6.5
玄関に入り、ドアをゆっくりと閉めると、鍵をかける。スニーカーを脱ぎ、短い廊下を少し歩き、左側にある洗面所へと向かう。洗面台前で長い袖を肘までまくると、蛇口を勢いよくひねる。ジャーという音とともに、白い水の柱が洗面台へ打ち付ける。赤切れや、所々赤く皮がめくれた小さな手を、その水へとあてがう。
杏の帰宅後のいつものルーティンだ。この日、いつもと違ったのは、心臓の鼓動が収まらない事だった。顔も熱い。シャツが首から鎖骨にかけて張り付いているのがわかる。いつもの帰り道、徒歩とはいえ、こんなに息が上がったことなんてない。
息を整えながら、自分の火照った頬を、水で濡れた両手で抑えた。
今日1日、いや、数時間前に起こったことが思い出される。
わざわざ栞を届けに来てくれた。子猫もアドバイスを貰うだけのつもりだったのに、公園まで着いてきてくれて、その後施設にも一緒に行ってくれて。しかも車で送ってくれた...。
今日、私は本当にどうかしていた...。いつもなら、人間関係において、まして男性には十分な警戒をしてきたでは無いか。一緒に歩いて、まして、車で二人きり。どうしてこんな事に...。
彼の言葉、仕草、本、そして名前...。数年前の記憶が鮮明に蘇ってくる。
「うぅ...」
思わず声が漏れる。
きっと優しいのは、私だけじゃなく、皆にもそうやって近い距離で接しているんだ。私なんかに優しくしてるのも、私をおちょくってるのかもしれない。そうだ、きっとそうなのだ。私の反応を見て、楽しんでいるに違いない。
でも...助けてくれたのは事実。目を逸らした時、距離をとった時、絶対嫌な思いしたよね。それも、何回も。嫌われたかな。
いや、別に嫌われてもいい…。今までもそうやってきたじゃん。
すごくかっこいいし、恋人が居ないわけない...。まして、私となんて...。
隣を歩く彼の優しい笑顔を想像してしまう。杏は恥ずかしくなって、顔をブンブンと振って、流れ出続ける水を見るように俯く。
でも、でも...嫌われたくないって言ってる自分がいる。また話したい、少しでも一緒にいたいという気持ちが溢れ出してくる。
また顔を横に振り、自分の気持ちに蓋をする。
私なんてこの体で生まれてきた時から、恋愛なんてできないんだ。自分の赤くなった手を見つめる。
でも、私は、私は...。
何度も石鹸を使って、ひとしきり手洗いを済ませ、蛇口を閉める。タオルで手を拭いているその時、ポンっと言う軽い機械音が、リュックの中から聞こえる。リュックを前に持ってきて、スマホを取りだし画面をつける。
ロック画面にチャットアプリの通知が来ている。コーヒーカップとその横に積み上げられた本の山のアイコン。その横には「楓馬」の文字。
壁に背中を預けると、そのままズルズルその場に体育座りで崩れ落ちる。そしてスマホを両手で持ち額に押し当てると、目をつぶり唇を噛む。
ポタッと、蛇口から洗面台に雫が落ちる音がする。
顔を真っ赤にしてうずくまる杏は、しばらくその場から動くことが出来なかった。