壱 ーー 遠のく影 ーー (2)
記憶とは、都合のいいように変わるものなのでしょうかね。ある共通の出来事があり、「あのときこうだったね」と聞けば、「そうじゃなくて、こうだよ」と言われたりすると、ショックを受ける気がします。ただの物忘れが酷くなったと思えば情けないけど、そうじゃないと、強く否定できる自信があったら、それはそれで難しい気がします。
2
圭介は目を丸くしていた。
「……ワタセ、ユキ……?」
今日一日、授業が始まるときの点呼に、学は注意を払っていた。聞き覚えのある名前を呼ぶかどうかを。
結果、六時間ある一日の授業で、一度も教師から「渡瀬由紀」という名前が放たれることはなかった。
それでも気がかりになり、放課後に前の席に座りに来た圭介に尋ねてみた。
だからこそ、圭介は呆気に取られていた。
「……誰だよ、それ?」
「……分からん」
「はぁ? なんだよ、それ」
予想通りの返事に学も小さく唸る。弱々しい反応に圭介は眉をひそめる。
「誰か分からないんだ。昨日、夢に出てきた。うん。多分、夢だと思う。そしたらなんか、頭から名前と姿が消えないんだよね」
頭を抱え、髪を掻き上げながら力なく答える。心なしか声が小さくなっていたのは、夢に現れた人物が気になるという話を笑われるのを恐れていたのかもしれない。
バカにされるのを覚悟しつつ話したのは圭介だからなのかもしれない。彼は明るく、誰にでも冗談を言えるような奴だが、曲がったことが嫌いなので、学も信頼していた。
「お~い。学くん、大丈夫かい?」
多少は笑われるのを覚悟していた。だが、どこか遠い目をして喋る圭介に、やはり恥ずかしさから学は目を伏せてしまう。なかば、ふて腐れながら。
唇をすぼめ、ニタニタと不適な笑みを浮かべて茶化そうとする圭介を見られなかった。
「おい、大丈夫か? まだ風邪が治ってないんじゃないの?」
「バカ。もういいよ」
嫌味に顔を上げると、笑う圭介に怪訝に手を振り、椅子に横向きに座り、壁に背を凭れさせた。必死に笑いを堪えようとする圭介を見ないように。
瞬きをしながら、一日が終わり、生徒が出て行った空席の机を眺めていると、一つの空席が目に留まった。
学の席から真横に三列離れた席は、昨日から空席のままであった。
「……あの席」
そこに渡瀬由紀がいた。
バカげた話だと痛感していても、自然と学は呟いて小さく指差した。彼の手の動きにつられ、圭介も空席を眺める。
「あそこがその、“渡瀬由紀”って奴の席だっていうのか?」
学は自信なく頷く。
すると、圭介は大げさにため息をこぼしてかぶりを振る。
「学。お前、まだ風邪引いてるんだよ。そんなはずはないから」
「なんで?」
呆れ顔の圭介に対し、学は真剣に問い返す。
「あそこの席は渡瀬って奴の席じゃないよ。若林の席なんだから」
「ーー若林? あ、そうか……」
「ーーだろ?」
圭介の指摘に、脳裏にうごめいていた霧がふと晴れる。
そこには頭に浮かんだ女の子とは違う女の子が浮かぶ。意識して見ていた子ではなかったが、それでもどこかぼやけてしまう。
「そういえば、あいつも最近は休んでいたな」
席を眺めながら呟く圭介に、学も最近席に座っている姿を思い出せないでいた。
「ま、そういうこと。お前が言う奴はいないんだよ」
結論づけ、手を振る圭介に対して、学は素直に頷けず、難しげに唸ってしまう。
「ってか、本気で大丈夫か?」
「ーー何が?」
「だって、そんな妄想に逃げるなんて、相当危ないぞ」
身を屈めて周りに聞こえないようにしているのか、耳を澄ませて聞こえた内容に学は呆気に取られ、体を反らしてしまう。
勢いで窓に後頭部を打ってしまい、手でさする。
「だって、変だろ。夢に出てきたって奴にそんなに考えるか、普通? 大体、そこまではっきり覚えているもんか? 考えすぎなんじゃないか?」
それまで茶化してふざけた口調の圭介であったが、話しているうちに真剣な表情に変わっていく。
学も話を聞いているうちに頬が強張り、より強く空席を眺めてしまった。
「ただの妄想っ」
「ーーはぁ?」
不安に駆られても、圭介には話しても大丈夫だと安堵していたが、圭介の弾んだ声に、信頼していたものがすべて吹き飛び、声を発してしまった。
「仕方ないだろ。マジで頭から離れないんだから」
「妄想の奴が?」
「だから違うって」
また茶化す圭介を一蹴すると、頭をさすっていた手を止めてしまう。
「夢だって分かってるんだよ、自分でも。けどさ、なんか、なんていうかさ……」
上手く説明ができずに言葉を濁らせてしまう。
「まさか、実際にいた気がする。とか言うんじゃないだろうな?」
圭介の一言に戸惑って動きが止まってしまう。
学の態度に圭介は一瞬嘆くようにため息を吐き、鼻頭を手の平で押さえて考え込むと、宙を見上げる。
「……そういえば、なんか変な話は聞いた気がするな…… あ、あれだ。SNS」
「ーーSNS?」
「ーーん? あ、まぁな。けど、お前は聞かない方がいいぞ。お前の苦手分野だからな」
苦手分野と聞いて、学は身を引くと奥歯を噛み締めてしまう。
思い浮かんだのは、今、街の映画館で上映されているホラー映画のポスター。恨みを持った霊が人を次々と襲いかかるというありきたりな内容であっても、学はそうしたジャンルがどうしても苦手であり、体が強張ってしまう。
昔からどうしても克服できないものの一つであった。
話を聞いただけでうろたえ、執拗に目線を泳がせていると、学の様子を楽しむ圭介に気づき、無理矢理背筋を伸ばした。
だが、返ってその動きが圭介のツボにはまったらしく、一度両手を叩いて、笑ってしまった。
「どうした? 怖くて話を聞きたくなくなったか?」
「違う。恐いんじゃなくて、嫌いなの。分かるか? 嫌いなの」
「子供だねぇ」
頬から額にかけて急激に熱くなり、学は照れ隠れで圭介から顔を背けた。
「はい、はい。ま、ただの噂だし、気にすることじゃないって。それより、早く帰ろうぜ」
釈然としないのを軽くあしらい、圭介は席を立つと学を促し、渋々従い席を立つと、机にかけてあったカバンを手にした。
椅子を戻して振り返ったとき、また教室見渡してしまう。
圭介には黙っていたが、やはり胸に大きなしこりはまだ残っていた。
夢だったんだと、言い聞かせようとしていても、消えない一人の女の子の名前が。
暗闇のなか、足元がおぼつかず、自分だけが周りの人よりも歩くのが遅く取り残されてしまう……。誰も知らないことを自分一人が知っている、というのは、こういう感覚に似ているのかな、と思いました。ちょっと暗い表現になってしまいますが、だからこそ、何か“光”みたいなものを求めて進もうとしているのかな、と。作品の学も、この先、“光”となるものを見つけることができるのか、となっていきます。