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君に触れられなくても  作者: 浅葱 レイ
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 青杉楓馬(あおすぎ ふうま)が初めて彼女、天南 杏(あまなみ あんず)と出会ったのは、大学3年生の春、通年で開講されるコミュニケーション論の初日だった。

  この講義はきっちり規定回数出席をし、レポートでそれなりのことを書けば単位が貰えるらしい。同じ単位数なら楽に取れて越したことはない。楓馬も卒業単位で足らない分を補うため、それらの噂を耳にした上で友人を連れ受講しようと決めていた。

「うわ、人、多っ」

 ガタンっと大きな音を立てて、講義室の椅子を座れるよう倒しながら菊池 智矢(きくち ともや)は言った。楓馬も座席を倒し腰を下ろしながら、周りを見渡してみる。教室の前方と後方の入口からは流れるようにどんどん人が押し寄せていた。教室前方は床が一段高くなっていて、黒板と教卓、プロジェクターやマイクを調節するための機器が置かれている。そして教室は奥に行くにつれ階段上に高くなっていく。1つの机に5、6人が腰掛けられるようになっており、その机が横に3列並び、その列ごとに段々と後ろに20段ほど繋がっていく。およそ300人程入れる典型的な講義室である。

 

  今日は4月中旬としては暖かく初夏の陽気で、薄着をしている人が多く見られた。教室左側の窓も何個か空いており、時折涼しい風が入ってくる。

  教室の後ろの席から徐々に人で埋まっていく。楓馬達はそんな講義室の真ん中の列、中程の右端に2人並んで腰を下ろしていた。人が増えるごとに話し声と席を倒す音が騒がしくなっていく。

 よく見ると教室をキョロキョロと見回している学生が居たり、友人と言うよりは距離があるような学生グループがあったりしている。また、その大半が髪を同じように明るく染めている男女達だと楓馬は気付いた。この感じは新入生だろうか。まだ大学に馴染めない戸惑いが見て取れる。

  腕を頭の後ろで組み硬い背もたれに体を預けていた智矢が、楓馬の考えを感じとったように口を開く。

「コレだいたい1年らしいよ。この講義はどの学部でも、学年でも一応取れたはずだけど。あとは俺達みたいに1年で取らなかった単位確保のための2、3年生」

「なるほどね」

  大学という高校よりも自由な場所で生活をスタートさせる新入生たち。楓馬も入学時を思い出しながら、リュックの中からテキストとペンケースを机の上に取り出した。それを見て智矢も自分のリュックの中をガサガサと漁り出す。


  智矢は楓馬と高校の時からの友人で、学部が違えど今でも時折遊ぶ仲であった。身長は楓馬に比べて大きく180cm弱程。その細い切れ長の目と短髪、さらに元野球部の屈強な体つきから一見近寄りがたい印象を受けるが、彼は至って社交的。誰からも好かれるタイプである。

 楓馬は先月履修単位の確認をしていた所、4単位ほど足らず、智矢に相談していた。そして、比較的簡単に取れそうなこの講義を2人で受講するに至る。

 

 茶色い頭の敷きつめられた講義室を見渡す。その中だったからだろうか、楓馬はふと入口から入ってくる黒髪の女性に目を奪われた。髪は顎下までと短く、丸みを帯びているショートで、黒縁のメガネと、その顔の半分は白いマスクで覆われていた。全体的に細身で、テキストを両手で抱えて1人で歩いている姿がどこか儚く脆い印象を受けた。

  彼女は前列から数えて2列目の左の端の席にスっと座った。向かって左にある大きな窓から差し込む日光が彼女を寂しげに照らす。楓馬は彼女の1人でいる姿にどこか昔の自分と重なるものを感じ、どこか放っておけない気持ちを募らせていた。

「ふーまくん」

 背後から聞きなれた女性の声が聞こえる。楓馬の背筋に悪寒が走る。楓馬は前に1人ぽつんと座る彼女から目を離し、一息大きく吐き出すと後ろを振り向き、無理やり口角を上げて笑顔を作る。

「やっほ」

 そう言って右手をあげ楓馬に手を振ってくる女性。案の定、楓馬の苦手とする顔がそこにはあった。茶色で綺麗に巻かれた胸まである長い髪と、両目バッチリのつけまつ毛。これでもかと、うるうるに潤った厚い唇。そして、この距離でも分かる香水の甘い香り。その隣には彼女といつもつるんでいる3人の友達も座っていた。

「あ、赤月さんもこれ取ったんすか」

 精一杯の笑顔を作り、彼女に言葉を返す。

「そう!まだ取ってなかったの。単位は足りるんだけどぉ…一応ね」

 そう言いながらニコニコと両手で頬杖を付く。そして、楓馬をチラチラと見ながら、隣の友人とコソコソと何か話しだした。彼女はどうやら楓馬がこの講義を受けることを聞き付け、受講しているらしい。

 少しして楓馬をまた見つめる。必要以上の瞬き。まつ毛がバサバサと音を立てている気さえする。

「赤月さんはオトナだから、この講義とらなくたってコミュニケーションなんてお手のもんじゃないんすか」

 苦笑混じりに、楓馬にとっては渾身の皮肉をぶつける。

「まぁねぇ、そおなんだけどお。…ってそんなわけないじゃん」

 背中をパシッと叩かれる。彼女はまだ何か言いたげだったが、楓馬は顔をひきつらせ「ははっ」と笑いながら、前に向き直りため息をついた。

  赤月 李佳(あかつき りか)。楓馬と1年から同じゼミの彼女は、社会人経験を経て、大学に入学してきた。年齢は頑なに隠し通している。楓馬の見立てでは20代後半から30代の間だろうと思ってはいるが。社会人経験をしてきたからだろうか要領がよく、成績も人当たりも良い。しかし、そんな彼女を楓馬は敬遠していた。

  楓馬の左隣に座る智矢が右肘で楓馬の脇腹をつつく。なんだよといったふうに楓馬が智矢に顔を向ける。智矢が楓馬の方へ乗り出すように近づく。声を潜めて耳元で

「例の人?」

 楓馬は面倒くさそうに軽く頷いた。

「あーね」

 智矢は察したようで、なるほどねと言うようにうんうんと頷きながら体を楓馬から離した。

 彼女に1年近く言い寄られている事、それも楓馬が髪を少し伸ばしマッシュショートにイメージチェンジしだした時からだということを智矢には言っていた。見た目がどうやら彼女のお眼鏡にかなってしまったらしい。

 楓馬はもともと大学に入ってからはモテるほうではあった。高校時代は度の強い分厚いレンズの黒縁眼鏡と、寝癖の目立つボサボサの短髪といった出で立ちだった。それらを高校卒業を気に眼鏡をコンタクトにし、髪型、服装にも興味を持ち始め、俗に言う大学デビューに成功したのである。もともと年齢にしては落ち着いており、人当たりも良い方であった楓馬だが、何よりもそのルックス。母親譲りの二重と父親譲りの高い鼻。奥に窪んだ瞳。それらが眼鏡をとることで際立ち、どこか日本人離れをした顔立ちに好意を寄せる女性は少なくなかった。

  今日も左耳にお気に入りのピアス、右手の人差し指にはシルバーリングをつけ、黒いパンツに白い7分丈のシャツ、パッと見は少しやんちゃなお兄さんである。しかし楓馬にとってアクセサリーなどのオシャレは、容姿に対して弱い本当の自分を隠すための、鎧でしか無かった。


  皆が席につき落ち着いてきた頃、講義室の前の入口から女性教授が入ってきた。年齢は40台後半と言ったところだろうか。長い髪をポニーテールに結び、白いブラウスに花柄のスカート。明らかに優しく、ゆるそうな雰囲気が漂っていた。パソコンとプロジェクターを立ち上げ講義の準備に取り掛かる。



 講義の前半は案の定、教授の自己紹介とシラバスの説明だった。教授は佐藤と言うらしい。第一印象の通りおっとりとしていて、話し方もゆっくり。この講義は昼食後の5限ということも重なり、早速、教授の話を子守唄に船を漕ぎ出す人が続出しだした。

 そして、智矢の言った通り、出席とレポートさえしっかりしていれば単位を貰えることが伝えられると、あちこちから控えめな歓声が上がった。楓馬も智矢に目配せをする。その視線に気付いた智矢が目をなくして笑いながら楓馬に向かって勢いよく親指を立てる。

  コミュニケーション論という文字通り、講義の大半は学生同士のグループでの会話がほとんどだそうで、午後の眠たくなりがちな時間帯の講義としてはありがたいと楓馬は思っていた。


「では、ここからは講義になるんですが、最初なので皆さんにも自己紹介をし合ってもらおうかな」

 佐藤教授がスライドを切り替える。そこには


 ・2人1組を作る。若しくは3人1組(できるだけ初対面の人と。コミュニケーションを取りながら)

 ・自己紹介し合う(名前、学部、出身地などなど)


 と箇条書きで書かれていた。

 楓馬は2人1組という言葉に苦い記憶を思い出していた。孤立しがちの生徒には酷なルール。楓馬も中学、高校時代もあっただろうか、その2人1組になれないタイプのひとりで、結局先生とペアを組んで悲しい思いをした口だった。

 前で1人で座る女性が頭をよぎる。

 佐藤教授はスライドを読み上げ、協力してチームを作ってねと笑顔で付け加える。

「じゃあ、よーいスタート」

 うわっと教室が騒がしくなる。楓馬と智矢が顔を見合わせる。

「しゃあねぇ、どうすっかな」

 そう言いながら智矢が立ち上がり辺りを見回す。楓馬も立ち上がろうとすると、シャツの裾を後ろから引っ張られる。

「ふーまくん、私とやろうよー」

 もちろん李佳である。

「いや、俺ら知り合いじゃないですか」

「えー、言わなきゃわかんないじゃん」

 李佳がクイクイと裾を引っ張る。智矢に助けを求めようと隣を見るが、もうそこに彼はいなく、少し離れた所で3人組を作って楽しそうに話していた。あのコミュニケーションお化けめと、楓馬は思った。

「私たち4人だしー、ふーまくん入れて2人と3人に別れれば…」

 李佳が友人を指さしながら何か言っている。楓馬の中に李佳とやるという選択肢は毛頭なかった。

 教室前方の黒髪の彼女を見つける。彼女の傍には教授が居て、なにやら話しているようだった。彼女は座ったまま教授の話を頷きながら聞いている。

 しばらくすると彼女たちが後ろの方を見渡す。楓馬は何となく察することが出来た。どうやらペアが見つからないようだ。彼女の2列後方には明らかに元から親しそうな女性4人グループが楽しそうにおしゃべりしている。その黒髪の彼女と1人でもペアを組めばいい話なのに、案の定、目もくれない。

(全く、2人1組は公開処刑なんだぞ…)

 楓馬はその光景を放っておけなくて、うずうずしていた。

  またシャツの袖を李佳が軽く引っ張る。ペアを探している黒髪の彼女の所へ行けば、李佳から逃げ出すことも出来て、さらにペアに困っている彼女も助けられる。願ったり叶ったりだと、楓馬は自分のペンケースを持つと、すくっと立ち上がった。

  シャツから李佳の手が離れる。

「え、どこ行くの」

「ごめんなさい、俺パスで」

 楓馬は李佳に軽く頭を下げると、机との隙間の階段になっている通路を降り、前方の席へと進んで行った。

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