夜景 一
「修道院には銀がいっぱいあるの。銀の燭台、銀の食器、銀の弾丸……。もしジャン・バルジャンが見つけたら、きっと全部持っていくでしょうね」
夜、ゾーイはベッドの上でそんなことをつぶやいた。
もちろん一緒のベッドではない。
俺は床に寝ている。
こちらが返事をしないのに、彼女は一人でつぶやき続ける。
「知ってる? ここは銀の島だったの。銀鉱山があって、そこでたくさんの銀が採れた。街には銀があふれて、どこもピカピカ。シルバーラッシュだった。私の先祖も、その銀を目当てにここへ来たみたい。だけどやがて銀は採れなくなって、すぐにみんな貧しくなって……」
そう。
そして彼らはマフィアになった。
ゾーイは溜め息をついた。
「私の叔父も、組織の一員だった。でも下っ端だったから、あちこち行かされて……。たぶんもう死んでると思う。叔母さんは泣いてた。まっとうな仕事についてれば、こんなことにはならなかったって。だってもしパン屋さんなら、病気以外で死ぬことはないはずでしょ? 私、焼きたてのパンが好き。パン屋さんになりたかった」
俺は寝ようと思っていたが、つい返事をしてしまった。
「いまからでも、なればいいじゃないか?」
「昔の話よ。いまは違う」
「いまはなにになりたいんだ?」
「なにも。気づいたら、自分がどうしたいってのがなくなってたの。マザーの言いなりになってるほうが楽。だから、あなたも自由に命令して。可能な限り応じるから」
目的を見失っているのか。
俺も溜め息が出た。
「一日百リブラでよかったのか?」
「あの婆さんにハネられるんだから、安ければ安いほどいいわ」
「ちゃんと自分の考えがあるじゃないか」
「そうかな」
会話が途絶すると、しんと静かになった。
虫やフクロウの鳴き声がする。
自称妹のひそひそ声も。
「マーガレットさま、おやめください」
「大丈夫よ。ちょっと覗くだけだから」
「怒られますよ?」
「なによ。怒ってるのはこっちなんだから」
ギィと音がして、かすかにドアが開いた。
廊下から部屋を覗かれている。
もちろん気づかないわけがない。
メグと目が合った。
「あ、あら、お兄さま。起きてたの? 私は……そう! トイレ! トイレよ! 戻ってくる途中で、部屋を間違えちゃって……」
「分かった分かった。分かったからもう部屋に行ってくれ」
俺がそう応じると、自称妹はバーンとドアを開け放った。
「なによその言い方! 心配して見に来てあげたんじゃない!」
「なんの心配だ」
「いろんな心配よ! なのに、妹のこと大事にしないで! きっと地獄に落ちるわ!」
バターンとドアを閉めて行ってしまった。
エイミーも廊下から「夜分に失礼しました」と告げ、部屋へ戻った。
ゾーイがくすくすと笑った。
「ずいぶん好かれてるのね」
「どうだろうな。もしかすると演技かもしれない」
彼女は遺産のために近づいてきたのだ。
その可能性も想定しておいたほうがいい。
しかしゾーイはまだ笑っていた。
「あれで演技ならたいしたものじゃない。かわいいわ、あの子」
「正直、あの明るさには助けられてるかもしれない。母さんが亡くなって、一人になったばかりだったから」
「一人はつらいよね……」
彼女はそのまま会話を打ち切り、毛布をかぶって身を丸めた。
俺も特に言うことがなかったので、そのまま目を閉じた。
*
拉致以外で中心街へ来るのは久しぶりだった。
午後七時。
指定の場所はアジア料理店。
今日の仕事はお休み。
「お兄さま、もっと立派なスーツはなかったの?」
「あるわけないだろ」
春の夜のぬるい空気を吸い込みながら、メインストリートを歩く。
これでも一番いい服を着ているつもりだが、メグはなにが気に食わないのだろうか。ネクタイの柄が好みじゃなかったか。
昼の店は営業を終え、夜の店が営業を始めている。
電飾が明滅して、いつでもお祭りみたいにキラキラだ。
むかし一度だけ、母と観覧車に乗ったことがあった。
いまにして思えば、母はシルバーマンズホテルを見つめていた気がする。父のいたであろう、その最上階を。
レストランの表には、蛇みたいなドラゴンのオブジェが飾られていた。
提灯には、見慣れない文字。
立っていた黒服が招き入れてくれたから、この店で間違いないだろう。
「クリストファーさま、マーガレットさま、お待ちしておりました」
薄暗い店内には赤い絨毯。
階段をあがっていくと、また黒服が立っていた。銃撃戦が起こっても対処できるよう、人を配置しているのかもしれない。
両手を広げたウォルターが現れた。
「おめでとう、君たちが先だ。まあかけてくれ」
ベンとボブはまだ来ていないらしい。
もしかしたら来ない可能性もある。そのときは食事だけして帰ってもいい。
ウォルターは満面の笑みでこう切り出した。
「じつは仲間たちと、どっちが先に到着するか賭けてたんだ。君たちのおかげでちょっとした稼ぎになった」
人を使って博打とは。
大きな円卓は、ターンテーブルになっていた。
俺とメグだけがやたら角ばった椅子へ腰をおろし、他の二人は後ろに立つ格好となった。
貸し切りにしているらしく、他の客の姿はない。
ウォルターはやや困惑した顔を見せた。
「それにしても、メイドはいいとして、もうひとりがシスターとはな……。あそこの修道院は、組織を嫌ってる。できれば俺たちとの銃撃戦は避けて欲しいところだな」
ゾーイはしかしそっぽを向いている。
代わりに、俺が尋ねた。
「なにが原因で対立を?」
「密造酒だよ。いまでこそ独立区みたいな顔をしちゃいるが、もともとあいつらもマフィアみたいなものだったんだ。島じゅうで酒を売りさばいてな。いまは協定があるから、互いのテリトリーに手を出さないことになってる」
利権争い、というわけか。
階段のほうから声が近づいてきた。
「ボブ! なにをぐずぐずしてるんだ! 置いてくぞ!」
「まってよベン……」
いちおう時間内に到着したか。
まずはベンが入ってきた。
仕立てのいいスーツに、よく磨かれた革靴。余計なものは身に着けておらず、ファッションセンスは悪くない。少なくとも俺よりは。
「おい見ろよ、メイドとシスターだ。もしかして今日は仮装パーティーだったのか?」
ボディーガードはリーゼントの若い男。
ウォルターがふんと鼻を鳴らした。
「デイヴ、よくここに顔を出せたな」
「お、俺はただ雇われただけで……」
「フランクか? あいつは組織よりも金が大好きだからな」
詳しくは分からないが、ウォルターの部下がフランク、その部下がリーゼントのデイヴということなのだろう。ここから亀裂が生じて組織が分裂することを、ウォルターは恐れている。
小太りのボブが、息を切らせながら入ってきた。
「もう、なんで階段なんだよ。死ぬかと思ったよ」
あまり体力はなさそうだ。
メグは豚と言っていたっけ。
そして最後に入ってきたのは、彼のボディーガード。
とにかくデカい。
あきらかに二メートルは超えている。ボロボロのオーバーオールだが、ほかに服がなかったのだろう。手も大きい。
彼は血走った目でずっとギョロギョロ周囲を見回しているし、異様に興奮していた。
「マーヴィン、まだ暴れちゃダメだよ? 僕がいいって言うまでおとなしくしてるんだ」
「ああ……うん……うんうん……」
なにかを壊したくて仕方がない。
そんな態度だ。
本当に大丈夫だろうか?
組織の連中も戸惑っている。
四人が席につくと、ウォルターが立ち上がった。
「あー、よし。それじゃあ始めるとするか。だが結果を急ぐつもりはない。今日はあくまで顔合わせだ。緊張せず、料理を楽しんでくれ」
できれば俺もそうしたいのだが、ボブの連れてきたマーヴィンがいまにも暴れ出しそうで、ちっとも緊張がとけない。
それに、隣のメグもずっと顔をしかめている。
野菜炒めが出てきた。
見慣れない野菜があるが、これがアジア料理というものなのだろう。ターンテーブルに乗った皿が回ってくる。取り分けて食べるらしい。
食器は箸だ。フォークもスプーンもある。
ベンが肩をすくめた。
「あー、ウォルターさんよ。このパーティーは次もあるのか? おたくの組織は、市民の活動に首を突っ込まないはずだよな?」
急に舌戦が始まった。
ウォルターはしかし余裕の笑みだ。
「本気か? 君の後ろに立ってる男は、組織の人間に見えるが?」
「プライベートな問題だよ」
「だが組織のメンバーを使って、街のあちこちで探し物をしてるよな? 俺たちとしては、ああいう行為は慎んで欲しいと思ってる」
「落とし物を探してもらってるだけだ。それのなにが問題なんだ?」
「問題なんだよ。すべてがな」
まだ前菜なのに、早くもピリピリしている。
テーブルは俺、メグ、ボブの順で回った。
するとボブが、大皿の料理の大半をとってしまった。ベンの取り分はほとんど残っていない。
「おい、ボブ! お前は加減ってものを知らないのか?」
「えっ?」
「取りすぎなんだよ! 少しは俺のことも考えろ!」
「だ、だって、あいつらが先に取っちゃうから……」
「順番なんだから先に取るだろう! 俺は量のことを言ってるんだ!」
「あんまり怒鳴らないでよ。マーヴィンが興奮しちゃう」
「……」
ベンがまくしたてたせいで、マーヴィンの呼吸が荒くなっていた。
いま店内で暴れられたらたまったもんじゃない。
ベンは盛大な溜め息をついた。
「クソ、どいつもこいつも使えねぇな……」
俺たちよりチームワークがよくないようで安心した。
もしかすると、俺たちが直接戦わずとも、仲間割れさせれば戦力を減らせるかもしれない。それが分かっただけでも、この食事会には意味があったかもしれない。
(続く)