ヘア・メモリー
髪を伸ばしてみると、どういうわけだか感覚が鋭くなった。
一昨年の一月に彼氏からフラれて、それから約二年。
そのときから伸ばし続けている髪の毛は、自己最長を記録している。
髪の毛は、主にファッションのために保護されたり、薬品なんかで痛めつけられたりするけれど、それでも確かに体の一部だ。
時間に応じて伸びていく。
そんなわけで、ひょっとすると、わたしの髪の毛は記憶を蓄積しているのかもしれない。
誰かの何かを覚えていて、それに反応しているのかも。
不思議なことだ。
いままでにそんな感覚はなかった。
約二年前の悲しみがわたしの髪の毛にそうさせるのか。
あの有名な目玉のバケモノを親父に持つ妖怪小僧のように、わたしは、視界にすら入っていない人の気配がわかる。
一度でも、髪の毛が届く距離に相手が入ってしまうと、その相手を探そうと思えば探すことが出来る。
今朝すれ違っただけの人が、いまどこにいるのかも、手にとるようにわかる。
※※※
はじめの頃は気になってしかたがなかったが、いまとなっては日常のことだ。
慣れにも限界はあるかと思うけれど、わたしの感覚はそれほど気障りなものじゃない。
髪がなんだかざわざわする。
その程度のもの。
耳鳴りのように、集中しなければ気にならない。
日々の調子によっても感覚は鋭くなったり鈍くなったりする。
友達に一度、その事実を話してみた。
はじめのうちはみんな面白がっていた。
やがてなんだか気味が悪いという反応に変わり、そのうちみんな飽きてしまった。
今ではたまにある飲み会で、話の種になる程度。
※※※
もっと早く、この力が手に入っていればと思う。
彼氏からフラれたのは、彼の浮気が原因だった。
浮気相手はわたしの知り合いだった。
その頃、いまの力があれば、そうしようと思えば、事前に察知できたのだ。
もし今のこの力があったら、そのときのわたしはどうしていただろう?
たぶん、わたしの方から彼をフッていた。
悔しいのは、フラれたということだ。
別れた、という結果自体は別段、なんとも思わない。
どうせ浮気をするようなやつなのだ。
別れた彼氏とは、その日以来もう会っていなかった。
彼の連絡先もすぐに消去した。
だからわたしには、彼を見つけ出すことが出来なかった。
……というのが、つい最近までの話。
一週間ほど前、偶然彼とすれ違った。
駅のホームでのことだった。
振りかえった彼はなんだかわたしの後ろ姿をちらちらとみて、どこか話しかけたそうな様子だった。
わたしは無視した。
そんなわけで、いまのわたしは、彼を探そうと思えば探せる。
髪の毛の感覚が、彼の位置を教えてくれる。
いや、その感覚は、他の人に対するよりも、はるかに鋭敏なものに感じる。
何なら彼の心の中まで読み取れるような気さえする。
二年間もの間、髪の毛に蓄積された悲しみが、わたしにその感覚をもたらしてくれたのだろうか。
そしてあのとき向けられていた、彼のわたしへの視線は、かつての恋人に向けた、というだけのものより、もっと強い意味を持っていたように思う。
ヨリを戻したがっているんじゃなかろうか、と自分へのひいき目なしに見ても、そう思える。
そんな彼に会おうと思えば会える。
だけど、わたしはそうしない。
それはこの力が与えるささやかな自己満足で、わたしの自分勝手な復讐だった。
そうしていままで、もやもやとくすんでいた心の内側の色が、徐々に明るくなってきているように思う。
わたしは事実上、彼をフッているのだ。
彼とまた会えるのに、そうしない。
彼から求められているのに応じない。
その事実がある。
いや、わたしの髪の毛がそれを教えてくれる。
それはなんだか情けないような、歪んだ満足感ではあるけれど、もう二年もグズグズとその過去を引きずり続けた、今のわたしには十分でかつ必要なものだ。
髪はもうずいぶん伸びた。
また、ばっさり切ろうかな。