恋と地図
『穴熊』パオロ・ガリレイには生きた伝説がある。
たった一人で二千人の暴徒を七十時間足止めしたというもので、『ルイジ暴動』と呼ばれているそれを不眠不休、飲まず食わずの状態で鎮圧したのだ。
それはとても特殊な宗教法人――神のいないこの世界で宗教も何もないが――『超人』ルイジ・カルボーニの遺志を体系化した団体だ。
ちなみに、『超人』ルイジは勇者の一人として暗黒大陸で命を落としている。
だが、彼自身は自分の死後、そんな団体が発足していることさえ想像の彼方だろう。
ここで想像力を働かせれば、ある一つの疑問が生まれる。
パオロではなく、暴徒についてだ。
七十時間も戦い続けられることが一般人に可能だろうか?
普通に考えれば不可能だ。
仮に英雄であっても、そんな長時間の戦闘は『武道家』くらいしか可能とは言えないだろう。
それは暴徒であろうとも例外ではない。
正気を失っていたからといって、体力の上限が、その天井が崩れるなんてことあるわけがない。
精神力が肉体を凌駕するなんて、稀だからこそ特別視されるのだ。
その答えこそが『暴威』アリアナ・コスタの存在であった。
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アリアナは部屋から逃げ出して、その直後に後悔した。
逃げる場所も隠れる場所もないからだ。
人目を考えると、どこにもないと断言できる。
基地は広くないし、基地の外は危険が多い。
アリアナの特異能力は規格外だが、その戦闘能力は『士』の隊員で最下位に近いため、基地から単身で出ようとしても誰かに呼び止められるだろう。
彼女の能力は『穴熊』パオロ・ガリレイ中佐の能力があるからこそ光るものだった。
実際、アリアナはパオロのことが好きということはなかった。これは自覚している。間違いない。慕っているのも事実だし、尊敬しているのも本当だ。
だが、恋しているわけではない。
年齢差もあるし、立場も違い過ぎる。
周りは勘違いしているが、これは絶対に確実な真実である。
断じて、中佐のことが好きなわけないのだ。
だから、この涙はもう自分がこの暗黒大陸へ来られないことへの未練によるものだと思った。
アリアナは間接的に多くの人命を奪っている。
意図したものではないが、『ルイジ暴動』では参加した人間の二割――つまり、約四〇〇人が落命してしまった。
七十時間という暴走行為に、心身が耐えられなかったのだ。
残りの八割も大なり小なり心身に障害を残しているため、今では彼の団体、宗教法人『超人同盟』は壊滅した。
これが、『穴熊』パオロ・ガリレイによる防御で鎮圧していなければ、どうなっていたか?
おそらく、アリアナはその場ですぐ死亡し、それ故に、多くの犠牲は出なかったに違いない。
どちらが良かったのか、彼女にとっては明白だ。
だが、『超人同盟』の関係者にとっても逆の立場で明白だろう。
その負い目――いや、恐怖心はとてつもなく彼女の人生を歪めていた。
アリアナは走って逃げることにも疲れ――大した距離ではなかったが――ふぅと息を吐いた瞬間だった。
「中尉」
酸素が肺の中になかったので悲鳴はあげられなかった。
アリアナは「!?」と目を白黒させながら振り返る。
そこには陰気な顔をしたパオロが気まずそうに立っていた。
『士』の佐官は人間離れした身体能力の持ち主が多いが、物音を一切立てずに接近できるパオロは特に秀でていた。
アリアナがちょっと鈍いということを除いても、かなり異常なほどに。
『武道家』に比べると大したことはないが、人類種では頂点に近い――つまり、一種の超人である。
「驚かせてすまない、中尉。少し話をしないか」
再び逃げ出そうとしたアリアナに、パオロは機先を制してそう言った。
このまま逃げても追いかけっこが続くだけだという理性は働いたが、それでもアリアナは逃げ出したかった。顔をあげることができない。
パオロはアリアナを観察しながら優しい声で語りかける。
「忘れていたよ。俺が君に約束したことを」
「……っ」
『超人』ルイジ・カルボーニの遺志を体現した『超人同盟』はいわゆるカルト宗教だった。
人を超える。
すなわち、神に肉薄する。
そのための手段として拉致・拷問を受けたのが、幼い頃のアリアナであり、その際に、家族は皆殺しにされている。
『ルイジ暴動』の七十時間の間、二人きりになり、そこでさまざまな会話をした。
もはや未来に何も希望を見いだせなくなっていたアリアナに、パオロは世界の美しさ、広さを語ったのだ。
「世界を見せる。この地図は、俺がその記録の一つとして残す意味もあったのにな」
「……っ」何か言いたいが、言葉にならない。
「確かに、地図が全然完成しなくなるのは嘘をついたことになるのかもしれん」
「……ぅ」どうしても、言葉にならない。
「すまなかった。傷つけたことになるんだと思う」
アリアナはどう答えて良いか分からず、どうにか口を動かして、
「そ、そのしゃべり方、なんだか久しぶりですぅ」
「ああ、こっちが素に近いんだ。が、冷静さを保つために誰に対しても丁寧なしゃべり方を心がけているんだよ」
「アタシに対しては、そっちで通してくれた方が嬉しいですぅ」
「そうか? なら、努力しよう」
パオロは空気が読めない。
ただ、こちらの要望を無視したり、蔑ろにするタイプではない。
アリアナは恐る恐る訊ねる。多分、無駄だろうな、と悟りながら。
「ちゅ、中佐はアタシが地図のことで傷ついたと思ったんですよねぇ?」
「ああ」
「その……それだけですかぁ?」
「ふむ、それ以外に何かあるのか? あるのならば、教えて欲しい」
「いえ、何もないですぅ」
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「チッ」
「ルチアちゃん、舌打ちしてどうしたのさ」
「バカ中佐、どうしようもないです」
「あのさ、ルチアちゃん、中佐に厳しくない?」
「ルチアは、ああいう鈍感バカに腹が立って仕方ないのです」
「そ、そうなんだ……」
「中尉もだらしないですが、あの子の経歴を考えると仕方ないです」
「あ、アリアナ・コスタ中尉って、あのレッドリストに載っていた子か。思い出したよ」
「はいです。彼女にはあちらの世界に、まともな居場所はないのです」
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「中佐、ところでなのですがぁ」
「何だ?」
「婚活は諦めたということですかぁ?」
「ああ。まぁ、妹や姉に子どもがいるから、それで両親には納得してもらうよ」
「そうですかぁ……」
それで安心するかどうかはかなり疑問だろう。
ただ、アリアナは少し安心するものがあった。
全然、全くもってパオロ中佐のことが好きなんてことはないのだが、本当に、全く。
アリアナがちょっと笑うと、パオロも安心したように笑う。
そして、彼は居住まいを正し、真剣な顔になる。
「そこで、中尉にひとつ提案があるんだが……」
どくん、と大きく心臓が跳ねた。
あ、と。
この雰囲気は知っている。
マーラ・モンタルド大尉に借りたマンガに似たシチュエーションがあった。
告白だ。
アリアナは急速に喉が渇く。思考速度が加速し、いや、本当に全然好きじゃないし、全然そういう目で見られたくもないのだが、もしも、向こうが提案してくるのであれば、受けても問題ないのかもしれない。自分なんかでよければ、本当に。
「中尉――俺の養子にならないか?」
顎が外れるかと思った。
「こう見えても、俺にはかなりの資産がある。お金は身を守る手段として有効だ。それを受け取れば、より約束が守られると思ったんだが、どうだろうか?」
アリアナは叫ぶ。
駐屯地の外れで心から叫ぶ。
「アタシは中佐のお嫁さんが良いですぅ!」
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「……参ったです」
「どうかしたのさ、ルチアちゃん」
「すごく確率の低い未来が訪れたのです。これは想定外です」
「それ、すごいことなの?」
「はいです。ただ、すごく好都合な展開です」
ルチアはそう言ってから重いため息をつき、独り言を呟く。
「すごく、すごく羨ましいのです」




