十分な見返り
「……ファブニル」
茜色の髪を揺らす女性の姿に言葉が漏れる。
心の片隅では期待していたと思う。だけど実際に謁見の間に入るファブニルの姿を見た僕は戸惑いを隠せなかった。
この場にいることの驚き。里を出ていってしまったことの後ろめたさ。会えたことの喜び。
僕が立ち尽くしていると、見かねた兄上が口を開いた。
「この方が住まわれている里では深刻な問題が起きているそうでな、その問題を解決すれば助力すると申し出があったのだ」
白々しく説明する兄上だが、僕とファブニルの関係を知っていての発言だろう。
でなければ国王たる兄上が簡単に信じるはずがない。いや、信じさせる何かをファブニルがしたのかもしれないけど。
「王国としてもそう悪い条件ではなくてな、王族の一人を生贄に出せば事足りると言われている。故にここからは国王としての言葉だ。エトゥス、汝を余の養子として迎え入れる。王族となった身であるならば王国のためにその身を捧げよ」
「……はい」
ファブニルが望んだもの。兄上の配慮。
その思いを感じて涙がこぼれる。
そんな僕を見て兄上は笑い、ファブニルは困った顔をしていた。
「……来て……くれたんだ」
「うむ」
「でも……いいの? 一族の掟があるんでしょ?」
もしファブニルがこのことで竜人族と軋轢を生み出してしまっていたら、僕が原因で里の平穏が奪われたことになる。
「うむ。問題ない。これは一族の総意だ。実は次期族長となる幼子がいるのだが、ここ数日は暴れに暴れてな。すでに一族に怪我人も出ている。よい子守を探していたのだ。一族の平穏のためだ、十分に見合った見返りだと思わぬか?」
アルマの不機嫌振りが目に浮かぶ。
きっと駄々をこねるようにあたり構わず暴れたのだろう。
「それは困った話だね。そんな大事な役目、僕に務まるかな?」
「うむ。むしろエトゥス以外には務まらぬ役目だ」
ファブニルは泣き笑う僕の頭に優しく手を乗せた。
慣れ親しんだ感触だ。
僕はふと、疑問に浮かんだことを兄上に聞いてみた。
「兄上は先ほど僕が身を引いていたらどうするつもりだったんですか?」
「覚悟の無い者を差し出すことは出来ないだろ? その時は丁重にお断りしていたさ。だがエトゥスの行動などお見通しだ。俺はお前が生まれた時から兄をしてるんだぞ」
兄上は微笑むとここからが本番だと顔を引き締め、大声を張り上げ扉を開け放った。
「今より会議を始める」
扉の前には国の重鎮達が控えており、兄上の後に続いた。
すでに会議の場は用意されており、別室に移った僕たちは机に置かれた資料に目をやった。
使者として帝国領内に向かうのは僅かに10名。
僕とファブニルにベイカル伯爵。御者と手練れの衛兵はつくが、あくまで無事帝国に着くまでの最低人員だ。
その他にも帝国の皇帝と謁見するまでの流れや、交渉に移った際の細かな取り決めがびっしりと書き込まれている。
「帝国が示した期日は残り少ない。これが最後の使者になるだろう。使者としての役目はエトゥスに任せる。ベイカル伯爵は交渉に及んだ際、間違いの無いように見極めよ」
「はい」
勢いよく返事をしたが、この資料をよく読むと大事な部分が抜けている。
僕は恐る恐る手を上げた。
「どうしたエトゥス?」
「兄……陛下。皇帝が交渉を拒否した場合はどうなさるのですか?」
そう。この資料は交渉することが前提で書かれている。
僕も全力をもって使者の役目を全うするつもりだが、兄上の先ほどの口ぶりでは会話にさえならない可能性がある。
すると兄上は苦笑いを浮かべ、僕の横にいるファブニルに視線を動かした。
「そこはファブニル殿にお任せした。なに、昨日この城で起きたことを再現すれば間違いなく交渉の場に移るさ」
僕は驚いて勢いよく顔を横に向けた。
相変わらず堂々とした態度のファブニルだが、一体昨日は何をしでかしたのだろう。
そんな僕らに構わず、兄上とベイカル伯爵、そして外交や法に詳しそうな重鎮たちが様々な意見を出し合いまとめていく。
そこに僕やファブニルの入り込む余地はなく、ただ黙って椅子に座っているだけだ。
昨日のことも気になるが、もう一つ気になることがある。
それはファブニルは相変わらず僕の頭に手を乗せたまま下ろそうとしないのだ。
緊迫した会議の中、僕たちに視線が集まらないとはいえ、少し恥ずかしい。
「ファブニル、そろそろ手を離してもいいんじゃない」
「気にするな。エトゥスがどこかに行かぬようにこうしているのだ。それに、我の心が落ち着く」
恥ずかしげもなく言われると、照れてしまう。
だがファブニルの態度に僕の心も落ち着くのだから不思議だ。
会議が続き書状が作られると、兄上は僕たちに声をかける。
「仲睦まじいところをすまんが、さっそく帝国に向かってもらう」
「はい。身命を賭して使者の役目を全うしてみせます」
かなり真剣に言葉を返したつもりだが、子供のように扱われている僕に兄上は口元を緩ませた。
「頼んだぞエトゥス。ファブニル殿」
僕たち使者の一団は足早に馬車に乗り込み帝国を目指す。
帝国まではおよそ20日。
僕とベイカル伯爵は何度も会談の流れを確認し、本番に備えているが、ファブニルは座席の半分を占領して寝ている。
もちろん美しい寝顔ではあるが、それをベイカル伯爵や衛兵に見られているのは変な気分だ。
「今日はここまでにしましょうか? 張り詰めすぎると会談まで持ちませんからね」
「そうですね」
一通りの確認事項を終えると、ベイカル伯爵は馬車専用の口の狭まった飲み物を机の上に置いた。
一緒にいるとよく分かるが、なんというかベイカル伯爵は力の抜きどころが上手だ。
話を詰める時は詰め、休息は休息として力を抜く。
このあたりが優秀と呼ばれる所以なのかもしれない。
僕は飲み物を手に持つと喉を潤わせる。
甘い果実水は頭の疲れを癒やしてくれるようだ。
ベイカル伯爵は様々な話をしてくれた。
たわいもない日常の話から王国と帝国との歴史。
説明が上手いからだろうか、とても楽しく耳を傾けていられる。
馬車には僕とファブニルの謁見用の服も用意されていた。
そういえばファブニルはいつもの布を纏っているだけ。
起きたファブニルが「着てみるか」とおもむろに布を脱ごうとした時は焦ったものだ。
僕は深みを帯びた青色を基調とした礼服で、ファブニルは亜麻色と白を基調とした体の曲線を隠すゆったりとしたローブともとれるドレスだ。
髪さえ整えればどこかの令嬢と言われてもおかしくない姿だ。
心配していた尻尾も上手く収納しているようだ。
落ち着きを見せていた僕だったけど、やはり帝国領が近づくにつれ緊張が高まっていくのを実感していた。
やがて馬車は山賊や夜盗に出会うこともなく帝国領内に入り、帝国の城まではすんなりと辿り着く。
城に着いてもベイカル伯爵がアスタレイア国王の書状を見せると、待つこともなく謁見が許された。
どれだけ事前準備をしてきても心臓が早鐘を打ち、足が震える。
隣に堂々と立つファブニルを見て、僕は一つの質問をした。
「ねぇ、ファブニルも緊張してる?」
「うむ。慣れない服で少し動きづらい」
多分それは緊張とは言わない。
だけどいつものファブニルの反応に少し心が軽くなった。
「行こうか」
「うむ」
僕は大きく息を吐き出すと、ファブニルと共に謁見の間に足を踏み入れるのだった。




