多分世界最高記録だ
拝啓 ミルカ姉上
姉上と別れてからどれくらい時がたったでしょう。
謁見の間で姉上に触れたぬくもりは、今でも僕の体に残っています。
理想の相手と出会えたとはいえ、異種族婚は文化の違いもあり大変でしょう。
姉上は幸せですか?
ルシアハムア様の人となり、最後に見た姉上の顔を思い返せば杞憂にすぎないでしょうね。
僕ですか?
どう表現すれば良いのかうまく言葉が出てきませんが、とにかく驚きの連続です。
僕の常識など人間の小さな世界のものだったと痛感しています。
僕は今ンデモルガ様と2人っきりで、大陸の東に向かっています。
とても……とても凄い速さで。
とてつもない速さで流れる自然豊かな景色を眺めているうちに、意識が別の場所に飛んでいたようだ。
頭の中でミルカ姉上に手紙を認めていたが、謁見の間を出てからまだ一刻程も経っていない。
僕は今、ンデモルガさんの故郷に向かう籠の中にいた。
籠とはいっても木箱を大きくしたようなもので、扉と小さな窓以外は二人掛けの椅子がある質素な造りだ。一応これからの生活に役立つと小さな木箱が2つ乗っているが中身は確認できていない。
城を出た時に馬車ではなく籠が置かれていた時には驚いたが、なんでも王家がこの日の為に用意していたらしい。引きつった笑顔で対応していた文官が言うには蜥蜴人族が所望したとか。
隣に置かれていたミルカ姉上が乗るであろう豪華な造りの馬車は見なかった事にしておこう。
扱いはともかく、ンデモルガさんと二人きりの空間はとてつもなく緊張する。
会話がないまま時折こちらを見てくるのだが、その視線は捕食者のものにしか見えない。
出し入れされる長い舌はどの部位が美味しいのかと、味を想像しているようにも感じさせ、僕は身震いした。
二人きりなのは別に他の蜥蜴人族が気を使って籠に入ってこないわけでも、僕の調理準備をしているわけでもない。
そう。これは籠だ。彼らは籠を担いで走っているのだ。
驚くべきことは馬車の何倍もの速さで駆けているのに、中の揺れはほとんど感じない。
彼らの身体能力は人間とは比べようがなく、もし仮に僕が「少し用を足しに」と言って逃げ出したところで、一瞬のうちに捕まるだろう。
チラリと横に座るンデモルガさんを見る。
その表情からは機嫌を読み取れないが、おそらく不機嫌ということはないだろう。
しかしどう見ても蜥蜴であるその顔は、いまだに慣れることは出来ない。
ンデモルガさんの方を見ていると視線がぶつかる。
人間とは違う縦長の瞳孔を持つ赤い目。俗にトカゲ目と言われる有鱗目は獲物を逃がさない獰猛さを感じさせ、一度見入ってしまえば恐怖で視線を外すことは出来なくなる。
「ウム」
なんの脈絡もなく言葉を発したンデモルガさんだが、もしかしたら蜥蜴人族の『ウム』には別の意味があるのかと勘ぐってしまう。美味しそうだのの意味でないことを祈るばかりだ。
何せ僕は蜥蜴人族のことを何も知らない。
知っているのはその姿かたちと、ミルカ姉上に最後に教えられた使いそうにもない雑学だけだ。
婚姻とは名ばかりで、現地到着と同時に「ショクリョウ、キタ」と宴が始まるかもしれない。
差し当たって根掘り葉掘り聞くだけの勇気はまだないが、話しかけて情をかけられれば食材から愛玩用動物に昇格できる可能性もある。
何か軽い話題がないかと考え、僕は閃いた。
「あの、ンデモルガ様。ンデモルガ様の祖先も僕の祖先と結婚されたんですよね」
僅かながらも同じ血が流れていますよねと訴える作戦だ。
ある意味共通の話題であり、同じ血が流れていることを認識させて身の危険を減らす最適解のはず。
「マエノ、コンイン、ワレノオジ。ワレ、チニマジリナイ、ジュンケツ」
「そうですか」
空振りだった。
むしろお前とは血が繋がっていないから、遠慮なく食わせてもらうと言われた気分だ。
駄目だ、思考を切り替えて話題を探さなくては新鮮な食材一直線になってしまう。
会話から糸口を探ろうとして僕は気づいた。100年前に王族と結婚したのが叔父となると長寿の種族なのだろう。
ンデモルガさんもじつは100歳くらいなのかもしれない。僕は貴方に比べれば赤ちゃんみたいなものですよ作戦だ。誰だって赤子を食べようとは思わないだろう。多分。
だが僕が口を開く前にンデモルガさんが言葉を続けた。
「オジ、ケッコン、サンビャクネンマエ。ナツカシイ」
「へぇ、300――300年!?」
「ウム」
ちょっと待って。
情報が爆弾すぎる。
その間に蜥蜴人族と婚姻を結んだはずの2人の消息も気になるが、懐かしいといったンデモルガさんの年齢が300歳以上だと確定してしまった。
「ち、ちなみにその叔父さんの結婚はンデモルガ様がいくつ位の時にあったんですか?」
「ワレ、ソノトキ、ニヒャクニジュウ」
300年前に220歳なら……はい、520歳。
502歳の年の差夫婦の誕生だ。多分世界最高記録だ。
食べられずに結婚できたらだが。
「ワレラ、ジュミョウ、ニセン」
「そ、そうですか」
人間の寿命は概ね70歳。それに当てはめると……どうやらンデモルガさんと僕は同じ年になるようだ。
年齢の謎が解明されれば100年前、200年前の先人の行方が気になってくる。
食べられたにせよ、逃げだしたにせよ、僕の未来のためには聞かなくてはならない。
「あ、あ、あの。叔父さんの後は僕まで結婚は……なかったんですか」
意を決して聞くと、ンデモルガさんの瞳孔がさらに縮まるように細くなる。
やばい、聞いてはならないものを聞いてしまった。
まるでタイミングを合わせるように周りの景色の流れが緩やかになり、籠がゆっくりと降ろされた。
「デロ」
もはや抵抗は無意味だ。
僕は震える足で扉から外に出た。
澄んだ青空に、どこまでも続く草原。
当然だが助けてくれる者や、今から行われる惨劇を目撃する者は誰一人いない。
逃げ場を塞ぐように蜥蜴人族に囲まれると、鎧のような重厚さをもつンデモルガさんの手が俺の右肩に置かれた。
——食われる。
そう自分の死を感じて目をギュっと閉じる。
せめて一思いに頭からがぶりと食って欲しいと祈りを捧げると、まるで台風の中心が目の前にあるような強風が吹き荒れた。
僕の体ごと持ち上げられそうな激しさだが、ンデモルガさんの手が押さえとなって、それを免れている。
ようやく風が収まり恐る恐る目を開けると、世界が一変していた。
いや、景色はそのままだ。だけど僕の前にいたはずのンデモルガさんや周りにいた蜥蜴人族が消えていた。
消えたと錯覚するほどの変貌だった。
「大丈夫か、エトゥス」
凛と通る声を発したのは、僕の右肩に置かれたしなやかな褐色の手の先。茜色の長い髪に緋色の目を持つ女性。
僕は頭から食べられてしまい、女神が迎えに来たのかと錯覚してしまうほど、目の前の女性は美しい顔立ちだった。
「あの、えーっと、大丈夫です。もしかしなくてもンデモルガ様ですか?」
「うむ。我の名はファブニル=ンデモルガ。エトゥスもンデモルガを名乗るのだから、ファブニルと呼んでくれるとありがたい」
照れくさそうに頭をかいたンデモルガさん、いやファブニルさんは優しい笑みをこぼす。
僕の頭は混乱していたが、とりあえず心の中で叫ぶとしよう。
——っしゃぁぁぁ!! きたこれ!!