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教室から出たものの、杏が何処に行ったのか分からないことに楓馬は気づいた。とりあえず講義室のあるB棟2階から階段を下り、1階へ。廊下を進み、B棟の1階ロビーに向かう。ここのロビーは大学正面の1番大きな入口を入ってすぐのところに位置する。バスのロータリーと最寄り駅がここの南側、学生や関係者の駐車場が北側にあり、1番学生が行き来する場所だ。
そんな広々としたロビーは友人に別れを告げたり、次の教室に移動をしたりしている学生でごった返している。楓馬はよく目を凝らして彼女を探した。
(確か今日は白いシャツで、小柄な黒いショートボブの髪で...)
右手の栞を無意識に握りしめる。正面玄関から他の棟に繋がる大きな左右の廊下をキョロキョロと見回す。すると東に伸びる廊下でたくさんの学生たちに阻まれ、行く手を遮られ狼狽えている杏の姿があった。やはり慌てている様子であり、前に進みたいようだが、廊下いっぱいに広がって歩く学生達に圧倒され右往左往しているのが見てとれる。
楓馬が足早に彼女に駆け寄る。
「水樹さん、水樹さん」
楓馬は声をかけるが、その声は一瞬でその大勢の学生のざわめきにかき消されてしまった。杏は体を横に向け小さくなり、学生の間を何とか縫って前に進もうとしている。1度近づいた彼女の背中がまた遠くなる。
楓馬は彼女の後を追った。人の間を抜け、黒いリュックを背負うその背中を追う。そして手の届く距離まで近づくと、腕を伸ばし、彼女の華奢な肩をポンポンと軽く2回叩きながら声をかける。
「水樹さん」
杏は体をビクッと強ばらせ、まるで石のように固まった。こうして後ろに立ってみると彼女の身長は楓馬の肩の高さほどしかない。
「ごめん。驚かせて」
もう一度声をかけると、杏は恐る恐る後ろを振り返り、楓馬の胸から顔へと視線を徐々に上げていく。そして楓馬の顔を見ると、目をぱちくりさせて、上目遣いで見つめてくる。
「青山...さん…?」
楓馬は内心少しドキッとして、少し目を泳がせながらも何とか冷静さを取り戻すと、
「ちょっと渡したい物があって、あーもうちょっと先行こうか」
「…?」
少し立ち止まった2人の横では、学生たちが前後から往来を続けている。楓馬は彼女の前に立つと学生たちの間を歩いていく。杏もあっけに取られながらも楓馬の背中を見失わないように必死に後を着いていった。しばらく行くとC棟の小さめのロビーに2人は出た。気付けば人の往来も、中央のロビーに比べ少なくなっている。
ロビーの端に行くと楓馬は立ち止まり振り返った。思っていたよりも近くに杏がついてきていて一瞬驚いたが、すぐに握っていた右手を開いて栞を見せる。
「これ、落ちてたんだけど、水樹さんのじゃない?」
杏は驚いて栞と楓馬の顔を交互に見た。そしてリュックのベルトを片方だけ肩から外し、自分の前へ持ってくるとチャックを開ける。中から文庫本を取りだしパラパラとめくっていく。間には何も挟まっていなかった。
「私、の…です」
「良かった。そうだと思って」
楓馬は安堵の表情を浮かべると、栞のリボン側を持ち、杏に向けて差し出した。彼女はシャツの袖でほとんど見えない両手を楓馬に差し出す。楓馬はその小さな両手に栞を置いた。
「ありがとうございます。わざわざすみません」
栞を受け取ると杏は何度もペコペコとお辞儀を繰り返した。
「どういたしまして。俺も栞落とすの何回かやってる。ほら、俺も紙の本持ち歩く派だからさ」
楓馬は片手を首元に当てハハハと笑った。そして思い出したように目をぱっちりと開く。
「あ、そういえば、なんか急いでる感じに見えたけど、大丈夫?」
「あ」
杏は思い出したように急いで本と栞をしまうと、リュックを背負い直した。両手でリュックのベルトを掴む。
そして楓馬の顔をはっと見上げる。楓馬と杏の目が合う。まじまじと見つめられ楓馬が戸惑っていると、杏がまた目を逸らして、下を向く。
「あ、あの…」
杏が下を向いたまま呟く。
「ん?」
楓馬が首を傾げる。杏のベルトを持つ手に力が入る。
「猫…。猫飼ってた事あるって」
「あー、うん。俺ん家じゃないけど、じいちゃん家がね」
急な話題に面食らったが、楓馬は優しく答える。杏は軽く頷くと、
「実は、講義の前に、公園で、多分野良?の子猫を見つけて...」
「え。うん」
楓馬が驚きながらも優しく頷く。
「今からまたそこに行こうと、思ってるんですけど、もし、まだいるようだったら、どうした方がいいですかね…」
その声はか細く震え、ベルトを持つ手もまた震えている。楓馬は今にも壊れてしまいそうな彼女に、できる限りゆっくりと話しかけた。
「なるほど。だから急いでたんだね」
「はい…」
杏が頷きながら答える。どうやら彼女は、以前の自己紹介の時に少し話した猫の話を思い出し、楓馬に助けを求めたらしい。
楓馬の中に彼女を放っておく選択肢など全くなかった。楓馬が自然と続ける。
「俺も猫の所に着いて行ってもいい?んで、それからどうするか一緒に考えよ」
そう言い終わると同時に、楓馬は自分の積極的な言動に我ながら驚いてもいた。
杏が顔を上げる。その目にはうっすら涙が浮かんでいるように見えた。内気な杏にとっては最大の勇気を振り絞って言ったことだったのだろう。杏の前髪から除く垂れた眉が申し訳なさそうに、さらに八の字になる。
「え、あ、でも、もう居ないかもしれないし…。あ、青山さんもこの後用事とか…」
「いや、俺、この後マジで暇だし。気にしないで。俺もその子猫、気になる」
楓馬はそう言って笑顔を見せる。
杏はその顔を見ると眉と目を緩ませる。そして頭を深々と下げた。
「ありがとうございます。お願いします」
楓馬たちの通う大学は比較的田舎にあるが、全国から若者を中心に大勢の人が集まる。敷地も広く、学習棟、実習棟、講堂はいくつもあり、医療と福祉の大学の為、敷地内に大学病院や福祉施設も併設されている。それらの施設が多いため、敷地を確保でき、車の乗り入れがしやすい比較的田舎に立地しているのだろう。その病院、施設は実習やボランティアなどでお世話になる学生も少なくない。
都心部からは少し離れているが、近くには商業施設や住宅街のある比較的賑やかな場所に立地している。そのため大学は駅まで車で10分ほどの場所にあり、電車やバスで通学している学生がほとんどだ。
緑の桜並木の遊歩道を杏と並んで南へ向かって歩く。もう6月なので春のような桃色の花びらではなく、青々と茂る葉が、雨上がりの水滴でキラキラと輝いている。しばらく進むと、横断歩道を渡り、病院や施設、住宅が並ぶ南のエリアへと入っていく。
杏の話によると子猫のいる公園は、キャンパスとは道路を挟んで反対側、つまり今いる住宅街や学生専用のアパートが立ち並ぶ区画だそうだ。
「俺、車だし、こっちの方来たことないから新鮮」
「そうなんですか。あ、学生駐車場は北側ですもんね」
「そうそう」
楓馬は雨上がりのアスファルトの匂いを感じながら、今までに行ったことのないキャンパスの南側の景色を楽しんでいた。
施設や救急の現場での仕事を将来希望する学生の中には、送迎車や救急車の運転をしなければならない場面も出てくる。自動車免許の取得は就職において1つの強みになるのだ。そのため車通学を許可し、普通の大学や専門学校に比べ、車通学の生徒の割合が多いのもこのキャンパスの特徴で、楓馬もその1人だった。
住宅街へと足を運ぶ。施設も充実しているためか多世代家族の多いこの地区は、一戸建ての比較的大きな家が多い。
再びいつ降ってきても不思議では無い雨上がりであり、加えて平日のこの時間なので人通りも少ない。道が狭いため1列で、轍にできた水溜まりを時より避けながら杏の案内で歩いていく。
リュックのベルトを握りしめ、隣を伏し目がちに歩く杏は、どこか落ち着かない様子だった。楓馬とも一定の距離をとり、何気なくポツリポツリと話す世間話も少し上の空のようだった。楓馬はそんな杏をチラチラと見て気遣いながら、少し早足の彼女のスピードに合わせ歩みを進める。不思議と気まずさというのは感じず、隣に並んで歩くそれだけで心地良さを楓馬は感じていた。
大学から歩いて5分ほど経った頃だろうか。住宅街の中、左側に植木で囲まれたこじんまりした公園が見えてきた。
「あそこです」
杏は指を指しながらそう言うなり左右を確認して道路を渡り、小走りで公園へと入っていく。楓馬も左右を確認して、杏の後を追う。
入口の両脇に建てられた2mほどの石塔には「アジサイ公園」と彫られている。
中央に5mはあろう大きな木が1本植えられていて、青々とした葉を枝に付けている。公園と言っても遊具はなく四方にベンチが数個、手洗い場と水飲み場とちょっとした砂場があるくらいだ。
しかし、アジサイ公園というだけに、公園を囲う植木は全て紫陽花で、青や紫、白、ピンクの花が綺麗に咲き乱れている。
楓馬は他に人の見当たらない公園内を見渡すと、右側のベンチとベンチの間にうずくまる小さな背中の杏を見つけた。駆け寄って見ると、青い傘が開かれたまま置かれ、その下に小さく底の浅いダンボールが置かれていた。
楓馬はそれを見つめる彼女の左側に並んで座る。杏は楓馬を少し見上げてみると、避けるように右にズレて距離をとった。覗き込むとダンボールの中には水色の小さい毛布が敷き詰められていた。
「ここにい──」
楓馬がそう声をかけたその時、その毛布の下をモゾモゾと何かが動く。ミーという鳴き声と共に、下で動いていたものが顔を出す。
「うわ、小さいね」
白い子猫が1匹。子猫の体は少し土埃などで茶色く汚れてはいるが、鳴き声も力強く元気そうに見えた。目の前の杏や楓馬にも警戒している様子はなく、人懐っこそうに思える。
「そうか...君のお母さん来なかったか...」
杏がそう言って悲しい顔をすると、隣で膝を抱え更にうずくまり、ぽつりぽつりと話し出す。
「私、さっきの講義の前、大学に向かう途中に公園から鳴き声が聞こえて、この子を見つけたんです。1匹だけでとても寂しそうに見えて…。それで、とにかく何かしなきゃと思って、このダンボールと毛布を取りに家に戻りました」
杏がダンボールの中に敷きつめられている毛布を、シャツから少しだけ手を出して指さす。楓馬がうんうんと相槌を打ちながら、彼女の話を聞く。
「そかそか」
講義に遅れたのはそのためだったのだろう。
「この傘も水樹さんの?」
「そうです。雨、降りそうだったので」
「そういえば講義中は結構な勢いで降ってたな」
楓馬は話を聞きながら、しきりに頷く。そして、猫に触ろうと、右膝を立てるよう一歩踏み出す。ザッと楓馬のスニーカーと地面が擦れる音がする。隣に一人分ほど間を開けて座る杏の肩が少し震える。楓馬は横目でそれに気づき、少し気になったが、左手をゆっくりと子猫へと伸ばした。その時「シャー」と顔をしかめて、歯をむき出しにし、子猫は小さいながらも必死の威嚇を楓馬に見せた。楓馬は面食らい、手を引っ込めると悲しそうに項垂れる。
「えぇ...。まじか。俺なんかしたか...。...あ、香水かも」
楓馬は両手首をくんくんと交互に嗅ぐ。杏がそんな楓馬を横目で見ると、また子猫に視線を戻しぼそっと呟く。
「なるほど。香水…。青山さん、いい匂いしますもんね」
「…っ」
楓馬の右手首を嗅ぐ手が止まる。心臓の鼓動が早くなり、身体中の熱が顔に集まってくるのを感じる。隣で子猫を一身に見つめる杏は、そんな楓馬に気づくことなく話し出す。
「私、家に連れて帰って、しばらく保護しようかと思ったんですけど、ペット禁止だし、あと、親猫が近くにいたら、可哀想だと思って」
杏が膝を抱え直す。楓馬は無理やり気持ちを切り替えて、そのマスクで半分覆われた横顔を見つめながら頷く。
「す、すごい良い判断だったと思うよ。傘もこのダンボールも、毛布も。てことは、見つけてから1時間半経つけど、親猫は来てないみたいだね」
楓馬が尻のポケットからスマホを取りだし時間を確認しながら言う。辺りを見渡して見ても親猫の存在はなく、声すらも聞こえることは無かった。
「このくらいの大きさだと、生まれて2,3ヶ月くらいかな。元気そうだけど、子捨てかな…」
楓馬が眉間に皺を寄せて子猫を見つめる。
「こ、すて…?」
「ああ、うん。じいちゃんちで飼ってた子もそうだったんだけど、例えば、初めて出産して子育てがわからなくて育児放棄しちゃうとか。猫って1回に数匹産むんだけど、あとはその中で小さかったり、体が弱かったりする子は育児しないことがあるみたい。この子は元気そうだし、育児放棄かもしれないけど」
「育児放棄、弱い子…」
杏がそう小さく呟きながら自分の両膝に顔を埋める。
「うん、残酷だよね。俺だったら小さかろうが、弱かろうが、できる限り近くで支えてあげたいって思うけどなぁ」
楓馬が軽く顔を上げ、どんよりした空を見上げながら答える。その言葉に杏はグッとなにかこらえるように小さい背中を更に丸めた。
「でも、猫のことだし、自然界は厳しいからなぁ…。でもお前、その中でよく頑張ったなー。偉いぞー」
楓馬がそう声をかけながら目を細めて子猫をまた見る。すると杏は目を丸く開いて楓馬の横顔を見つめた。そして楓馬がそれに気づき、こちらへ首を向けようとしたのを見て、直ぐにまた子猫へと視線を戻す。
杏の横から見える目を見ながら、楓馬はほほ笑みかける。
「でも、水樹さんに見つけてもらえてこの子めっちゃ喜んでると思うよ」
猫がそれに答えるように元気にミーと鳴く。杏は一瞬楓馬に顔を向けたがすぐに目をそらす。そして、ゆっくり猫に手を伸ばす。子猫がその手に擦り寄ってくる。
「そう…だったらいいな」
目を細めて杏は微笑んだ。その優しい横顔を楓馬は真っ直ぐ見つめていた。
「さてと」
楓馬はスマホを再び取り出すと、「捨て猫 保護」と検索をかける。近くの動物愛護団体や動物病院の名前がヒットした。
「水樹さん」
杏に声をかける。杏が猫を撫でるのをやめて、隣の楓馬を仰ぎ見る。
「家族とか知り合いに引き取ってくれそうな人いる?」
杏に確認する。杏は少し考えたが、顔を横に振りながらながら「いないです」と答える。
「おけ。うーん、俺も、実家も、もうじいちゃん家にも無理だしな…」
昔、楓馬の祖父母のうちでは三毛猫を一匹飼っていたことがあった。祖父母ももう高齢で、数年前にその猫も天国へ旅立ってからはもう飼っていない。再びスマホに視線を移す。
楓馬はその場に立ち上がり、少し杏と子猫から距離をとると、子猫について相談するため、近くの動物愛護団体に電話をかけてみることにした。
電話はすぐに繋がり、今の状況、知り合いに飼える人がいないこと、大学生で保護することも難しいことを伝える。電話口の女性はとても優しく、具合が悪そうなどの状態でなければ、うちで1度預かりますと答えた。楓馬は子猫をそこへ連れていくことに決めた。
杏にもその事を話す。杏は立ち上がり、黙ってその話を聞いていたが、話終わるとほっとしたような表情を浮かべ、「ありがとうございます」と頭を下げる。
楓馬はスマホでマップを開くと、
「この場所はええと、ここから車で20分くらいなんだけど」
その言葉に杏がキョロキョロと目を泳がせる。
「水樹さんが時間とか大丈夫で、嫌じゃなければなんだけど…」
楓馬は少し言い淀んだが、真っ直ぐに杏を見つめ、
「その子抱えて着いてきてくれたらうれしい。俺はほら、少し嫌われちゃってるみたいだし。あと、見つけた時のこととかも、着いたら話してくれたら助かる。俺、運転するからさ」
杏に一瞬不安のような恐怖のような表情が浮かぶ。
「あ、別に水樹さんがよければで...本当に」
しばらくの沈黙。杏は伏し目がちに足元を見つめ、重ねられた両手は、右手で左手をギュッと握りしめている。必死に何か考えているようだった。
その時、パタッと音を立てて、1つの小さな雨粒がダンボールへと落ちる。楓馬が天を見上げる。どんよりとした黒く重そうな雲が、今にも落ちてきそうだった。
「…ます」
か細くかすれた声が楓馬の耳に届く。視線を杏に戻す。
「行きます。よろしくお願いします」