壱 ーー 遠のく影 ーー (6)
何事にも理由というものがあるのかもしれない。忘れたことを不意に思い出すことにも。それは、忘れられていた物事が何かを訴えているのかもしれない。
思い出。
名前。
何を訴えているのか……。
6
「スノードロップ?」
「花の名前よ、花」
「ーーで、その花のしおり。ふ~ん」
学が手にしたのはアルミ製の本のしおり。紙でできた長方形型のありふれたものではなく、茎の先に花が咲いた形になっており、金色にメッキ加工されていた。
「どうしたの、これ?」
「懸賞で当たったの。ほら、この花って、あの会社のロゴじゃない。その懸賞で。ま、本当はカバンがほしかったんだけど。当たったのはそれだった」
嬉しそうにはにかみながら答えたのは、由紀である。
「ーーで、このしおりを使いたいから本がほしいってこと?」
「ーーそ。だって、使わないともったいないじゃん。そうでなくても、私ってクジ運が悪いのか、懸賞で当たったのって初めてなんだから」
しおりを持った手と逆の手には、一冊の文庫本を握っていた。
「結構、面白いって聞いたんだ。だから、この際ちょっと読んでみようって」
「ふぅ~ん。まぁ、僕はいいや。あんまり、本に興味なんてないし」
学は苦笑いしながら首を傾げると、由紀は口を尖らせる。
「私が読み終えたら、貸してあげる。ってか、読みなさい」
強い口調で言い切る由紀に、学は苦悶の表情を浮かべる。
「いらないよ。興味ないんだし」
「あんたに、人の趣味をとやかく言われたくないわよ。空しか撮らないなんて、あんたも変わってるんだから」
「そんなこと、言われたって、好きでそうしてるんだからいいじゃん」
「そうよ。だから、私もその本を読むの。で、だから貸してあげるって言ってるの」
「いや、どんな理屈だよ、それ。別にいいし」
「そんなの関係ない。いい、ガク? 絶対にこの本を読むのよ。約束だからね」
「おい、なんだよそれっ」
困り果てる学に、由紀は「分かった?」と念を押す。小さな体で見上げられて迫られると、剣幕に負けて「はい」と答えてしまった。
名前を思い出したから。と考えるのが妥当なのか。
学にとって、確実に渡瀬由紀の存在が強くなっているのを、自らが痛感していた。
より確信を得たのが、今回の夢、と呼ぶべき光景であった。
これまで、学は自身を呼ばれる際、「マナブ」や、苗字で呼ばれることがほとんどで、不思議とそれ以外で呼ばれることはなかった。
それなのに、由紀は「ガク」と呼んでいた。また、そう呼ばれることに違和感を抱くこともなかった。
夢から覚め、また幻を見たのかと思い返していたときから。
液晶越しに眺める景色にピント合わせると、シャッターを押した。カシャッと音がすると、学はすぐに写真の確認に移る。
液晶には夕焼けに染まった街並みが広がっていた。住宅の瓦が夕日によってほのかに赤みがかっている。
腰の辺りまでデジカメを持った手を下ろし、視線を上げると、目の前に広がった写真に収めた風景と同じ姿に顔がほころんでしまう。
放課後、静けさの高まった校舎の屋上に一人、学は頬に触れる風に気持ちを落ち着かせていた。
日が落ちかけても蒸し暑さは変わらず、生暖かい風でも気持ちよかった。
ここ数日、自分でも信じられない奇妙な感覚が続いていることに、少なからず不安を抱いていた。だからこそ、学は気分転換を求め、屋上へと足を運んでいた。
より強く衝動に駆らせたのは、今朝見ていた夢。自分が由紀に「ガク」と呼ばれたからである。
普段とは違う呼び方に疑念を抱かなくても、気持ちを落ち着かせたかった。
誰にも写真を撮るとは言っていない。それは圭介にも。彼に「帰るか」と誘われても、用事があると断っていた。
今日は夕日が眩しく、いい写真が撮れそうで、久しぶりに心は躍っていた。
辺りを見渡して、屋上の鉄柵沿いに少し動いてみせた。コンクリート張りの床をコツコツと音が追ってくる。
鉄柵に肘を突いて外の景色を眺める。シャッターを切るべきか、逡巡しては結局止めると、また歩き出す。
そんな動作を屋上の周囲を回りながら何度も繰り返していた。
密集した住宅街。街を横断する形で走る電車があり、この路線を境に片方に田園が広がり閑散とする土地と、反対側に住宅地を密集させた変わった光景。遠くに見える山の縁。
何枚かをカメラに収められ、学は充実感に満たされ納得すると、「うん」と大きく頷くと、画像を確認する動作に移動し、これまでの撮っていた写真を選択しる。
選択した画像を消去しますか?
学は迷わず“YES”を押した。
それまで撮った風景の写真が消え、残った写真は空ばかりになっていた。
学は気にせず、カメラを空に向けてシャッターを切る。今度は確認しても消去せず、そのまま残しておいた。
普段から風景に対してシャッターを切ることはあった。けれど、どうしても写真として、形に残すのが嫌で風景だけはいつも消去していた。
それがいつからなのかは覚えていない。けれど、習慣にもなっており、学も抵抗は何もなかった。
今日も空には薄い雲が張っており、夕焼けの赤い色が白い雲とグラデーションを広げていた。
風が少し強く、眺めているだけで空の景色は移り変わっていた。それがまた、学には楽しかった。
高揚する胸を宥めながら、シャッターを切っていたときだった。
「あ~っ」
突拍子のない、甲高く情けない声が屋上に響き、驚いた学は肩をビクッと強張らせてしまい、手にしたカメラを落としそうになる。
あ、ぬぁ、むぁ、と咄嗟に出てしまいそうな声を堪え、なんとかカメラを落とさずにすむと、吐息がもれた。
胸を撫で下ろすと、今度は声の主が気になっていた。
「……誰?」
聞き覚えのない声に首を傾げながら振り返る。ちょうど、背中に校舎への扉があったから。
学が屋上に訪れた際には誰もいなかった。だからこそ、声がするのなら入口しか考えられなかった。
現に、自分ではちゃんと閉めたはずの扉が少し開いていた。なのに人影はない。
確か、女の子の声だった、よな? ーー
甲高い声から考えつつ、学は恐る恐る扉へと向かい、半開きになった扉を開いてみせた。
誰かがいるものと思っていたが、開いた先の階段に人影はなかった。手前の階段には茶色く角張った小さなカバンと、A4サイズのスケッチブックが並んで壁に立てられていた。
「……美術部の人?」
普通の生徒が使う物ではなく、またカバンも使い続けられた雰囲気に想像しながら、視線を階段の下へと移した。
十段ほど下りた先に踊り場があり、そこから逆U字に階段は下へと続いていたが、人影はなかった。
足元の荷物が気のせいでなはいのを物語っているのだが、人影はなく、困惑から後頭部を掻いてしまう。
「ったく、もう最悪。なんで下まで落ちるのよ」
諦めて屋上に戻ろうと背を向けたとき、下から憤慨した声が階段に響いた。先ほどの甲高い声だ。
三歩ほど進んでいた学は踵を返して、階段を覗き込んだ。すると、ブツブツと呟きながら階段を上ってくる人影があった。やはり女の子だ。
スカートを揺らしながら階段を駆け上る女の子。手には小さなビニール袋を持っている。黒く短い髪が大きく揺れたとき、女の子が顔を上げ、学と目が合った。
一瞬の出来事に、二人とも声を出せないまま驚きの表情をぶつけ合い、呆然とする女の子。学は動揺して瞳孔が激しく動いてしまい、女の子を正面ではっきりと確認できないでいた。
「……高原、くん?」
女の子が戸惑い、ゆっくりとした声が名前を呼ぶ。彼女の声に、揺れていた瞳孔が安定して女の子の姿を明確に捉えた。
「……若林?」
誰にも、知られないことだからこそ、安心して物事に対してこだわりを持つことができるのかもしれない。黙っているからこそ、その人の日常に溶け込んでくれているのかもしれない。それって、恥ずかしいことなのか、胸を張ってもいいことなのか。どうなんでしょう?