ザ・ミッシング
ジャンマルコ・ブレッサ特務大尉は三歳から八歳までの約五年間ほど歴史がない。経歴として行方不明となっていた。
その理由は、妖精に連れ去られたからだ。
その間、『幻想境』に捕らえられていた――いや、それは正確ではない。
彼は自分の意志でその場に残った。
わずか三歳にして、ジャンマルコは情で決断した。
それは、たった一人の女性、とても強くて、か弱い女性を助けるためだった。
その女性の名前はアイーシャ・サレハ。『大魔法つかい』クラーラ・マウロと共に『幻想境』に暮らす。
アイーシャ・サレハの異名を『獣姫』という。
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現在も可愛らしい顔立ちをしているジャンマルコだが、当時から誰もが足を止めて見てしまうほど可愛らしかった。
彼に容姿で比肩できるとしたら、マクシムの自称婚約者であるルチア・ゾフくらいだろう。
だが、それは彼の容姿だけではなく、生まれつき持ち得た特異能力の影響もあった。
あえてその才能に名前をつけるとしたら『猛獣使い』。彼はあらゆる生き物に愛されるギフトの持ち主だった。
ただし、その能力はもう喪失している。
ジャンマルコは『獣姫』アイーシャ・サレハのために、自分の意志でそのギフトを上位存在『旅人』に差し出した。
ジャンマルコは『士』に入る前に、『契約者』と成った数少ない実例である。
それは『幻想境』での、ジャンマルコが交わしたある会話の結末だった。
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『獣姫』アイーシャは大柄だ。
ジャンマルコが幼く小さいというだけではなく、彼女は純粋に大きい。
身長は2メルを超えるが、鈍重な印象はない。
伸びやかでしなやかな肢体をしている。
今は滅びてしまった褐色の肌をした異人種であり、彼女の印象を神秘的なものにしている。
いや、滅びてしまったは正しくない。
アイーシャのために滅ぼされた、の方がより正確な表現になる。
彼女は種族の頂点であり完成形だ。
この世界で不老不死を疑似的にも成功している存在は『大魔法つかい』、『武道家』――そして、『獣姫』だけだ。
もちろん、不老不死の定義にも依るが――たとえば竜は寿命が人類種では観測できないほど長いし、『大魔法つかい』や『武道家』が本当に不老不死なのか決めるにはまだ短命すぎるかもしれない。
だが『獣姫』は違う。
彼女はこの世界の歴史が始まる以前から生き続けている。
あまりにも長い人生に疲れ、ほとんど屍のようになったアイーシャを救ったのは英雄『大魔法つかい』を始めとした数人だが、その中でも最もその心を救ったのはジャンマルコだった。
その日、アイーシャは大きな体を小さく縮めて泣き言を言った。
それは本当に幼子のような、まるでジャンマルコと同い年くらいに見えるほど弱弱しい嘆きだった。
「ジャンマルコ、わしは怖いんじゃ」
「怖い? アイーシャは何が怖いの?」
「わしが怖いんじゃ」
「わし? 鳥の?」
「違う。わし自身じゃ」
「どうしてさ。アイーシャは全然怖くないよ!」
怖くないということを証明するために、ジャンマルコはアイーシャに抱き着いた。彼女の顔が強張る。
ジャンマルコはアイーシャの腕よりも小さく細い存在だ。
彼女はまるで恐れるように硬直し、動かない。
「? どうしたの?」と不思議そうにジャンマルコ。
「わしは自分が怖いんじゃ。わしは強すぎる」
「? それがどうしたの?」
「ジャンマルコのようなか弱い存在、触れただけで殺してしまうかもしれない」
「大丈夫でしょ? 僕、全然怖くないよ」
「わしが怖いんじゃ」
「うーん。でも、アイーシャは誰よりも強いんだよね? だったら、別に他の人と一緒っていうか、僕が弱くても関係ない気がするけど?」
「弱いにも限度がある。せめて、『武道家』くらい頑丈ならば安心なのじゃが」
「『武道家』って『大魔法つかい』のお友だちの?」
「そうじゃ。あいつは強い。ただ、わしはそれ以上に強い。昔、戦ったが、一瞬で殺してしまったのじゃ」
「そうなの? でも、その人ってまだ生きているんだよね。確か死なないんだって聞いたよ」
ジャンマルコは『大魔法つかい』に彼女らの冒険譚を何度となく聞き、英雄について詳しかった。
娯楽の乏しい『幻想境』で、世界救済の旅は刺激的な物語だった。
「ああ。あと千年修行を積めば、わしにも勝てるかもしれんが、今のあいつじゃ勝負にならん」
「それがどうしたのさ。ケンカしなきゃ良いだけでしょ」
「違うんじゃ。ちょっとしたことで殺してしまうかもしれんのが怖いんじゃ」
うーん、とジャンマルコは困る。
アイーシャの不安は理解したが、どうしようもない気がした。
そこでジャンマルコは思いつく。
「じゃあ、僕がアイーシャのことを止めるよ」
「……わしはお主のことを殺してしまうことを恐れている。止めるも何もないのじゃ」
「でも、僕のこと大好きだよね?」
「そ、そうじゃ。わしはジャンマルコのことが大好きじゃ」
「なら絶対に殺したくないと思うよね?」
「それはそうじゃが、絶対ではないじゃろ。事故とかいろいろあるじゃろ」
「絶対にないんだよ。僕が止めるから」
ジャンマルコがアイーシャの手を取ると、彼女はようやく少し落ち着いたのか微笑んだ。
とても嬉しそうに。とても大切なものに触れているように。
「なら、わしはお主を信じるのじゃ」
「うん、任せてよ!」
彼女の両手首には鎖のついた錠がかけられている。
封印のための処置で、その鎖は虚空へと消えている。
手を握ったことで、こちらの世界に出ている鎖がジャラリと音を立てた。
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その願いを叶えるために、ジャンマルコは『旅人』と契約を交わす。
それはジャンマルコ以外の誰かに相談していれば、きっと止められたであろう契約だった。
ジャンマルコは自分の特異な才能と引き換えに、ある特殊能力を得る。
それは『武道家』であろうが『獣姫』だろうが止められる絶対的な力。
対個人戦特化能力――その絶対的な能力名を『侍』という。
一対一という状況であれば、どんな相手であろうとも天敵として勝利できる。
ただ、その代わりに、ジャンマルコは二度と『幻想境』に足を踏み入れることができなくなった。
それはありふれた善意と愛情に満ちた……。
悲劇だった。




