五十九ノ怪 覗き込む先客
「ぐっ…。もう我慢出来ない…」
夜も近い夕暮れ刻。
車の運転席に一人、悲壮な顔をしながらの第一声はそれ。幾つもの得意先を回り、最後に立ち寄った南港のとある低温倉庫が仇となったか。頃は初冬、身体は冷えに冷え既に腹は限界を迎えており。背や頬、首筋には知らぬ間に大量の冷や汗が…
「確か、あそこの海沿いに″アレ″があった筈……。…ほらっ、あった!」
一般道を走行していても一向にコンビニが見当たらず。代わりに浜辺で鬱蒼とした木々に囲まれた薄暗い小さな公衆トイレを発見しました。しかしです…
「何だか薄気味悪いな…。電気の無いトイレか??もう少し先に進めばコンビニがあると思うけど…」
やがて景色は段々と陰が濃くなり。トイレの横には球が切れているのか灯火していない外灯。更には高い木々に囲まれ、辺りはまるで夜の様相を醸し出していました。時間的にも浜辺で歩行者や遊んでいる人なんて見当たりませんし…
「はぅ…」
やがて、二つに割れたまん丸お尻間に冷や汗が入り混じる謎の違和感が発生してしまいます。
「コレ、あかんやつや…」
数多ある解決策が一気に絞られた瞬間。″彼″は慌てて側道に車を停め、車外へと飛び出しました。
そして徐に両手でお尻を押さえながら、器用に足首と膝関節だけを使い蛇の様にクネクネと歩きもって、そのトイレへと向かいます。
う〜ん…、動きが気持ち悪過ぎる…
「は、はぅ…。懐中電灯がトラン…ぐっ…」
トランクに懐中電灯が有るにも拘らず、取りに行く余裕すら無く…
(パッ…)
片手に、これ以上無いという力で尻に蓋をし。もう片方は折り畳み式携帯電話を握り締め。その灯を頼りに彼は真っ暗なトイレの中へと…、まるで脚は尺取り虫の如く蟹歩きで入って行きました。すると男子トイレに入って右手に大用の個室が一つあり…
(バタンッ!!)
…そこは和式。様式の方が良かった…なんて言ってる余裕すら無く。豪快に便器へガニ股になった瞬間、問答無用で…
「あ″ーーっ!!」
(ピィーーーーーーーーーーーーッ)
…と音声自主規制。
食事中の方々、本当にごめんなさい…
(キラキラキラキラ…)
「……。」
ある程度出してしまえば心にゆとりは出来るもの。しかし彼の腹はまだまだ満足してくれず、未だ腹痛や余韻は継続中…。彼はここで長期戦を覚悟しました…
「……。」
でも、気付けば携帯のバッテリーは微妙な残量を示しており。これはある得意先の販売担当との長電話が原因でしょう…
「まだだ…、まだスッキリしていない…。出切ってくれ…」
バッテリーの残量が気になり、彼は一度携帯を畳みました。しかし分厚いコンクリート製のトイレは外光を完全に遮断し、月明かりすら無い完璧な漆黒の闇の世界へと変貌してしまいます。オマケに…
「な、何も見えない…」
(ミシミシ…)
浜辺で風通しが良いから?はたまた枯葉が舞い散る音?いや、違う…。何かが軋む音だろ?では何が軋んでるんだ?普通に考えて、何も無い場所で固ぁ〜いコンクリートが軋むのか?そんなワケは無い。じゃあ木製のドアが原因……か?
(後少し、後少し、後少し、後少し、後少し、後少し、後少し、後少しだ…。後少し、後少し、後少し、後少し、後少し、後少し、後少し、後少し…)
(ミシミシ…、ミシミシ…、ミシミシ…)
何も見えない完全なる暗闇の中。
本音、後少し出し切りたい気持ちと、やたら聞こえてくる謎の怪奇音を気になり過ぎる状態のまま、彼は絶妙な感覚で精神を保っていました。やがて…
「ふう…、よしっ!」
腹の中の自分が「″ほら、もう大丈夫だよ、俺?″」と語り掛けられた気がした時。彼はゆっくりとトイレットペーパーの設置箇所に手を伸ばしました。しかし…
(ミシミシ…、ミシミシ…)
「ウソ…だろ…?」
…が、触った感じ。そこには芯の無いグルり二周程の紙しか残ってはいなかったのです。ついでに、おまけに「ミシミシ…」と、ずっと鳴り続けている謎の怪奇音…
先日、いつもカバンに入れていたポケットティッシュを偶々切らしており。尻を拭き取れる残りの手段といえば、手持ちのハンカチか仕事の重要書類のみ。
無論、後者は絶対に使用不可…とくれば…
(ミシミシ…、ミシミシ…)
「残るはハンカチしかない…。うう…、あとは手洗い場まで行って何とかするか…」
彼は現場に残っていた紙で限界まで尻を拭くと、次は胸ポケットに仕舞っていたハンカチで嫌々、続きを拭き取る事にしました。しかしその間も軋む音は一向に鳴り止まず…
「い、一体何なんだよこの音…?それより明かりだ。真っ暗で何も見えない…」
彼は汚れたハンカチを右の利き手で持っていた為、汚れていないもう片方の左手でズボン右ポケットに仕舞っていた携帯を取り出そうとしますが…
「くそっ、最初から左ポケットに入れときゃ良かった…、あ〜、取れないっ!」
後悔先に立たず。中年太りも相まって左手が届きません。じゃあ汚いけど右手で…?
「いや…、絶対にスーツは汚せない…」
この後、彼は会社に帰らないとダメなのです。
彼方此方に″アレ″が付いて異臭騒ぎで有名人に…とか絶対に想像したくありません…。よってこの戦闘服は命懸けで守らなければならないのです。
だから彼は仕方無く中腰になり、左手でトイレの扉のロックを開けようとしました。でも、焦って個室トイレに入った所為か、閉めた扉のスライドロックの位置が全く分かりません。汚れて死んでしまった利き手の代わり、必死にロックの場所を探す慣れない左手。
(ミシミシ…、ミシミシ…)
「あ、あったっ!」
と、ロック場所を発見し喜んだのも束の間。コレは壊れているのか?…ってくらい、ロックが固くて外れてくれません。
何故?何でこんなに固いの!?
…と、仕方無く彼は左手で器用にパンツとズボンを上げると、綺麗な手も汚れてしまう事を覚悟し、両手でロックの解錠に挑んだのです。
(ミシミシ…、ミシミシ…)
「せ〜の、ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぬっ!!」
気合いを入れ、力み、下を向いたり、左から右に振り向きざまに力を入れてみたりと。その踏ん反り返った体以上に″アノ音″が…
(ミシミシ…、ミシミシ…、 ミシミシ…、ミシミシ…、ミシミシ…、ミシミシ…、 ミシミシ…、ミシミシ…、ミシミシ…、ミシミシ…、 ミシミシ…、ミシミシ…)
「さ、さっきから何処で鳴ってるんだっ、この音は…!?」
そう言った直後、彼は初めてトイレ個室の天井を見上げたのです。
「!!!?」
ここの先客か?そこには少し乱れたロングの黒髪を垂らしながら肩肌を露わに。不気味で悍ましき表情をした女性が扉の上部をガッチリと両手で掴み。何も語らず覗き込む様、両目をパッチリと見開きながら此方をずっと睨んでいたのです。
見える部分と見えない部分。身体の位置的に、海だからこの女性はビキニなのか?もしくは…は、裸か?
…と今は、そんな連想をしている場合では無くて。
本当の問題は真っ暗なトイレの中でその明らかに幽霊らしき女性が、全身のラインが淡く光を帯びながらハッキリと見えている…という事でした。
「ひゃわっ、出たっ!?」
頭上で用をたすトコを「じぃ〜っ……」…と見ていたであろう彼女。彼は汚れた右手で慌てて携帯を取り出し。その光で鍵が外れない扉のロック部分を改めて確認。すると
「か、鍵は掛かって無かった…のか?」
暗闇の中。既に開いている鍵をいくら開けようとしても、それは只の堂々巡りでしかありません。だって本当に扉が開かなかった原因…、ズッと扉に女性が乗っかっていたからでしょう…
「……っ!?」
やがて彼女は徐に此方へと両手を伸ばしてきて…、ビキニか?裸なのか?どっちだっ!?…とか気になってたのかは不明ですが…、その扉すらスーっとすり抜けてきて。自分は孤立無援、八方塞がりのまま…
「ぎゃあああっ!?」
あまりの恐怖に断末魔的叫び声を上げた彼。妄想膨らむアノ確認すら出来ず…チャンスを…いや、…残念ながら…?その場で気を失ってしまったのです。
(ザザザァ…、ザザザァ…)
次に彼が目を覚ましたのは身体が芯から冷える朝方。浜辺を漂う底冷えしそうな冷気によって……でした。
事後、現状はどうなっているのか?残念ながら気を失った直後のまま両手やドアロック、スーツは大変な事に。挙げ句、携帯は完全に電池切れで連絡手段も完全に断たれています。
その理由はいつまでも帰って来ない彼の事を心配した会社から、最後の電池切れになるまで何度も電話が掛かってきていたからだとか。更に鼻はズルズルと風邪引きも確定し…
「もう…″アレ″は…、消えたのか…?ズズ…」
…でも、夕方に見たアノ幽霊は一体何だったのか?本当に彼女は裸だったのか?ドキドキ…。…って、しつこいぞ俺。
そして彼は帰りにその女性の幽霊と遭遇しませんでしたが、代わりに高熱を出して会社を二日ほどお休みする事に…
……と、そこから場面は変わりーー
「ーーでな?ケイジ…。人が急にこのトイレに入って来ないか無茶苦茶警戒しつつ、マックスに鼻を垂れながら、下半身丸出しでパンツとハンカチを手洗い場で必死こいて洗ったんだぞっ!」と…
「ナ、ナガ兄…。た、大変だったね…」
「ああっ。携帯電話なんてな?洗えないだろ?ずっと臭いままだ、あーっ、くそっ。…ん?糞??いやいや…で、体はやたらと重くて何かに取り憑かれた感有るし…。これについてどう思う?ケイジ…?」
「どう思う?……て、言われても…今は仕事中だし、車運転中だから路肩停めたけど今日は凄く忙しいんだ…。悪いけど、取り敢えずナガ兄?天満宮でお祓いを受ければ…?それから仕事終わったら家に帰って、またコッチから電話するからさ?」
「ああ、仕事中に悪かったな…。……あっ!それからな?実は…カクカクシカジカーー」
(ひえええ〜…)
これは生前のナガ兄から聞いた霊体験談でした。
相変わらず電話をなかなか切ってくれない、不切断の怪奇現象の方に自分が恐怖していたのは秘密ですが…
しかしその恐ろしい女性の霊は一体何者だったのでしょうか?もしかして近くの海で溺れ、その無念を霊感の強い兄に訴え掛けてたのでしょうか?もしくは顔面蒼白で用をたす兄をひたすら眺めたかったとか?
…は、絶対に無いか…
願うなら、暴漢に襲われ殺されてしまった女性…とかじゃなく。もし兄に憑いてたなら、お祓いで安らかに成仏してもらえれば…″この世への執念の″が。ただただ、消え去ってくれる事を祈るしか出来無い今回のお話でした…
完。




