王族
この世界に『国』は一つしかない。
正確に表現すれば、人間種が支配する領域に『国』は一つしかない。
たとえば、ディアマンテやザッフィーロなど『街』に名前があるのは区別をつけるためだ。あるいは名前を与えることで保有を示す場合もある。
つまり、この世界では国名は存在していないようなものだった。
いや、実のところ、この国を意味する単語は、とても古い言葉で存在しているのだ。
しかし、それを知る者は限定されていた。
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その豪奢な部屋は広く、美しく、非常に高価な装飾で彩られている。
特別な人物が暮らす部屋なのは間違いない。
そこに一人の男性がリラックスした体勢でソファーに座っている。
男性はまだ若い。
二十代半ばくらいだろう。
目鼻立ちが整っており、美しい銀髪をしている。
いわゆる美丈夫であった。
遠目にも人を惹きつける魅力に溢れていた。
彼の名前はジョバンニ・テッラという。
だが、それを台無しにするものが置かれていた。
写真だ。
一人の女の子が写っているが、ほとんどは田舎の町でしかない。
まだ幼い女の子で、五歳くらいにしか見えない。
隠し撮りなのか、かなり遠くから撮影されているし、視線も定まっていない。
だが、そんな写真であっても、ジョバンニはうっとりとした視線を送っている。
ぼそりと小声で何かを囁くが、口中で含むような言い方だったため外部には届かない。
その時、ノックの音が聞こえた。
男性は顔をあげずに応じると、そこにはメイドの女性がいた。
「どうした?」
「はい、ご主人さま。お仕事の時間ですわ」
「分かった。行くよ」
メイドさんは一礼して出て行った。
その男性は写真の女の子に笑いかける。
「じゃあ、今日も一日頑張るよ」
とても幸せそうに写真に囁く。
その少女の名前を。
「ルチアちゃん」
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ジョバンニの住む屋敷は非常に広いし、厳重な警備が敷かれている。
その立場を考えれば当然かもしれない。
ジョバンニ・テッラの仕事はいわゆる交渉だ。
さまざまな立場の人間と会話をし、妥協点を探るのが仕事だ。
お互いの利益の最高点を上手く引き出すため、非常に信頼されている。
彼の立場もあるが、それ以上に人柄や知性、交渉術が卓越しているからだった。
その日、最初の訪問者は『士』の大佐だった。
カスト・コルギという陰気な男であるが、おそらく人類でも頂点に近い戦闘能力の持ち主である。
隙のない仕草でジョバンニに報告を行っていた。
「暗黒大陸への派遣部隊が出発しました。これからしばらくは新任の佐官が対応にあたります」
「そうかい。ま、頑張ってよ」
彼は『士』の件に関してはそれほどタッチしない。
金銭的な問題が発生すれば、銀行や投資家の伝手をつなげることはあった。
だが、今回は『竜騎士』ナタリア・サバトの援助があったらしく、ほとんど関与する必要がなかったからだ。
それでも、彼の元には情報・報告が集まる。
形骸化されている部分があるとはいえ、彼が『王族』だからだ。
「ちなみに、新任の佐官って誰? 大尉の誰かが昇進したんだよね?」
「いえ、外部からの人間です。『竜騎士』の伴侶にあたります」
「へー、じゃあ、『竜騎士』なんだ。それは凄いね。よく引き入れたね」
「ですが、竜との交感能力ではない特異能力者になります」
「『契約者』?」
「いえ、天然物になります」
「『竜騎士』の伴侶の特異能力者か。それはカルメン大佐の代わりになりそうだね」
「はい。書類は以前お渡ししているので、気になるのであればご覧ください」
「了解」
普段は一通り確認するのだが、別件が立て続いて見落としていた。
それでなくても人類には処理が難しいほどの情報量がジョバンニには集まるので、仕方ない面もあった。
「それと、今までにない規模の派遣部隊になっているため、特別に特務大佐も乗船しています」
「ふーん。特務ってことは『W・D』みたいな特異点?」
「ええ。『予言者』の後継者になります。そちらについても書類は提出済みなのでご覧ください」
「『予言者』……っ。それも見落としていたよ」
「珍しいですね」
「うん。最近忙しかったからかな」
軽い気持ちでジョバンニは問う。
「その新任者の名前は?」
「ルチア・ゾフ特務大佐とマクシム・マルタン少佐になりま――」
ガタンと椅子を強く蹴る音。
その時、ジョバンニの顔から一気に血の気が失せていた。言葉を失い、ワナワナと震えながら、ここではない彼岸を見ている。
その様子にカスト・コルギ大佐は内心で首を傾げる。
「テッラ様? どうかされましたか?」
「……もう出発したの?」
「はい」
「そうか……」
まさか、自分が人生で唯一愛した女性の名前と、そのにっくき恋敵の名前を聞かされるとは思っていなかった。
間違いないだろう。
そして、納得している部分が頭のどこかにあった。
『予言者』の後継者。
だからか、と。
どこにいるかは知っていた。
だが、もう立場上接触することは禁じられていた。
人生でただ一度きりの恋を、まだ幼い少女にしてしまった。
何かに取り憑かれてしまったかのような視野狭窄。あれほどの熱狂はこれまでもこれからもないだろう。
命を代償に差し出したギャンブラーであっても、ジョバンニほどではないはずだ。
どうにか手に入れようとして失敗した。
失敗の理由は彼女が『予言者』の後継者――つまり、この世界の頂点にある怪物だったからか。
その後、ジョバンニはとんでもない制限を受け、すぐに政略結婚をさせられたが、現状夫婦仲は良好とは言い難い。
心のどこかにルチア・ゾフのことがあり、それを妻にも見透かされているからだろう。
その少女と恋敵が、暗黒大陸へと赴くという。
許せないこととして怒ることもできるかもしれない。
手に入れられなかった愛は、簡単に憎しみに転じてしまうことがあるから。
だが、それよりもこの時のジョバンニは一つの思考に囚われていた。
何かできることはないのか。
何かできることはないのか。何かできることはないのか。何かできることはないのか何かできることはないのか何かできることはないのか何かできることはないのか何かできることはないのか何かできることはないのか何かできることはないのか何かできることはないのか――!?
その考えだけが暴走していた。
だが、ジョバンニ・テッラはため息を吐き、何でもないと首を横に振る。
立場でできることにも限界がある。
王族であっても、不可能は可能にはならない。
ルチアが『予言者』の後継者というのであれば、自分が何をしても予想の範疇にあるのだろう。
その程度の理性はある。
だからこそ、彼は告げる。
「倍増だ。作戦の規模を更に追加しろ」
「え」
「金銭的なフォローは朕がする。どんなことがあっても、ルチア・ゾフ特務大佐を守れ。暗黒大陸は『予言者』の力をもってしても危険が多すぎる」
予想の範疇にあるのであれば、自分ができる限界までサポートに回る。
手玉に取られたとはいえ、それでも愛してしまったのだから。
ルチアの想定上のことかもしれない。
それは認めながらも、どうしようもなかった。
ジョバンニ・テッラの指示にカスト・コルギ大佐は「承知しました」と頷いた。
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この星で唯一の国の名前は王族の家名と一致している。
誰も口にしないが、意識していないだけで知らないわけではない。
すなわち――『地球』、と。
五部開始になります。
第43話で話題に出た王族とか、国の名前とか前々から出さないとなぁ、と思っていた話にようやく触れられました。
ちょっと現状いろいろ忙しいのですが、週一回は更新していくつもりです。
よろしくお願いします。




