参 ーー 二人の存在 ーー (6)
現実味のない現実。その中に取り残される不安。それに抗いたいのに、許してくれないのが現実なのかもしれない。それでも、信じたくないことが起きれば……。
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「言葉通りよ。お姉ちゃんがいないようにする。ううん。ちょっと違う。“いなかったこと”にするの。渡瀬由紀が存在していなかったと」
話が極端すぎて学は眉をひそめ、身を乗り出す。
「そんなの、ただの治療なら、入院して治療をすれば」
「できるわけないわよ。だって、人体実験した上でおかしくなったのよ。十一年前の実験の副作用で、私たちみたいな人が生まれたなんて知ったら、そこの会社の薬なんて誰も呑まなくなる。実験が公になるのを恐れたのよ。会社の信頼が失われるのを」
確かに二人の実験が世間に公表されれば、会社に対する威厳、信頼がすべて崩れ去る。
学は振り返り、薬品会社のビルを眺めた。
以前からビルに対しての嫌悪感はあったが、今はそれがさらに強まっていた。
「今から一ヶ月ほど前、お姉ちゃんを世間、特に人との接触が多かったこの学校から消す計画を実行したの」
一ヶ月前。そらは学が由紀に対しての違和感を抱き始めたころと一致していた。
「お姉ちゃんは前触れもなく、学校から消えることになっていた。誰かに何も言わずに」
「ーー? ちょっと待って。それがおかしいんだよ。なんで、僕以外の人がそんな簡単に由紀のことを忘れてしまうのさ。みんな、あいつを知らないって言うし。存在がなかったみたいに。変だよ、それ」
圭介に相談し、周りをよく観察していたときを思い出す。圭介の反応や、周りの状況を大げさと痛感しながらも説明した。
胸に蝕んだ感情をまだ忘れていない。学は若林に詰め寄る。
「お姉ちゃんの存在を知らないのは、みんな薬によって神経を麻痺されて消されてしまったからよ」
「……は?」
「その薬は無味無臭の薬。まぁ、簡単に言ったら、毒ガス、かな。それを生徒、教師、全員に嗅がせたのよ」
「…………」
「一ヶ月ほど前、避難訓練があったのって覚えてる?」
「避難訓練? いや、そんなのって…… あっ」
以前、圭介との会話でそんなことを話していたのを思い出した。確か、その日は風邪で学は休んでいた。
「避難訓練って、最終的に生徒も教師もグランドに集まるでしょ。だからそのとき、校舎の入口付近すべてに薬を発生されておくの。そうして、そこを通る誰もが知らない間に薬を吸ってしまい、脳の神経を刺激していたってことなの。まぁ、敏感な人は薬のせいで軽い頭痛や目眩が起きたって人もいたらしいけど。けど、それが原因で、お姉ちゃんの記憶を消すようにしていたの」
唐突に話されても受け入れられない。聞いているだけでは、まるでドラマや映画みたいな展開に。
嘘だろ、と無言の問いを投げかけると、若林はかぶりを振る。
「そんなうまくいく話が…… だいたい、僕みたいに学校を休んでいた子はどうなるのさ?」
「それも、勿論予測されていた。うちの学校って、毎週月曜に朝礼するでしょ。あれって、意味ない、とか、ダルいとか思ったことない?」
「なんだよ、急にそんな話ーー」
「うん、そう。本格的な決行は避難訓練のときだったけど、それ以前の朝礼と、そのあとの朝礼でも薬はまかれていたの。薬の効果を確実なものにするのと、高原くんみたいに欠席者に対する処置として。よほどのことがない限り、すべての日に休んでいる人がいるとは限らないでしょ」
「けど、学校側がなんで、そこまで」
「言ったじゃない。あの会社はそういうところなんだって」
学校側が由紀一人にそこまでする必要性に疑問を抱くが、皮肉めいた若林の口調に、世間の奥深い陰謀みたいなのを感じてしまい、気分が悪くなる。
由紀がいなくなった全貌がこれまでの話? なら ーー
「なら、どうしてお前は、その、ゴメン。僕、由紀がいなくなって異変を感じたとき、お前の存在にもちょっとした違和感を持ったんだ。お前って、前からクラスにいたっけって」
「別に謝ることないよ。それも、あながち間違いじゃないし」
「それに、今の話じゃ、お前の体もいつ異変が起きるか分からないんだろ」
二人の体が危険にさらされているのならば、若林が学校にいるのは矛盾していた。
「私はすぐに危険ってわけでもないし。だから。ちょっとでも、学校に生きたかったんだ。こらまで、勉強はしていたし、学力にも今なら問題ないし。学校生活には、お姉ちゃんからも話を聞いていたから」
学の質問に平然と笑って答える若林だが、彼女の目の奥に何かまだ大事なことを隠しているように見えた。
「それと、さっきの答えね。私が学校にいなかったはずってやつの。それは、お姉ちゃんの逆。薬の効果で、私が以前から学校の生徒として存在していたように思わせるようになっていたの」
「避難訓練のとき、僕は休んでいたから、それで」
それで最初、若林を思い出せないときがあった。
「それに確かめる必要があったから」
「確かめる?」
「そう。本当にお姉ちゃんの存在が消えているかどうかを」
じゃぁ、失敗だな ーー
内心、毒づいてしまう。実際、学が由紀を覚えているのは、薬品会社にとって大きな誤算であるのだと、学を見詰める若林の眼差しが語っていた。
「けど、私が噂になっていたなんて思わなかったわ」
「ーーん?」
「知ってるでしょ。あのSNS。あの最初に書かれていた消えた人って、多分私だから。きっと、高原くんと同じで、薬をまいた日に休んだ生徒が微かに覚えていたんだと思う」
そうか。さっきの話からすると、若林と一致するんだ ーー
それは、以前にも学と同じ心境に陥った人物が確実にいた証拠。正直、複雑な思いに苛まれた。
一旦、学は頭を抱えて整理をする。話が漠損と大きすぎる。頭が眩みそうになる。
混乱を鎮めていると、隣で座っていた若林がおもむろに立ち上がると、両手を前方に伸ばした。
「さ。私の話はこれで終わり」
「ーーえっ?」
「ゴメンね。私が話せるのはここまでなの。これ以上言っちゃうと、後悔するから」
若林の表情に明るさが戻ったのは気のせいだったのか、学に向けた表情はこれまで以上に切なく、今にも崩れそうに見えた。
状況が把握でできずに呆然としていると、若林は黙ったまま校舎の扉へと、ゆっくり歩き出した。
「ちょっと待ってっ」
慌てて立ち去ろうとする若林の腕を掴んだ。
「お願い、放してっ」
「ーーけど」
「これ以上は聞かないで」
放すつもりはなかったが、背中を向けて顔を背けて叫ぶ声に驚き、学はつい手を放してしまう。
手を放すんじゃない ーー
脳裏で懸命に叫ぶ声が木霊したが、空しく若林は遠離っていく。
「……お姉ちゃんからの伝言。「ありがと、ガク。バイバイ……」って」
若林の呟きが聞こえた瞬間、学の体から力が抜けていき、動くことすらできずに立ち竦み、視線だけ空しく彼女のあとを追った。
「……そうだ」
扉と学とのちょうど真ん中辺りで、若林は足を止めた。
「……なんで、なんで忘れてくれなかったの……」
「……若林?」
学の声に振り返らず、若林はまた歩き出す。
このまま見送ってしまえばすべて終わってしまう。そんな恐怖心が襲う。
「ーー一つだけ教えてっ」つい叫んでしまう。
「ーー何?」
震えそうな体を必死に堪え、これだけは、と浮かんだことを、唇を震わせながら叫んでいた。
「由紀は生きているんだよね。生きてるんだよねっ」
これまでの話から、由紀の今の状況を聞いていない。だからこそ、考えたくもないことを口走っていた。
学の問いかけに、若林の足がまた止まると振り返る。
「……ーー」
そのとき、何を発して口が動いたのは読み取れた。けれど、声までは聞き取れない。
どうしてそんな話を ーー
と、聞きたくなるほど、若林の表情はいつになく切ない。
とても儚く見えたその頬を光る涙を、学は見逃さなかった。
涙に目を奪われていると、若林は気づいたのか、慌てて涙を拭い、そのまま逃げるように屋上をあとにした。
乾いた空気を扉の閉まる甲高い音が切り裂き、誰もいなくなった屋上で、学は一人立ち尽くし、冷たい風が頬に触れた。
「……バカ?」
まるで風が言葉を運んできたみたいに、若林の唇の動きが今になって読み取れた。
聞き覚えのある言葉に戸惑うしかなかった。
「確か、あの小説の最後の一言も……」
言葉はいつしか心を乱してしまう。どれだけ相手を心配しても、返ってくるのが自分の望む言葉でなければ、残るのは戸惑いだけ。




