ファブニルは男前
欲望とは限りないもので、僕とファブニルはそのまま朝を迎えた。
やけに朝日が眩しいのは大人への階段を登ったからなのか、はたまた寝不足だからか。
とにかく僕は頑張った。
持てる知識を余すことなく使い、体力を限界まで振り絞って応戦したのだから。
ミルカ姉上から伝授された必殺技は使えなかったが、すぐにくるであろう再戦の日に向けて修練を積んでおこう。
いや、本当に色んな意味で凄かった。
横にいるファブニルでさえ歩きづらそうにしているのだから。
「エトゥス、悪いが我は走れぬ」
「えーっと、うん。大丈夫だよ。一緒に歩いて帰ろう」
本当ならファブニルを背におぶるくらいの甲斐性を見せたいが、かくいう僕の体は疲労だけではなく、肉体的損傷を負ってしまっている。
竜人族の身体能力はずば抜けており、ファブニルが僕の腕を掴んだ状態で力んだりするとアザが出来たりするわけだ。
それにファブニルの体にも存在していた鱗や尻尾も僕を攻撃した。
背中の肩甲骨あたりから腰にかけてうっすらとした鱗があり、形の良いお尻の上には細く長い鱗のある尻尾。
硬い鱗は僕の皮膚を擦り切るし、別行動を取るような尻尾は腕や足に巻き付いては締め上げてくる。
一晩で何度骨を粉砕されたかと思ったか。
だがそれを差し引いても僕の心は充足感に満たされている。
自分を受け入れてくれたという喜びと、これほどの美女を独占した優越感。
誰に自慢できるわけでもないが、心の中では選ばれし者にでもなった気分だ。
「少し休もうか?」
「うむ。そうだな」
森に入ったところで、僕たちは休憩をとることにした。
婚姻の儀から飲まず食わずだ。
小川の水を手のひらですくい、音を立てて喉を潤す。
ファブニルは拳ほどの大きさの赤い果実を手に取ると、一つを僕に手渡した。
「ありがとう。これはそのままかぶりつけばいいのかな?」
「うむ。皮ごと食べられる」
水で軽く洗ってから噛み付くと、苦味が口の中に広がる。
でも苦いのは皮だけで、中から溢れる果肉はとても甘い。
「美味しいね。ファブニルはよくこの実を食べるの?」
「うむ。他にもあるが、我らは果実を好む。昨日のように肉を食べるのは誰かが狩りをしてきた時だけだ」
蜥蜴人族のイメージが抜けていないのか、てっきり肉食なのかと思っていた。
考えれば一晩肌を合わせたのに、僕はファブニルの好きなもの、嫌いなもの、性格もほとんど知らない。
好意的に接してくれるファブニルはまだしも、竜人族とどううまくやっていくかと考えると、急に不安が募ってくる。
僕は何もできない弱い人間でしかない。
王家で学んだ18年間のことなど、ここでは何一つ役に立たないだろう。
自分は多才だと思っていたが、身分が消え、立場的には人族からも離れた僕はちっぽけな存在でしかない。
「どうした? 深刻な顔をして」
「ううん。ちょっとね。僕は竜人族のみんなと仲良く出来るかなって」
「エトゥスは我の旦那だぞ。心配しなくていい」
何というかファブニルは男前だ。
僕も見習わなければならない。
僕が女でファブニルが男だったらと思ったのは内緒にしておこう。
森を歩き、太陽の光が真上から降り注ぐ頃にようやく里についたのだが、何やら様子がおかしい。
蜥蜴人族……竜人族の人達が僕とファブニルを見てボソボソと話をしている。
もしかしたら「結婚初夜から昼帰りとはいいご身分だ」なんてことを言われているのだろうか。
信頼関係を培う前に嫌悪されては、これからの生活が息苦しいものになりかねない。
どうしたものかと考えていると、ファブニルと歳がそう変わらなそうな竜人族の一団が僕達の行手を阻んだ。
「……ファブニル、無事か?」
「我の心配など、どうした」
少し不機嫌そうなファブニルの声に僅かに怯んだ竜人族は、お前が言えよと一人を生贄に突き出した。
「昨晩。北の平地を歩いてたら、ファブニルの悲痛な叫びを聞いた。何事かと見たら、その男に組み敷かれていたんだ。夫婦の喧嘩だと思いそのまま帰ったが、ファブニルの苦しい声はずっと続いていた」
まさかの観客がいた。
あれほど羞恥行為を拒んでいたのに、恥ずかしさで今すぐ住処に隠れたい気分だ。
「うむ。お陰で我は歩くのも困難だ。だから帰るのが遅くなった」
「おぉ!」
驚きの声を上げているが、絶対に勘違いをしている。
いや、真実を話すことはできないんだが。
「……負けたのか?」
「うむ。あのように足腰が立たなくなるなど、我は初めて経験した」
「おぉーっ!」
僕に集まる竜人族達からの熱い眼差しが痛い。
違う。違うんだ。
確かにファブニルは初めての経験なんだろうけど、夫婦喧嘩じゃなくて夫婦の共同作業なんです。
それに僕の負けだし。降参しなかっただけで圧倒的に判定負けです。
「食後の運動と言って、我らを叩きのめしたファブニルが」
「雨が鬱陶しいと雲を吹き飛ばすファブニルが」
「うるさくて眠れないと火山を平らにしたファブニルが」
「「「負けたのか」」」
何故だろう。
足がガクガクと震えている。
どうやら僕はとんでもない妻を娶ったようだ。
当の本人は「我は疲れたので寝る」と僕を置いて新居に引っ込んでしまった。
「まさかこのような日が来るとは」
「エトゥス。良くやってくれた。俺は胸がすく思いだ」
「困ったことがあったら我らに言え。我らはお前を誇りに思う」
先ほどまでの不安は一瞬で消し飛び、一日で竜人族の若手達から尊敬を集める存在になったのだったが、それはそれで新たな不安が僕にのしかかるのだった。