ビールの販売店
焼きたてのパイをかじると、中からあまく焼けたリンゴの味が染み出してきた。かすかにまぶされたシナモンもいいアクセントになっている。
白磁のティーセットで飲む紅茶もいい。
狭い部屋、小さなテーブルだが、貴族にでもなった気分だ。
俺はずっと、母と二人、この古びた木造の家に住んでいた。
父の記憶はない。
だけど、あたたかかった。
いまにして思えば、いきなりクロスボウを与えられ、森へウサギ狩りにいくなど、変わった生活を送っていた。
母の銃の腕はたしかだったから、きっと父のことも撃とうと思えば撃てたのだろう。
同年代の子供たちからは、ちょっと距離をとられていた。おそらく母がマフィア関係者だったから、避けるよう家で言われていたのだろう。ただ、いじめられたりはしなかった。何度か一緒に遊んだ。いまでも会えば挨拶する。
苦い記憶は、アップルパイだけ。
それだけに、こんな上等のアップルパイを食べていると、いっそうこの家での思い出がよみがえってきた。
「お兄さま、泣いてるの? おいしいのは分かるけど……」
「いや、ちょっとな」
つい感傷的になってしまった。
母が亡くなってから、すぐに抗争に巻き込まれてしまったから、泣いている暇もなかった。
贅沢な話だけれど、こういうまともなアップルパイを食べていると、今度は母のべちゃべちゃしたアップルパイが恋しくなってきた。
きっとほかの誰にも作れない。
二度と食べることもできない。
俺は母を知っているようで、なにも知らなかった。
銃を抱えて一人でホテルに乗り込んでいたとは。
どんな素性の人間だったのだろうか。
祖父母はどんな人だろうか。
写真さえない。
思い出すのは、父のことを尋ねたときの「遠くにいるわ」という優しい顔だけ。いや、優しいというよりは、苦笑いに近かったか。
もう二度と、こんなうまいアップルパイは食べたくない。
余計なことを考えてしまう。
*
進展がないまま数日が経過した。
「場所と日程はいま言った通りだ。必ず参加してくれ。この島は、長いこと抗争とは無縁だった。今後もそうあることを願うよ」
トレント・ウォルターが来た。
こちらが頼んでもいないのに、和解の席を設けたという。ベンやボブが頼んでもないらしい。つまり、組織が勝手に行動を起こしたのだ。
組織のメンバーが一枚かんでいる以上、なんらかの火種になりかねないと判断したのだろう。この島で組織が内部分裂したら、とんでもない抗争になる。
もちろん島外での活動にも影響が出るだろう。他の組織にも隙をつかれる。
「エイミーも参加させたい」
「構わない。ボディーガードは、参加者一人につき一人まで。護身用なら銃を携帯してもいいが、店内では抜くなよ? 内装を直すのにも金がかかるからな」
「分かった」
この感じだと、ベンとボブもそれぞれボディーガードを連れてくるかもしれない。俺も誰かに依頼したほうがよさそうだ。
*
修道院へ来た。
「今度はなんだい? まさか、こないだ渡した弾をもう撃ち尽くしたってんじゃないだろうね?」
マザー・ベネディクトは顔をしかめた。
「ボディーガードを雇いたい」
「おやおや。ボディーガード? クリス、あんたはここをなんだと思ってるんだ? 表の看板が見えなかったのかい?」
「てっきり銃砲店かと」
すると彼女は、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「違うね。ビールの販売店だよ。ま、どっちも売らないこたないがね。だが片方だけさ。両方同時には売らない。人が死んじまうからね」
たしかにこの修道院ではビールを作っている。
本当にうまい。甘味と苦みはうっすらとしたものだが、とにかくコクがあり、飲みごたえがあった。長持ちしないそうだが、それだけに、いつでも作り立てのビールが出てきた。
風地区の人間が酔っ払っているときは、だいたいここのビールを飲んだときだ。しばしば大地へも還元される。
老婆は口をへの字にした。
「ホテルに乗り込むんじゃないだろうね?」
「違うよ。対立してる兄弟たちと和解の席があるんだ。そこにボディーガードを連れて行くことになって……」
するとマザーは、杖の先端で床を叩いた。
「ゾーイ! ゾーイ! 顔出しな」
「はい、マザー」
奥の扉からゾーイが来た。
無表情の少女だ。けれども、ふとした拍子に笑顔を見せてくれる。こないだ銃の扱いを教えてくれたときも、俺の手を握ってこう言ってくれた。「次にこちらへ銃口を向けたら、あなたを射殺します」と。
マザーは深い溜め息をついた。
「一日千リブラだ。払えるのかい?」
「まあ一日ならなんとか……」
俺の日給の約十倍といったところだ。
だが貯金はある。なんとか払える。
ゾーイは言い出しづらそうに「マザー」と切り出した。
「私はまだ見習いです。もう少し安くてもいいのでは?」
「バカ言うんじゃないよ。あんたはあたしの最高傑作なんだ。ホントはこんなくだらない依頼に出したくないんだよ」
「でも他の姉妹ではなく、私の名前を呼びましたよね?」
「お前は銃の扱いだけは得意だが、他のことは壊滅的に役に立たないからね。これからビールの仕込みもあるし、しばらく外へ出そうと思って」
「……」
さすがに機嫌を損ねたのか、ゾーイは頬をふくらませてしまった。
銃を握っていないときは、年相応なのかもしれない。
マザーは肩をすくめた。
「とにかく一週間の暇をやるから、その間は好きにしな。金額交渉もあんたに任せるよ。ただし、くれぐれも安請け合いしないように。儲けの半分はあたしによこすんだよ? ちょろまかしたら容赦しないよ?」
「はい、マザー」
*
というわけで、ゾーイを自宅へ連れてきた。
「ちょっとお兄さま! 誰よその女!」
自称妹の抗議が来た。
まあ仕方あるまい。ゾーイは修道服ではなく、パンク少女みたいな私服でやってきたのだ。シャープな顔立ちにショートヘアがよく似合っている。
だがエイミーは気づいたらしい。
「マーガレットさま、落ち着いてください。あれは修道院にいたゾーイです」
「ゾーイ? お兄さまと手を握ってた女?」
「あれは銃の扱いを教えるために……」
「でも馴れ馴れしく体をくっつけてた! きっととんでもない〇〇よ!」
耳を疑うような言葉が出た。
ゾーイはしかし気にしていない。
「大歓迎ね。私はそのお兄さまにお金で買われたの。苦情なら彼に言って」
「はぁ? ちょっとお兄さま! この女を家に入れる気? ここは私とお兄さまの家よ!」
いや違う。俺の家だ。
時刻は四時半。
仕事に行くには早すぎるが、それでも行くしかない。
「悪いが、そろそろ仕事の時間だ」
「お兄さま! 時計が見えないの? まだ四時半! あと一時間はいられるでしょ!」
「分かったよ。少しいるから」
「そうよ。スケジュールも守れないような男、絶対にモテないんだから」
エイミーも、まだ行くなとばかりに紅茶を出してきた。
俺が早く出るとメグがうるさいのだろう。
俺はゾーイにも席を進めた。
「かけてくれ」
「ご命令とあらば」
もうボディーガードになった気でいるのか。
それともメグへの当てつけか。
するとゾーイは、今度はエイミーにも攻撃を始めた。
「そういえば、マザーがよろしく言ってたわ、泣き虫のおチビさん」
エイミーはしかし動じていない。
「あら、それはご丁寧に。お砂糖はいくついります?」
「ふたつ」
互いに笑顔はない。
空気がピリピリしている。
チームワークは大丈夫だろうか。
*
仕事から帰ってきても、空気感は変わらなかった。
一見、スコーンと紅茶でティータイムを楽しんでいるように見える。だが、会話がなかった。
「お兄さま! 遅い! なんで走って帰ってこないの!?」
「走ったらフィッシュ・アンド・チップスがぐちゃぐちゃになるだろ」
帰宅と同時に自称妹の苦情が飛んでくる。
「どうぞ」
エイミーは紅茶を差し出してくれたが、あきらかにさめきっていた。
さめたスコーンと、さめた紅茶。
これを処理したあと、さめたフィッシュ・アンド・チップス。
メグはまだ憤慨していた。
「で、寝るとこ。私、こんなのと一緒の部屋はイヤだから」
「は?」
カップを持つ手が止まった。
一緒の部屋はイヤ?
だが、この家には、俺の部屋と母の部屋しかない。一階には倉庫として使っている部屋もあるにはあるが、人が横になれるほど広くない。
するとエイミーが無表情でつぶやいた。
「屋根裏でいいのでは?」
俺が留守の間、かなりチクチクやりあったものと見える。
ゾーイもしかし負けてはいない。
「私はべつにどこでもいい。この男と一緒のベッドでもね」
修道女とは思えない。
そもそもまともな修道院ではないにしても。
メグがテーブルをバンバン叩いた。
「お兄さま! 聞いた!? やっぱりこの女は〇〇よ! いますぐ追い返すべきだわ!」
家の狭さを考慮していなかった。
こんなときは、たしかに「金さえあれば」という気持ちにならないこともない。
父の遺産が必要だ。寝室が三つある部屋に住みたい。
(続く)