壱 ーー 遠のく影 ーー (3)
人によって、好き嫌いはいろいろとあると思います。食べ物であったり、行事であったり、人付き合いだったりと。特に子供のころ、食べ物なんかはずっと克服できないこともあると思いますが、それがふと、大丈夫になったりすることはありませんか? 全然、意識しなかったのに、気づけば平気になっていて、ちょっと驚いたりするなんてことが。それって、何がきっかけなんでしょうね。
3
ーー 変わってるわね。どうして、空しか写真に撮らないの?
ーー ほんと、そういうところは一途というか、頑固というか。ま、子供なんだよねぇ ーー
「……うるさい……」
部屋に響かせていた音楽を聴きながら、学は自分の小さな呟きによって目を覚ました。
学校から帰って来て、自分の部屋でくつろぎながらも、また襲ってきた軽い偏頭痛をごまかそうと、ベッドに横たわると、少しの間睡魔に襲われて眠っていただけらしい。
眠っていたのは十五分ほどらしい。音楽を流しながら寝てしまうのは、体はよほど疲れているらしい。
額に手を当て、あくびをしながら体を起こすと、辺りを見渡した。すると、ベッドのそばのローテーブルには、数枚の写真が広げられていた。
学はベッドから起き、ローテーブルの前に胡座を掻いて座ると、またあくびと背伸びをして写真と向き合った。
どれも学がデジカメで撮った写真であり、データを残す反面、特に気に入ったものはプリントアウトしていた。
もう何年も続いている作業で、学の趣味でもあった。ただ、整理とは名ばかりで、実際は写真を撮った年月ごとに茶封筒に入れて、押し入れに仕舞っておくという、雑ではあったのだが。
それも普段から整理しているのではなく、急に思い立って行動に移る回数の方が勝る勝手さもあった。
「ほんと、空ばっかだな……」
両手に一枚ずつ写真を手にして、交互に見比べた。右手には真っ青に晴れた空。左手には入道雲が空を泳ぐ写真を手にしていた。
写真についてのこだわり。
といえば聞こえはいいのだが、実際に散らばっている写真はすべて空ばかりである。晴れた空もあれば、重い雲が居座った雨の空。星が光る夜空の写真もあったが、本当に空ばかりで、人の姿を写したものは一枚もない。執拗なまでの固執は奇妙であると、我ながら思う頑固さがあった。
だからこそ、学は誰にも写真を趣味にしているのを教えてはいなかった。みんなに隠れて撮っていた。これは圭介にも黙っている。
「なんで、知っているんだろう?」
写真を掴んでいる手が止まり、壁を眺めながら声がもれた。
短い睡魔の間に聞こえた女の子の小馬鹿にした声。それが誰かと考えたとき、聞き覚えもないはずなのに、学の思考は行き着いてしまう。
渡瀬由紀だと。
誰にも話していないのに、写真のことを知っている。気味悪さにうなだれ、深く唸ってしまう。
夢だからこそ、都合のいいように書き換えられているとも考えてしまうが、それにしては声が鮮明に残っていた。
まるで、記憶のように。
ーー まさか、実際にいた気がする。とか言うんじゃないだろうな?
放課後、冗談めいて言った圭介の言葉が思考を惑わせ、そうなのか、と考えてしまう。
学は真っ白な壁と睨み合ったまま、呆然と動かなかった。
ややあって、唾を飲み込むと、ローテーブルの上に置いてあったスマホに手を伸ばし、迷わず操作した。
相手は圭介。しばらくして、弾んだ声が鼓膜に届いた。
「おう。どうした?」
「いや、ちょっとな……」
開口一番、気さくに聞く圭介に、学は逡巡して唇を一舐めしてしまう。同時に、スマホの背を無意味に指で突いてしまう。
何を聞くべきなのかは初めから考えていた。放課後、圭介が自分の迷いに対して口走ったことを、ふと思い出して聞いてみたくなったのだ。
だが、それは学がもっとも苦手にしているジャンルだと指摘され、勢いで連絡を入れても、今さらながら切り出せずにいた。
どうした、ともう一度問う圭介に促され、学は一度頷いた。
「あのさ、お前、放課後になんか変なこと言っていただろ? ほら、SNSがどうとか」
「ーーSNS?」
勢いに任せたつもりだが、口調はゆっくりとなってしまう。学の問いに、圭介はスマホ越しに唸っていた。
僕が苦手だと茶化した話だ ーー
反応のない圭介に叫びたかったが、また茶化されるのは歴然だったので、喉の奥に留め、返事を気長に待った。
「あぁ~。あったな、それ」
ようやく明るい返事が届いた。学は安堵するが、内容に対しては臆してしまい、スマホを握る手に力がこもった。
「いいのか? お前のキ・ラ・イな話だと思うけど?」
嫌いを強調して茶化す圭介に穏便に「うるさい」と献上してみせるが、「ハハハッ」と軽くあしらわれてしまう。
「と、まぁ、冗談はこれまでにして、と」
圭介の口調に真剣さがまとう。
「ほら、お前、夢に出てきた女の子が実際にいた気がしてならないって、言っていただろ」
「ーーうん」
「実はさ、俺も結構前に聞いたことなんだけど、お前が昼間話したのと、ちょっと似た話があったんだよね。
んで、それは「いたかもしれない」じゃなくて、「いなくなった生徒」の話なんだけどさ」
「いなくなった生徒?」
「そう。ある生徒が言っているんだけど、ある日突然、昨日までいたはずの生徒が、次の日に急にいなくなったって、言っているんだ。クラスの誰に聞いても誰も覚えていない。けれど、確かに誰かがいた気がしたってな」
話を聞いていて、学は一つ疑問が浮かんだ。話し終えたのを見計らい尋ねた。
「なぁ、けど、それがどうSNSと関係があるのさ?」
「そういう内容の会話が、SNSで広がってたって、話だよ」
「なんだよ、それ?」
「なんかさ、あるアカントがあるんだけどさ。それはどうやら、俺らの学校の関係者が作ったやつらしいんだけどな、そこに、昔、そんな体験をしたことがあるって書き込みがあったらしんだ。
そしたら、面白がった奴とかが乗っかかって、いろいろと怪談めいたことを書き始めたらしいんだ」
「バカバカしい」
「まぁ、そう怖がるなって。その内容を知ってる奴はみんなそう言うよ。ただの遊びだって。けど、最初のやつだけは、どうも現実味を帯びてるって話があったんだ」
どうも信憑性に欠けてしまい、学は真剣に聞くことはできなかった。
それでも、圭介が嘘をつく奴ではないことも理解している。だからこそ、学は首を傾げた。
「お前は見たことあるの、それ?」
声が上擦るのを必死に堪えながら尋ねてみる。
「いや、俺はまだ。ってか、そんな心配すんなって。何も、本気のやつじゃないだろうし」
平静を装っていたつもりだったが、圭介には伝わっていたらしい。
ったく。散々脅してきたのは誰だよ ーー
とは口が裂けても言えない。そもそも、おどおどとしてしまった自分が情けなく、苦笑してしまう。
見た目は学より少し背が低く、大人しげに見える圭介。それでいて時折毒づく奴であったが、それだけ学校で情報を得る社交性にはこのとき、あらためて羨ましく思えた。
「だから言ったろ。お前の苦手な話だって」
茶化すわけでもなく、落ち着いた口調の圭介に、学は黙って天井を見上げた。
「……やっぱり、気になってしまうんだ」
このまま黙っているのも息苦しく、学は弱々しく吐き捨てた。
二人の間に短い沈黙。張り詰めた空気が耳を押し潰そうとする。
「……お前、それって、“渡瀬由紀”とかいう奴のことか?」
沈黙を破った圭介の問いに学は黙ってしまう。それが返事になってしまったとしても。
「だから、それはお前の妄想だろ? そんな奴はいないって。そんな妄想に逃げずに、本物のおーー」
「ゴメン。でも、やっぱり」
笑いながら注意する圭介を、学は遮る。声を張り上げたためか、圭介も押し黙ってしまう。
「はい、はい。分かりました。ま、怖がりのお前がそこまで言うんだったら、確認してみな。それで納得しろ。そんな奴はいなかったんだって。ちなみに、そのアカントってのはーー」
半ば呆れてしまったのか、圭介は反論せず、最後は諦め気味に忠告をした。
「……わざわざゴメン。変なこと言って」
「気にすんなって。ま、明日楽しみにしているさ。お前がその女の子がいないってことにヘコんでいるのを」
「ーーうるさいよっ」
結局、最後に茶化されてしまう。それまで感謝していたのに、すべてを否定する一言を献上して、学から通話をきってやった。
ややあり、明かりを失ったスマホを眺めてしまう。ホッと笑みを浮かべて。
何か、苦手なことを克服しようとすることは、大変なのかもしれませんね。苦手なことには目を背けて逃げてしまえば楽なのは当然なんだけど、そうもできない状況も出てくるのかもしれません。何にしても、大きなきっかけが必要になるのかもしれませんね。苦手なものを克服し、新しい道を開くか、そのまま目を背けて楽になるか。難しい判断なのかもしれません。