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君に触れられなくても  作者: 浅葱 レイ
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6

 案の定また降ってきた雨が、フロントガラスへパタパタと打ちつけている。ワイパーが左から右へ横切り水をかき集めると、また戻っていく。

 雨の音と、時々高い声で鳴く子猫の声を聴きながら、2人は目的地へと向かっていた。杏は助手席でダンボールをしっかり抱え、時折 子猫の様子を確認するため箱の中を覗き込んでいるのが、運転しながらでも楓馬には分かった。そんな中、何気ない会話をしながらあっという間に時間が過ぎていく。大学の講義のこと、お互い知っている教授のこと、大学生活全般のこと、そして本のこと。共通点が多い分、話が尽きることは無かった。

 車を20分ほど走らせると、目的地の動物愛護施設へと到着した。平屋で白い壁の建物、左側に大きめの玄関、横長の建物の右側には、柵に囲まれた黄緑色の芝生の敷地が見える。走り回れるには十分のスペースであり、晴れの日には動物たちをそこに放したりもしているのだろうか。

 施設の前、こじんまりしてはいるが綺麗にコンクリートで舗装された駐車場へ車を止めると、エンジンを切り、楓馬はシートベルトを外す。

「ああ、ちょっと待っててね」

 隣の杏の降りるのを静止するように右の掌を彼女に向けた後、車に常に置いてある自分の黒い傘を左手で持ち、運転席のドアを開ける。横でシートベルトを外す杏が少し首を傾げる。運転席から降りると、傘を広げ助手席に回る。バンパーには沢山の水滴が、小さな小川のように幾重にも交わりながら、黒い車体の上を流れ落ちていっている。それを横目に、助手席側の前に立つと、ドアの前で傘を高く持ち上げドアを開ける。

「どうぞ。頭気をつけて」

「あ、ありがとうございます。すみません」

 杏がダンボールを抱え身を屈めながら、車から降りる。1本の傘の下で身を寄せあい、建物に向かって2人はゆっくりと歩き出した。



 その後、無事に子猫を預けることが出来た。先程電話対応してくれた中年の女性にも会うことができ、予想通り親切に対応をしてくれた。この時期は繁殖期ということもあり、保護する子も増えているという。楓馬たちの連れてきた子は、衰弱した様子はないが、きちんと病院を受診し、保護や譲渡、または迷い猫との照合もすると説明があった。2人は一安心し、肩の荷が降りる。杏もまた体の緊張が解けているのを楓馬は感じとっていた。

 車へと向かう帰り、傘が1本しかないため、再び楓馬が傘をさして、杏をその中に入れる。行きの時もそうだったのだが、結果的に相合傘になってしまった事に楓馬は改めて恥ずかしさを感じていた。一方で杏は、体を丸めてひたすら下を向いて歩いている。先程一瞬見えた安堵の表情も今は無く、非常に緊張しているようだ。杏が濡れてしまうので、楓馬は右手に持った傘を彼女の方へと近づける。その右手が彼女の顔辺りに近づく度、敏感にそれを察知し、体を硬直させ、一歩楓馬から離れる。さながら磁石の同じ極同士の反発のようだ。

 明らかに避けられているのを感じ、楓馬の心がギュッと締め付けられる。今日1日、杏は普通に会話をしてくれるし、嫌な顔をすることもない。しかし、ひしひしと感じる警戒と常に一定を保つ距離感。それらに予想以上に自分の心を傷つけられていることに、楓馬は気づき始めていた。車までのほんの数十歩の道のりが、施設に向かうため猫を抱えていた時よりも長く感じた。



「よし、帰るか」

 エンジンをかけ、シートベルトを締める。バックミラーを左手で持って位置を調整する。その時、

「青山さん、血が...」

 杏が掲げられた楓馬の左手を見ながら言う。

「ん?」

 楓馬は手を引っ込め、その左手の甲を見る。親指と人差し指の間の付け根辺りに切り傷ができ、少し出血していた。

「あれ、ほんとだ」

 先程施設の中で猫を取り出す際、一時的にダンボールを楓馬が抱えたことがあった。その際、それを杏から貰う時に、ダンボールの底に少し手を引っ掛けた感触があった事を思い出す。

「ああ...さっきのダンボールかな。痛くなかったから、大丈夫だと思ってたわ」

「さっきのダンボール...。あ、私、私のせいで怪我しちゃったんじゃ...」

「いやいや、違う違う。俺、本当におっちょこちょいな所あるから。気にしないで」

 楓馬はそう言って笑うと、運転席と助手席の間にあるティッシュを引き出し、左手の血を拭う。

 そんな中、杏が横で自身のズボンのポケットをゴソゴソと探っている。そしてポケットからポケットティッシュ程の薄く小さなポーチを出すと、そこから絆創膏を1つ取り出す。そして、楓馬に差し出した。

「これ、使ってください」

「マジ?ありがとう。助かるよ」

 楓馬は杏に満面の笑みで礼を言うと、絆創膏を両手で受け取った。杏もふっと目元を緩める。

 そして楓馬は絆創膏の接着面から紙をはがして右手でそれを持つ。利き手とは逆の手で、手の甲に貼り付けるのは意外と難しい。上手く言うことを聞かない右手を必死に動かし、傷口にそっと乗せようとしたが、絆創膏が折れ、接着面同士がくっついてしまった。

「うわ、マジか」

 思わず声が漏れる。そんな様子を見て杏が呟く。

「もしかして左利き...ですか?」

「ははは、分かった?そうなんだよー。そしてなんと言っても、俺は致命的に不器用。いや、ごめん。本当にごめん、せっかく貰ったのに...」

 楓馬が謝っていると、それを聞いた杏は楓馬の左手を見つめて固まってしまう。どこか上の空のようだった。

 そして直ぐにハッと我に返ると、再びポーチを出し、その中から絆創膏を取り出す。

「これ、もう1枚どうぞ」

「ありがとう。次は成功させるから」

 そう言って楓馬はそれを受け取ると、さっきよりも慎重に接着面の紙をはがす。その様子を真剣に見つめていた杏は、息を浅く吸い込むと口を開いた。

「あ、あの…。私、やりましょうか…?」

 そう言って楓馬を見つめる。眼鏡のレンズの奥の小さな目と目が合う。

「いいの?お願いしていい?」

 また絆創膏をダメにしてしまっても悪い。楓馬は杏の提案にありがたく乗ることにした。

 杏は剥がし掛けの絆創膏を受け取ると、残り半分の紙を剥がした。そして両手でその左右を持ち、傷口に近づける。傷口にガーゼ部分を優しく乗せると、少し引っ張りながら粘着部分を手に反って貼り付ける。その手は少し震えてるように見え、楓馬に触れないよう緊張しているように見えた。

「ありがとう」

「いえ…。他は大丈夫ですか?」

 杏が楓馬のゴツゴツとした白い両手を交互に見つめている。少し眉をひそめて真剣に見つめているその姿から彼女の優しさを感じ取り、楓馬はふっと口元を緩めると、

「うん、ありがとう。大丈夫。...よし、行くか」

「はい。お願いします」

 杏がペコッと頭を下げる。ギアをドライブに入れ、車はゆっくりと走り出す。どんどんエンジン音が大きくなる。

「そうだ、雨もすごいし良かったら家まで…」

 楓馬はそう言って横目で杏を見たが、今までの杏の警戒ぶりを思い出し、いきなり踏み込みすぎたと思い楓馬は慌てて視線を前に戻し言い直す。

「あそこの公園前に送るね」

 その声に杏も何かを感じたようで、少し申し訳なさそうに、

「あ...はい。ありがとうございます。助かります」

 と、答えた。



 楓馬は杏に対する自分の気持ちの変化に気が付き始めていた。最初からだが、杏のことが気がかりで、放っておけない気持ちになる。今日はいつもと様子が違うと分かったのも、気がつけば瞳や仕草などを目で追うように見ていたからだ。そして、コロコロ変わる表情が、愛おしいとさえ思い始めている。ハンドルを持つ両手に自然と力がこもる。

「あの...」

 杏が突然改まって口を開く。

「うん?」

「本当にありがとうございました」

 隣で楓馬に向かって頭を下げる。楓馬は笑いながら答える。

「いやいや、大丈夫だよ。俺も久しぶりに子猫見られて、ちょっと楽しかったし」

(あと、水樹さんとまた話せてよかった)

 楓馬はその言葉を必死に飲み込んだ。

 左折のウィンカーを出し、青信号と左右を確認し、ハンドルを左に切る。

「本当に色々助けていただいて...」

「ははは。いやー、むしろお人好しって言うか、お節介だよね。嫌じゃなかっ──」

「嫌なわけないです」

 杏が食い気味で、声量は無いがしっかりした声で語りかける。横にいる楓馬の横顔を真っ直ぐ見つめる。

 楓馬は視線を感じて一瞬横目で杏を見る。今までとは違う真剣な顔でこちらを見つめる杏の姿が見えた。

「助けたいと思って、それを行動に移せる人って、私、本当に尊敬しています。しかもこんな私にまで…。一番最初の、あの自己紹介の時も…私、私、本当に感謝しています。今日も青山さんがいてくれて心強かったです」

 杏が一つ一つ言葉を選び必死に想いを伝えてくれようとしているのを楓馬は感じ取っていた。照れる自分の顔を見られないよう、前方に顔を向けたまま、楓馬は答える。

「そう言って貰えて嬉しいよ。水樹さんもさ、素直にお礼言ったり、自分の気持ち伝えるの、普通にできることじゃないと俺は思うよ」

 それは自然と楓馬の口から出てきた本心だった。そして横目で杏を見て自然に笑いかける。杏は目が合った途端、慌てて前を向いて顔をふるふると横に振ると、顔を伏せた。サイドの髪から見える耳がみるみる赤くなる。

 沈黙が流れ、車のエンジン音だけが車内に響く。楓馬が堪らず、顎を軽く揚げ、息を吸い込むと、

「っすぅーーーー。あー、もう、何か、恥ずかしくなっちゃったぞ。全く水樹さんのせいでー」

「え、私のせい…、え、ごめんなさい」

 杏が分かりやすく助手席でうろたえている。

 楓馬はそんな杏を見て左手を横に振りながら、

「うそうそ」

 と言って笑う。

 雑談をしながらあっという間に時間が流れていく。猫の話、大学の話、もちろん好きな本の話題も。杏が頷き相槌を打ちながら聞いてくれる。

  マスクをしていても分かるほどに変化する表情、言葉の端々に感じる優しさと、素直さ。落ち着いた声。その全てが楓馬の心を満たしていく。

 

「くしゅん」

 杏のくしゃみが聞こえる。マスクの上から更に手で口を覆っているので、そのくしゃみは籠ったものだった。

「大丈夫?寒い?エアコン切ろうか?」

「大丈夫です」

「あ、ティッシュここにあるから」

 楓馬が左手で助手席との間にあるティッシュケースを掴む。

「すみません。ありがとうございます」

 隣でティシュを引き取る音がする。

 交差点で赤信号になり、ブレーキを踏む。

 楓馬はふと横にいる杏を見た。マスクを下にずらし、鼻をかみ終えたところだった。そこでマスクをとった顔を初めて見た事に楓馬は気付いた。

 思っていた以上に色白でほんのり赤みを帯びている少し突き出た頬。マスクの下に隠れていた小さくて低いがすっと伸びた鼻筋、小さく薄い唇。メガネの横から見える目はアレルギーなのか涙でうるうるしていた。奥二重のタレ目から想像していた可愛いとは違う、どちらかと言えば綺麗な顔がそこにはあった。

 思わず心臓が跳ねる。

 杏が右側から感じる視線に気づいたようで、運転席の楓馬と目が合う。楓馬は見とれていた自分が恥ずかしくなり、大きな咳払いをしながら、それ誤魔化すように慌てて、前へ向き直り、赤信号で暫く離していたハンドルを握り直そうとした。その拍子に右手がハンドル中央に勢いよく当たり、プっと軽いクラクションの音が響き渡る。

「痛っ!わっ!」

 杏が突然のその音と声にびっくりして肩をビクつかせると、ティッシュを両手で持ったまま固まる。

「うわ、ごめん」

 楓馬の顔に熱が溜まっていくのがわかる。

「何か、ハンドル握ろうとしたら、何かこう...」

 杏はしばらく固まっていたが、クラクションの余韻と、顔を赤くして身振り手振りをしながら必死に弁解する楓馬に耐えきれず思わず吹き出した。

「あは、あはははは」

 杏が初めて声を上げて笑った。自分の口に軽く左手を当ててケラケラと笑っている。

「ごめん、なさい、おもしろくて」

 頬が持ち上がり目が無くなる。今までの物静かなイメージとは違うその無邪気なくしゃっとした笑顔は、とても、とても可愛かった。この顔をずっと見ていたいと心から思った。そして俺がこの笑顔を作ってあげられたら、とさえ思った。

 その瞬間、まるでコップに注がれた水が溢れるように、自分の心に溜まってきた感情がどんどん溢れ出てくるの楓馬は感じていた。彼女のことをもっと知りたいという欲が込み上げてくる。

 この笑顔のように誰にも見せていない部分を知りたい。たまに見せるあの警戒を、俺にだけは解いてくれないだろうか。その隠れた部分を俺だけに見せてはくれないだろうか...。

 大学に通い、同じ講義を受けていたこと、同じ作家が好きなこと、栞のことも、そして猫のことも...。その全てが自分と杏を引き合わせているような気さえしてくる。


 彼女がニコニコして笑う横顔を見て、自然と自分も声を上げて笑っていた。車内に2人の笑い声が響き渡る。

 フロントガラスにうちつけていた雨はいつの間にか止んでいた。ワイパーを止める。

 ひとしきり笑って、上がった息を整え始めた頃、目の前の信号が青に変わる

 隣でまだ涙を拭いながら笑う杏を横目に、楓馬はブレーキから足を離し、アクセルを力強く踏み込んだ。

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