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君に触れられなくても  作者: 浅葱 レイ
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 午前中久しぶりに晴れ間をのぞかせていた空も、今ではどんよりと重い灰色の雲で覆われていた。今にも雨粒が落ちてきそうな雲行きである。

  換気のために窓が所々開いている。時折吹いてくる生ぬるい風は、これから来る夏を知らせているかのようだった。6月中旬にもなり、コミュニケーション論の講義も10回目となっていた。

 

  手元にある冊子に目を落とす。「実習計画書(介護施設)」表紙にはそう書かれている。

「ふぅ...」

 楓馬はため息をつき、右手で冊子のページをめくっていく。左でシャーペンを回しながら、所々空白が目立つそれを眉間に皺を寄せながら見つめる。

「どうすか、進みました?」

 そう言いながら智矢は持っていたスマホを机に置くと、楓馬に体を寄せ、計画書を覗き込んできた。

「んー、進んではないね。実習のために、というか将来の自分のために必要なのは分かってるけどさ、やっぱりめんどくさいわ。書く事無くなってくる」

「ほんとそれな。まあ、ゼミとかサークルとかで先輩の計画書貸してもらって丸写ししてる奴もいるから、俺らは頑張ってるほうよ」

「そういう人も居んのか。はは...皆色々考えるねぇ...」

 夏休み期間中に実習がある楓馬は必死に実習計画書を書きあげようとしていた。実習先を調べ、何を学びたいか、何を目標とするかなど、事細かなことを書かなければならない。実習は1度ではなく数回あり、実習先が変わればその都度新しいものを提出する。文章を書くこと自体苦手では無い楓馬もさすがに手詰まりを感じてきていた。

 その時、ポンっという機械音が智矢のスマホから聞こえてくる。どうやらチャットアプリの通知音らしい。智矢は楓馬から体を離し、再びスマホを手に取ると、硬く冷たい背もたれに体を預け、また片手で操作を始めた。スマホを見つめる智矢の横顔、うっすら口角が上がっているのを楓馬は横目で恨めしそうに見る。本人は恐らく無意識なのだろう。

 楓馬は再び視線を手元に移し、ペン回しを続けながら、右の手のひらを自分の額に当て、うーんと唸りながら文字通り頭を抱えだした。

(利用者の方とのコミュニケーション...いや、これは前に書いたな...)

 前と同じことを書いてはいけないという事は無いのだが、楓馬にとってそれは何となく負けのような気がしていて、前回目標としたことを今回も書くというのは、つまり目標達成ができなかったということで...などと色々と考えてしまう。教授にも下書きを見せるから尚更だ。彼には少し自分に厳しいというか、頑固な部分があった。

 左手で頬杖をついて遠くを見つめる。そして何気なく教室内を見下ろす。いつもと同じく中央の列のやや後方から眺める教室内の風景。

 向かって左側の教卓には担当の佐藤教授。ノートパソコンを立ち上げ講義の準備に取り掛かっている。

 始業5分前になろうとしているので学生たちは揃い始めていた。皆スマホ片手にネットサーフィンをしていたり、友人と話をしていたりしている。何気ない休み時間の風景だが、楓馬は違和感に気がついた。

(水樹さん、まだ来てないな...)

 楓馬は上下にスライドできる大きな黒板の右上にある丸い時計に目を向ける。始業時間の午後1時まで残り3分を切っていた。

  楓馬と智矢は、まだ学生がほとんど居ない12時過ぎにこの教室に集まり、昼食をとっていた。そのため、杏がいつもならば開始15分程前に教室に入ってきているのも楓馬は知っていた。毎回同じ、窓際の列、前から二番目、そこが彼女の定位置だった。そして決まって始業まで読書をしていた。

 時計の長針がまた12に近付く。教授は左手首の内側に付けられた腕時計をチラッと確認すると、こちらに背を向け、ガラガラと音を立てながら頭上に収納されているスクリーンを引っ張り出す。大きな黒板を白い布が覆い隠していく。限界まで下ろし固定をすると、教授が前に向き直り、教卓の上のマイクを手に取る。スイッチを入れ、マイク部分を手のひらで2回叩く。マイクを通して拡張されたボフボフという大きな音は、学生の注意を一斉に正面に向けるには十分であった。教室内の話し声が少し小さくなる。

「あー、あー。みなさん、こんにちはー。出席はいつも通り最後に取りますよー。それと...あれ、なんか言おうと思ったのよね...」

 そう言うと教授は右手をこめかみに当てて、目を閉じ考え込んでいる。

 教授の声で一瞬静かになった教室が少しづつまたザワザワとし出す。

 楓馬は机の上に広げていた冊子をファイルに挟んで片付け始めた。

 智矢も隣でスマホをカバンにしまい、そこからテキストと筆記用具を取り出す。

 その時、教室内前方のドアがゆっくりと開き、黒髪で小柄な女性が顔をのぞかせた。黒縁メガネに大きなマスク、白い薄手のシャツに黒いパンツ姿。杏だった。彼女が肩で大きく息をしているのが、楓馬の席からでも見てわかった。杏に気づいた教授が入口付近を見るため顔を左に向ける。半開きのドアの間から、教授と目が合った杏は、軽く会釈をする。教授も笑顔で杏を見ながら軽く何度か頷いている。杏は、目立ちやすい前の席に1人で座っているし、初回の授業から顔は覚えられているのだろう。

「あ、そうそう、私この後会議があってね。だから1時過ぎには今日は終わりにしますねー」

 思い出したように教授はそう切り出す。1限の長さは1時間30分。12時開始で1時過ぎに終わりにするということは、通常より30分ほど早く終わるということを意味する。

 どこからともなく学生たちの喜びの歓声が沸く。智矢も隣で控えめに「よっしゃ」と呟いている。

  再び騒がしくなる中、杏はというと、教授とアイコンタクトを交わした後に、ドアを両手で静かに閉め、体をかがめてスクリーン前を横切り、いつもの窓際に着席していた。

(こんなギリギリ珍しいな。何かあったのかな)

 そんな事を楓馬は思っていると、急にザーという激しい雨粒の音が窓から聞こえてきた。

「窓際の人ごめん。閉めてくれるー?」

 教授がマイクを通して伝えると、左列の学生たちが立ち上がり、1番近い窓を閉め始める。杏も立ち上がり自分の横の大きな窓の前に立つと、大量の雨が降ってくる空を見上げ、一瞬静止する。そして、体重を精一杯かけながら窓を閉めた。

「みんなありがとう。じゃあ、今日の講義を始めますねー」

 


 テキストに従って講義が進んでいく。楓馬は前にかかる時計を一瞥する。12時50分を過ぎたところだった。どうやら今日はグループワークは無いらしい。

「では、今日はここまでにします。お疲れ様でしたー」

 13時を過ぎると、宣言通り講義が終わる。教授のその一言で流れるように学生が教室をあとにしていく。流れるように扉に吸い込まれていく学生の列の中、その後を追う杏の小さい背中を楓馬は見つけていた。いつもならば楓馬達が教室を出るタイミングにはまだ席に座っているので、その姿はとても珍しかった。

「ふーまくんまたねー」

「ああ、またー」

 楓馬は後ろの席から声をかけてきた李佳をちらと見てあしらったあと、直ぐにまた視線を前へ移す。李佳はそんな楓馬に少し顔をしかめつつも、友人2人と一緒に教室を出ていった。

 人波に揉まれながら、杏も教室を出ていく。楓馬はそんな杏を不思議に思いながらも、

「よしゃ、俺もかーえろっ」

 と言いながら立ち上がる。

「いいなー、俺も帰りてぇよぉ...」

「あと2限だっけ?」

「そそ」

「がんばがんば」

 溜息をつきながら、智矢も席から立ち上がる。楓馬はこの講義で終わりで、バイトもこの後ないのでまっすぐ家に帰るつもりだ。何気なく外に目をやる。窓の外の中庭にある木の枝、それは雨に濡れて重そうな葉を必死に支えているように見えた。ただ、新たに上から雨粒は落ちて来てはいない。先程まで音を立てて降っていた雨は止んでいるようだった。

  あらかた学生が退出したあと、楓馬を先頭に、2人は前方のドアから退出するため、机の間の階段を降りていく。その階段がもう少しで終わると言う時、視界の左の足元でキラリと何かが光った事に楓馬が気づく。

「ん?」

 目を向けると、机の下で影になっているが、どうやら何か落ちているようだ。楓馬はそのまましゃがみこんで、落ちているものに手を伸ばす。

 智矢は目の前にあった楓馬の頭がいきなり消え、慌てて視線を下に移した。そこにあったのは自分の足元でしゃがみこんで何かを見つめる楓馬の姿だった。

「あぶねっ」

 智矢は楓馬を避けるべく、踏み出しかけた右足を慌てて引っ込めてバランスを立て直す。楓馬が何かを手にし、立ち上がった。

「何それ」

 楓馬の右手には手のひらサイズの金色の板のような物が握られていた。よく見ると栞のようで、上部に穴があけられ、そこに黄緑色のリボンが結わえつけてある。所々金色が剥げ、銀色になっている。中央には四葉のクローバー型に穴が開き、そこに緑色の透明な板がステンドガラスのようにはまっている。その右下をよく見ると「四葉探偵事務所」と小さく印字されているのも分かった。

 その栞を見ながら、楓馬も以前これと同じ物を持っていたことがあるのを思い出す。楓馬もよく知る西川たまきの「四葉探偵シリーズ」のグッズだ。懐かしさを感じながらも、垂れ下がる黄緑色のリボンを左手で持ち上げてよく見る。四つ葉探偵事務所、そして以前見た事のある気がするこの黄緑色のリボン…。その時パッと頭の中に記憶が蘇ってきた。それは机の上に置かれた紙のカバーがかけられた文庫本と、そこから出ていた黄緑色のリボンの光景だった。

 間違いない、水樹杏の物だ。

「落し物かあ。先生に渡しとけば?」

 智矢が両手を上にあげ、伸びをしながら楓馬に言う。

 楓馬は黙ってじっと栞を見つめている。楓馬の頭の中は思考でフル回転していた。

(来週また会えるだろうから、その時に渡せばいいか...。いやでも、使い古されている感じだし、もしかして大切なものなのかも。持ち主が分かっているんならすぐに渡してあげたいし、それに今日、水樹さんはなんか落ち着きがなかったから心配というか...)

  杏を追いかける口実を考える。理論的にあれこれ考えていくが、ある自分の強い思いに気づいた楓馬は、栞をギュッと握ると決意を固めた。

(色々考えたけど...。んな事より、俺はとにかく、また水樹さんと話がしたい)


「楓馬?」

 栞を凝視し、黙って佇む楓馬に智矢が声をかける。楓馬は顔を上げて智矢を見ると、

「いや、これ多分、俺分かる。ちょっと行ってくるわ」

 「お...おう?」

 「おつかれ」

 楓馬は栞を握りしめ、左手を智矢に軽くあげると、足早に教室から出ていった。

「え、ちょ、うん。おつかれぇ...」

  遠ざかる背中を見つめ、その場に残された智矢は呆気に取られていた。そして、栞から目を離し智矢を見つめた時の楓馬の顔が脳裏に浮かぶ。太めのキリッとした眉と、奥に窪んだ力のある眼光。ただ、その瞳が何かキラキラと輝いていたように感じた。久しぶりに見たそんな真剣な表情に、フッと鼻で笑うと、ズボンのポケットに両手を入れ、次の講義のため、智矢も教室を後にした。


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