『獣姫』の無関心
マクシムは『獣姫』に対して委縮していた。
圧倒的な存在感は恐ろしいとか怖いとか命の危機を感じたとか以前の空白を生み出す。
何も考えられない故の空白。
それは竜を初めて目の間にした時と同じような衝撃であった。
『獣姫』よりも大きな生き物は当然いる。
むしろ、この暗黒大陸で出会ってきた生き物の中ではかなり小さい方だろう。
ただ、それは完全なる異種だったからだろう。比較対象にならない。いや、しにくい。
『獣姫』は人類種としては規格外の大きさであり、あまりにも巨大ではないからこそ比較できてしまう異様さ。
こちらの状態は気にせずに『獣姫』は首を傾げる。
「言葉が通じておらんのか? クラーラとも会話できているんじゃがのぉ……。しかし、そちらの世界はすぐに言葉が変化してしまう。わしはついていけんのじゃ」
小首を傾げる様子はある意味可愛らしいかもしれない。それくらい無垢な仕草だった。
ただ、人類種と同じ形をしながら、三メル近い長身のせいか、あまり可愛らしいとは思えなかった。
マクシムはただただ威圧されて、後退りすらできない。
「アイーシャ・サレハ様、言葉は通じているのです。はじめましてです。ルチア・ゾフといいます。こちらはマクシム・マルタン。あなたにお会いしたくて、ここまでやってきましたのです」
マクシムに比べれば、物怖じせずにルチアは挨拶をした。
マクシムは何も言えずに頭を大きく下げた。
『獣姫』は不思議そうな顔になる。
「? 意味が分からん」
「あなたにお会いしたい理由です?」
「そうじゃ。ここまで来るのは大変じゃったろう。わざわざ、こんな大陸の奥地まで来て、どうしてお主らはわしに会いたいんじゃ?」
「ルチアたちは『幻想境』へ行きたいのです。そのためにまずはあなたへの謁見が必要になると思ったのです」
「労力に見合わんのぉ。わしに招いて欲しいのじゃな」
「はいなのです。お礼はしますのです」
「ふむ。どんな礼か知らんが、断るのじゃ。クラーラに怒られてしまうからのぉ。クラーラは怒るととても怖いのじゃ」
「アイーシャ様でも怖いのです? あなたは最強の存在だと聞いたのです」
「クラーラが怒ると美味しいケーキが食べられなくなってしまうのじゃ」
「なるほどです。それはとても怖いのです」
それは呑気な会話だったのかもしれない。
だが、そこでマクシムは見てしまった。
わずかに震えるルチアの姿を。手に力が込められているせいか、それとも畏れによるものかは分からない。
だが、この雑談のような会話も、薄氷の池を渡るような繊細さが求められているのだ。
『獣姫』の強さは人知を超えている。
本能が訴えてくる。この生き物の強さは異常だ、と。
マクシムが今まで見てきた人間の誰よりも強いことはひと目で分かる。
まともに関わってはならない。逃げなければ命の危険がある。この女の気分を害してしまっては、戦闘どころか、逃亡することもできずにここが最期を迎えることになるだろう。
怖い。
すごく怖い。
泣いて目を閉じて何も考えず、何もしたくない。
そういう絶望的な気分がわきあがってくるのが『獣姫』だ。
ルチアは本能を能力と意志で押さえ込んでいた。
ルチアが頑張っているのに、このまま逃げて良いわけがない。
マクシムは何かを言おうと思った。
それは勇気ではない。
どちらかといえば、自暴自棄に近いものだ。
マクシムは思わず叫ぶようにして言った。
「あの!」
『獣姫』の視線がこちらを向く。
そこに敵意も何もこもってはいない。
足元に転がった石を見るような一瞥。そこには悪意も善意もないし、興味関心もないのだろう。
マクシムは内心で一気に冷や汗を流すが、口は止まらなかった。
「ギンが埋まっているからどうにかしよう!」
「ギン?」『獣姫』は一瞬何のことか分からないという顔をするが「ああ、この機械猫のことか」と納得する。
この機械猫、という言い方に、マクシムは一瞬だけひっかかったが、大きく頷く。
「はい! ギンです。ギンを助けます!」
「ふむ。本当に少し撫でただけなんじゃがのぉ。まぁ、機械猫は頑丈じゃ。すぐに起きるじゃろ」
「埋もれているのは可哀想なので……」
『獣姫』の言葉に勢いを失いかけるが、そこでふと目に入る。
ルチアが祈っていた。手が白くなるほど強く。目を閉じて、何かに強く祈っていた。
何となく理解する――これが重要な局面であることを。
この状況で何をすべきなのか聞くべきだった。いや、聞いても仕方ないのか。だから、教えてくれなかったのか。いや、違う。マクシムが聞かなかっただけなのだ。そうじゃない。今は過去のことはどうでも良い。
今だ。
今、決断して行動しろ!
だから、マクシムは言葉を続ける。
「僕が助けるから大丈夫です!」
「ふむ。お主の細腕では無理じゃろう」
「見ていてください!」
マクシムはポケットから慌てて種を取り出し――ポロポロと手が震えてこぼす――その種の一つを埋まったギンの近くに投げる。
「ふむ。植物の種?」
マクシムは『獣姫』の言葉に反応せずに『庭師』としての能力を発動。植物を成長させる。
ギンは見た目以上に固く埋まっていた。根を伸長させて下から支える形で浮き上がらせようとするが、かなり硬い。
撫でただけという話だが、恐ろしい力で埋まっていた。
マクシムは能力を更に強くして、ギンを地中から救出。土が散らばる。
ギンは何か不具合が起きているのか、機能を停止させているようだ。微動だにしない。
「お主……お主は……何じゃ……?」
「え?」
影が、近い。
『獣姫』がいつの間にか目の前にいた。
シャラシャラと鎖がこすれる音が遅れて聞こえる。
彼女は大きな手をこちらの顔に。そして、くいッと顔を上向けさせる。
優しい手つきで痛みはなかったが、首がもげるかと思った。それはギンを撫でた結果からの想像である。
『獣姫』はこちらの顔を覗き込んでいる。
そこに光っているのは冷たい光。
先ほどまでは無関心だったが、明らかにこちらを認識していた。
そして、それはあまり良い意味ではなさそうだった。
『獣姫』はこちらを警戒したような、値踏みするような表情で言う。
「お主は……アダムそっくりじゃな?」




