さぁこれからが本番だ
「どうか、どうかそれだけはご勘弁を」
地に頭を擦りつけて懇願する情けない姿なのは分かっているが、30人とはいえこれから同じ里で暮らす全ての人の前で性交するのは無理だ。
どう考えても性交可能状態にならない。
そりゃあ僕も元王族だ。
貴族の世界では無事性交できたかを確認するために、初夜ではお付きの者が確認する風習があるのも知っている。
それでも「分かったよ」とは簡単には言えない。たとえ一族の伝統だとしても。
「ファブニル。君の面子があるのも分かる。だけどお願いします。君と初めて肌を合わせる瞬間を迎えるのは、二人きりにさせて下さい」
頭を下げている状況ではファブニルの様子は伺い知れない。
だがすぐに否定の言葉がない以上、検討してくれているのだろう。
「……それは人族にとって大事なことなのか?」
「とても。とても大事なことです」
しばらく沈黙が続いたが、僕はそれでも頭を上げなかった。
「叔父もそんなことを言われたと話していた気がするな。一族の習わしだ、簡単には取りやめることは出来ないが、後日ということで濁してみるか」
「ありがとうございます!」
さすがです、300年前のご先祖様。
必ず御供物を持って墓参りさせて頂きます。
延期ではあるが、ここの生活に慣れていけばいけると思えるかもしれない。
「族長、準備が整ったゾ」
蜥蜴人族の若者が呼びに来たのは、ちょうど頭を上げた時だった。もしかしたら早速上下関係が決まったなと、ほくそ笑んで見ていたのかもしれない。
「エトゥス。行くぞ」
「う、うん」
ファブニルに続いて表に出ると、広場の中央で燃える焚火を囲うように、蜥蜴人族が地面に腰を降ろしていた。
焚火をよく見れば木を立てかける土台として、ここまで乗ってきた籠が使われていた。
木箱が無事なのかは心配だが、今はそれに気をかけている状況ではない。
蜥蜴人族が囲む輪の中に誰も座らない一部分に白い布が敷かれている。
間違いなく主役の席なのだろう。
席につくと微かに聞こえていた話し声がぴたりと消える。
ファブニルはぐるりと周りを一瞥して、静かに立ち上がった。
「皆も知っての通り、今日この時をもって我が族長の役目を引き継ぐ。隣にいるのが我の伴侶となるエトゥスだ。今後はエトゥスの言葉は我の言葉と同じだと心得てくれ」
どうやら結婚を機にファブニルが族長に就任するらしい。
新族長の挨拶を蜥蜴人族は黙って聞いていた。
拍手もなければ歓声もないが、そういう風習なのだろう。
ファブニルが座ると蜥蜴人族が一人、また一人と立ち上がり、おもむろに焚火に手を入れてからこちらへと向かってくる。
僕の見間違いでなければ肩の辺りまで炎の中に入っていたのだが、次はお前の番だと言われても火傷する未来しか見えない。
僕の不安をよそに最初に目の前に立ったのは、蜥蜴人族の中でも高齢であろう男性だ。
人間で言うところの50歳手前ぐらいだろうか。
彼は手に持った拳大の塊を指で二つに裂くと、片割れを僕に渡した。
僕が両手で受け取った塊は、何かの動物の肉のようだ。
「うむ。目元が似ているな。なんとも懐かしい気分だ。我はヒュド。老い先短い命だがよろしくな」
「は、はい。よろしくお願いします」
ヒュドが肉を食べるのを見て僕も倣うように口にした。
何の味付けもされてない焼けすぎの肉ではあったが、朝から何も食べていない僕には美味しく感じられる。
「ヒュド、ご苦労だった。族長の役目は我が全うする」
「我が妹の娘だ。心配はしておらんよ」
この人がファブニルの叔父さんだった。
短い話の後、叔父さんはチラとこちらを見て小さく笑うと元いた場所へと戻っていった。
「バルバルタだ」
「エトゥスです。よろしくお願いします」
次から続く蜥蜴人族達は、無表情のまま名を名乗ると肉を手渡してきただけだった。
ファブニルと二言三言話す者はいるが、結婚や族長就任を祝う言葉ではなく、たわいもない日常の会話だ。
皆がそうなので、全員との顔合わせはすぐに終わってしまう。
僕の目の前にはペースが追いつかず山になった肉の塊と、脳内に覚えきれない名前が残されている。
せめて飲み物があれば食も進むのだが。
焚き火から木の燃える心地よい音が聞こえる。
それほどまでに静かだ。
厳かと言えば聞こえがいいが、これはこれで重圧感を感じてしまう。
動きの変化の無さに僕は小声でファブニルに話しかけた。
「ねぇ、ファブニル。これで婚姻の儀は終わり?」
「終わりでは……ない」
やけに声が強張っている。
そして僕は周りを眺めて気づいた。
蜥蜴人族の視線が全て僕とファブニルに集中している。
つまるところ、『さぁこれからが本番だ。早く性交を始めろ』と、待っているのだ。
土下座でお願いしたのはつい先程。
当然ファブニルが一族に説明する時間などなかった。
よくよく考えれば下に引かれた白い布は、彼等にとってのベッドにあたるのだろう。
これだけの視線が集まっていれば、「性交は後日にする」などと言える雰囲気ではない。
「エトゥス。すまん」
そう言ってファブニルは僕の両肩を手で押さえると、その薄い唇を唇に押しあててきた。
周りからは初めて反応ともとれるどよめきが起こる。
あぁ、どうやら願いは叶わなかったようだ。
僕は今から羞恥に晒されながら初めてを迎えるのだ。
せめて焚火を消してくれないかなと考えていると、口づけ越しにファブニルの微かな震えが伝わってくる。
あぁ、僕はなんて愚かなんだろう。
ファブニルのことを少しでも心配しただろうか?
掟だ風習だの言ってもファブニルが何も感じていなかったわけではなかったんだ。
うじうじ悩んでる場合ではない。
ここで男を見せずにどうする?
僕が覚悟を決めると、ファブニルは唇をそっと離し、立ち上がった。
「これにて婚姻の儀を終わる」
ファブニルの宣言に蜥蜴人族達は僅かに満足そうな顔をして、散り散りにその場を離れていく。
僕はただ突然の終わりに呆気に取られていた。
「すまん。エトゥスとの約束を守ることが出来なかった」
とても悔しそうな顔のファブニルは下を向いていた。
どうやら僕は盛大に勘違いをしていたようだ。
おそらく蜥蜴人族にとっての性交は接吻と同意義なのだろう。
なまじ言葉が通じるから確認もしなかったが、種族にとって捉え方が違うのは当たり前なのかもしれない。
落ち込むファブニルの顔を見て、僕の心臓が大きな鼓動を一つ打つ。
無意識に茜色の髪に手を添え優しく撫でる。
僕は初めて自分からファブニルに触れていた。
「ごめんねファブニル。僕は勘違いしていたんだ。ちっとも嫌な思いなんかしていないよ」
「そうなのか?」
顔を上げたファブニルと視線が絡み合う。
焚火に照らされたその顔はとても綺麗で、僕は我慢できずにそっと抱きしめた。
腕の中の彼女は一瞬ピクリと体を震わせたが、抵抗はせずにゆっくりと力を抜いて僕に身を預けた。
「ねぇ、ファブニル。僕はファブニルを妻とし、命尽きるまで愛することを誓います」
「なんだそれは?」
耳元で囁かれるファブニルの小さな声が心地よく感じる。
「人族流の結婚の誓いだよ」
「うむ。ならば我もエトゥスを夫とし、命尽きるまで共にあると誓おう」
それは周りから見ればままごとのような誓いだろう。
でも僕の心は満ち足りていた。
体を離し赤い目を見つめながら微笑むと、今度は僕からファブニルの唇に唇を重ねた。