」と『獣姫』が微妙な顔になる。
ギンは先ほど吠えたが、今は吠えなかった。
静かだったわけではなく、唐突だった。
タンッ、と。
ギンはアイーシャの目の前に飛び込んでいた。
音という音がほとんどしなかった。
先ほどの遠吠えと地面が弾けるほどの動きはこの一撃のためだったのかもしれない。
あまりにも静かな顎によるひと噛み。
パシッ、と。
アイーシャはそれをあっさりと受け止めた。
額のあたりを柔らかく押さえて、その勢いを完全に殺していた。魔法のような手際だが、純粋な腕力だけで実現している。
『獣姫』は人間種としてはかなり大きいが、それでもギンに比べればかなり軽量だ。比べるとその重量は1/100以下だろう。
だが、衝撃を吸収していた。
こんなこと他にできる人類種などいるはずもない。『武道家』がその技術の粋を凝らしても至難の業だろう。
アイーシャは自慢げに胸を張りながら振り返る。
「ほれの。わしはちゃんと手加減できるんじゃ。ちゃんと優しく制圧してや「止めて!」るわい。ほーれ」
途中アイーシャの言葉の途中に挟まれた制止の声はルチアだ。
だが、アイーシャはそんな言葉に構わず、ギンを投げ飛ばした。
いや、それは投げだったのかどうかマクシムにはよく分からなかった。
ただ『獣姫』が軽く右手を振るったら、ギンがぶっ飛んでいたからだ。
そして、ギンが飛んだ方向が問題だった。
ここは巨大な汽水湖の縁で、汽水湖に降りるまでは三〇〇メルほどの高低差がある。
つまり、ギンは落下していた。このままだったら湖面に激突する。
ギンならそれくらいの衝撃には耐えられるかもしれないが、あまり良い状況ではない。少なくとも優しく制圧はされていない。
「ギン!」とルチア。真っ青になっている。
「おや」とアイーシャ。その頬を汗が一筋流れる。
マクシムは、即座に生み出した植物をギンに延ばした。ギンを受け止める際に限界まで強度を高めるが、それでも樹の枝が折れかける。
どうにかギンをキャッチする。
そして、植物を第二陣、第三陣と繰り出すことでギンの重さを支えた。
植物を使い、橋のようにギンをこちらの大地と繋ぎとめた。
「おー、ナイスキャッチじゃ」
「ど、どこが、優しく制圧、なのさ……です」
マクシムは息も絶え絶えに抗議する。能力を一瞬で最大解放したせいでかなり動悸が激しい。それくらいギンの重量はかなりのものだった。
アイーシャはいたずらっぽく言う。
「ちょっとしたおっちょこちょいじゃ」
意外と冗談が通じるタイプのようだ。
そこでフッと空気が緩む瞬間があった。
そこをギンは見逃さなかった。
ギンはぶっ飛ばされていたが、確かに優しい一撃だったのだ。つまり、衝撃はほとんどなかった。
なので、ギンには特に損傷があったわけではない。
つまり、すぐに反撃体勢に移れた。
ギンはやはり吠えもしなかった。
「え」
その言葉は誰のものだったか分からない。
マクシムからも漏れていたし、意外とアイーシャだったかもしれない。
それくらい意外な反撃だった。
ギンは樹の幹を駆け抜けてアイーシャのところまで再度距離を詰めていた。
今回は牙ではなく、爪を使った。
前腕によるひと振りをアイーシャは受けきった。
受けきったが、今回は予想外というか不意を討たれたせいか、わずかに後ろに下がった。
その半歩が原因だった。
ギンの振り払った一撃は上から叩きつけるものだった。
その時、マクシムの枝が偶然にもギンの腕にはくっついていた。
枝といってもギンを支えるためにその太さと長さは成人男性の脚くらいあった。
マクシムの枝は最大限まで強度を上げていたので、その枝は砕けなかったし、むしろ、こん棒のようになっていた。
それがアイーシャがギンの前腕を受け止めた衝撃で砕けた。
その全員の立ち位置が問題だった。
「あ」
その言葉も誰が漏らしたのか分からない。
だが、マクシムは見た。
砕けた枝が、ルチアに降り注ぐのを。
いや、それは降り注ぐなんてものではない。
散弾銃のような勢いでルチアを襲い掛かっていた。
時間がゆっくりと進む。
その時にマクシムの目に入ったのは、どこか諦めたようなルチアの顔。
それは何らかの可能性を引き出すために、必要なことだったのかもしれない。
そして、それは自分の生死さえも度外視したような――。
マクシムは手を延ばそうとするが、失敗する。
それは一瞬のできごとで、そこまでの時間の猶予などなかったからだ。
硬質化した枝がルチアに降りかかる。
二十六パーセント。
それは低い可能性。
ルチア・ゾフが自ら予言した、自身がこの暗黒大陸で死亡する確率だった。




