弐 ーー 遠い日の姿 ーー (7)
何気ない一言。それがとても大事な一言になることがある。それは、人を助けることでもあり、もしかすれば、傷つけたり苦しめたりすることになるのかもしれない。
7
通話はこれを最後に切られた。それでも学は「おい、おいっ」と呼びかけるが、反応はなくスマホは黙っている。
全身から力が抜けてしまい、腕が垂れ下がる。スマホを落としてしまいそうなほどに。
「……ガクって」
とても懐かしい響きであり、動揺する心の一方で、嬉しくて踊り出しそうになった。なのに、納得はできない。
学を“ガク”と呼んでいたのはただ一人、由紀だけ。どれだけ記憶をたぐってみても、彼女以外いない。
「本当にあいつが…… そんなわけないだろっ」
由紀と若林が同一人物。
あり得ない疑惑を、強くかぶりを振って否定する。 静かに息を吐き、混乱する気持ちを宥め、重たい足を引きずるように踏み出した。何も考えたくなかった。
ゆらゆらと体を揺らし、額を手で押さえていると、遠くで遊んでいた二人の子供が別の場所に行こうとしているのか、こちらに向かって走っていた。
急いでいるのか、女の子が先を進み、あとからボールを持った男の子が追っている。
ちょうど、学とすれ違い際に女の子は立ち止まり振り返ると、男の子に声をかけて大きく手招きする。
男の子も懸命について走るが、女の子はさらに先を急いだ。
「待ってよ、お姉ちゃんっ」
息を上がらせながら叫んだ。それでも女の子は立ち止まらず、男の子は小さい体で追いかけていた。
学はふと足を止め、通り去る二人の子供の後ろ姿を目で追った。
「お姉ちゃん」
なぜ立ち止まってしまい、気にしてしまったのか。
由紀に対しての懐かしさ、苦しさとはまた違う思いが急に湧き上がってきた。
遠ざかる二人の背中を見て瞬きをしていると、微かに由紀とも違う誰かの影が横切った気がした。
「お姉ちゃんか」
* * *
公園の一角には大きな花壇があった。季節ごとに花は植え替えられ、一年中花が枯れることはなかった。
湿った雨期の季節がようやく終わり、燦々と太陽が大地を照らす夏が近づこうとしていたとき、花壇にはアスターの花が咲いていた。
「この花もいつかは変わっていくんだ……」
寂しげに告げられる声。今にも途切れそうな声に、学の胸は絞められる。
彼女の背中は自分より背が高いのに小さく見える。
「ねぇ、なんでそんなことを言うのさ?」
「私はこの花たちが羨ましいの。ううん。花だけじゃない。みんなが、みんなが羨ましい……」
「でも、花はいつかは枯れてしまうよ」
花壇に咲く花を眺めて呟く。
「……そうだよね。景色は変わっていく。あのビルができたように、この街ももっと変わっていくんだね。キミも。それが羨ましいの。変わらないものなんてない。変わらないものなんて……」
泣き出しそうな声に学はふと上を見上げた。夕焼けの空が広大に真っ赤に染めていた。
そんなことを言わないで ーー
それを僕が ーー
声に出して叫びたかった。喉の奥から声を絞って叫びたかったのに、学は息が空しく吐かれるだけで声が出てくれない。
「ーーガクッ、何やってるのさっ」
倒れそうになる学を引き留めたのは、背中から飛んできた活発な声。心にスッと入り込む声に振り返る。
「ーー……由紀」
公園の入口でこちらに向かって大声で叫び、無邪気に両手を大きく広げて振る由紀の姿。どうやら、学を迎えに来たらしい。
「……じゃあね」
由紀に呼ばれて、どうしたらいいのか戸惑う学に、彼女はそっと言った。慌てて学が視線を戻すと、小さな背中がゆっくりと花壇から、学ぶから離れ、公園を去ろうとする。
待って、待ってっ ーー
声が出てくれない。
「……ありがとう」
「ーーお姉ちゃんっ」
ようやく飛び出た叫び声。懸命に叫んだのだが、学の声を背中に受けながらも、彼女の歩みは止められなかった。
離れていく恐怖に学は立ち竦んでしまう。去り行く小さな背中に声をかけられないままに。
* * *
お姉ちゃん。
まるで、あのビルに吸い込まれるように消えてしまった人物を思い出してしまった。
彼女の背中を目蓋の裏に浮かべると、目頭が熱くなっていた。
寂しげな声が胸に突き刺さる。
彼女がまるで怯えるようにして呟いていたもの。変わらないものを学は必死に探していたとき、見つけたのが空だった。
空は人みたいに表情を変える。機嫌がよければ晴れて、悪ければ曇る。泣きたくなれば雨を降らせる。けれど、どれだけ表情を変えても、変わることはない。
あのたき、詰まる声の先に言いたかった。
空は表情は変えるけど、変わらない。ずっとそこにある、と。
だから空を撮り続けていた。彼女に自分が撮り溜めた写真を見せて、安心してほしかった。
学が空にこだわる理由は、名前も知らない彼女にあった。
ずっと昔の出来事。ずっと思い出せないでいたことを、突然思い出すのは、そのときに置かれている状況に、何か繋がりがあるからこそ、思い出してしまうのか? もしかすれば、過去が何かを訴えているのかもしれない。




