弐 ーー 遠い日の姿 ーー (6)
嬉しさに包まれたあとに、心が切り裂かれそうな出来事が起きると、辛くなります。それも、大丈夫だ、と自信を持ったあとにそんなことがあってしまっては、より影響があるものだって、考えてしまいますね。
6
これまで信じていると思いながらも、心のどこかで諦めていた節があるのも否めない。
記憶が曖昧になっていたのか、それとも学が逃げていたのか、次の日になって積極的に行動に出てみた。
微かに見えた望みが背中を押して動かしたのかもしれない。
寝不足のせいか、朝から頭痛が酷く、授業中から何度も閉じそうになる目をこすっていた。
結局、返事はあれからなかった。それでも期待は拭えず、起きていた。夜中の二時ごろまでは意識が残っていた。今朝からの頭痛はその産物である。
一日の授業が終わり、学は一目散に学校を飛び出すと、ある場所に急いだ。
向かったのは渡瀬由紀の自宅だった。
由紀とは幼馴染み、とまで親密な仲ではなかった。ただ、小学校のころから男女関係なく遊んでいた数人の友達、特に女の子の間では一番仲がよかった子だった。
強いていえば、腐れ縁がしっくりくると、学は受け止める。
だからこそ、由紀の家も知っており、子供のころは何度か訪ねた記憶もある。
彼女な異変を感じて最初に行うべき行動だったのかもしれない。由紀の家に来れば、すべてが分かるはずだったのだから。
それなのに、不思議とこれまで由紀の家に向かおうと考えたこともなかった。拒んでいた。恐れていた。
いや、どれもしっくりこない。
学の心境を表すのは一つだけであった。
忘れていた。
何度も訪ねていた家を忘れるなどあり得なかった。ただでさえ、由紀の居所が気になって仕方がなかったのだが、なぜか忘れていた。
家だけじゃない。ほかにも、由紀に対してところどころ記憶が曖昧になっていた。まるで、彼女が夢のなかに出てくる幻みたいに。
それが今になって気づかされた。
胸苦しさを残しながら、学は由紀の家まで辿り着いていた。最近は訪れていなかったためか、緊張していた。
「……表札がない」
道を歩いていて、家が見えたときは安堵したが、正面に来ると目を疑ってしまう。
グレーの壁をした見覚えのある洋風の一軒家。正面に門があり、階段を三段上がった先に玄関が待ち構えている。
門の横に郵便受けが設けられ、そこに表札があったはずなのに、今はぽっかりと抜かれて凹んでいた。
駐車場も併設されていたが車は止まっていない。門も閉められて家自体に住民がいないみたいに静寂していた。
学はひとまずインターホンを鳴らしてみるが、やはり玄関の奥から人影が見えることはなく、なんの反応もない。
諦められない学はもう一度鳴らしてみるが、やはり反応はなく、空しさが高まっていた。
それでも、離れたくなくて家を見上げた。三階建ての一軒家。二階の正面は出窓となっている。
内部はカーテンもされていなかったが、内部に電気が灯されていないので、人の気配を見ることもできない。三階にも窓はあったが、こちらは雨戸が閉じられており、完全になかの様子は遮断されている。
手詰まりになった学は首筋を引っ掻く。苛立ちのせいか、力がこもる。
近所の人に聞いてみようかと辺りを見渡したが、どこかに遊びに行こうとしているのか、遠くでボールを投げ合って遊んでいる、六、七歳と思える男の子と女の子の二人だけで、事情の聞けそうな大人はいなかった。
「……仕方がないか」
あらためて体を反転させ、その場を離れようとしていると、唐突にスマホが鳴った。
すぐさまスマホを取り出して確認すると、表示された名前を見て、目を点にする。
「……公衆電話?」
表示されていたのは、公衆電話となっており、学も思い当たる人物が浮かばない。知り合いはみんなすぐさまスマホを持っている。まして、公衆電話から受信したのも初めてで、行動が鈍ってしまった。
呆然としている間にもスマホは鳴り、間違いではないと戸惑いながら出てみた。
「……もしもし?」
警戒心から声がこもってしまう。
返事はない。
そのあとも何度か尋ねるが、相手は沈黙したまま何も話そうとせず、学もこれ以上話す術を失い声を詰まらせる。
重い沈黙が流れた。
一向に通話を切ろうとしない相手。怪訝に思って眉をひそめていた学の顔が瞬時に上がる。
「……由紀、なのか?」
震えそうな声でゆっくりと呟いた。残されたなかで浮かぶのは彼女しかなかった。
返事はない。けれど、確かに動揺したのか息遣いが伝わってきた。
「待ってっ、切らないでっ」
焦って声を張り上げてしまう。
「お前、今どこにいるんだよ。なぁ、なんで急に消えたんだよ…… なんなんだよ、あのメール…… ゴメンって。何がゴメンなんだよ、なぁ?」
一気にまくしたてた。少しでも間を開けてしまうと切られてしまいそうで、恐怖心がより学を焦られて早口にさせていた。
「……体は? 咳とか大丈夫なのかよ。また無理してるんじゃないのか?」
切ってほしくないと懇願しながら、スマホを握る手に力がこもる。
声なき学の願いが届いてくれたのか、通話はまだ繋がっている。それでも何を話せばいいのか混乱して真っ白になってしまう。
立ちくらみに襲われていると、頭に一つの姿が浮かんだ。
スノードロップ…… ーー
まだ胃の辺りがキリキリと痛み、不安要素が浮かんでしまう。美術室で預かった文庫本は今、カバンのなかにある。
「……なぁ、お前、若林望って子、知ってるか?」
一気に話したいのだが、恐怖から躊躇ってしまう。その間も、スマホ越しに沈黙は続いている。
「覚えているか。スノードロップのしおり。あれさ、限定品なんだろ。それを、お前が持っていた番号のやつ…… 持っていたんだ」
声が震えそうになる。それでも、今話さなければ、一生聞けない気がして勢いに任せた。
返事をしなくていい。矛盾しているのは分かっているのに、願ってしまう思いがあった。
「……やっぱり、見つけちゃったんだ……」
驚愕から伏せていた顔を上げた。聞き慣れた声であっても、見当違いの声がスマホ越しに聞こえてしまい。
「……若林?」
ずっと、由紀と話しているとも思っていた学は困惑を隠せない。
「……だから、探さなくてもいいって、言ったのに……」
若林は途切れそうな弱々しい声をもらす。学はそれを聞いても何も答えられない。
「どういうことなんだよ。なんで、由紀のしおりをお前が……」
これが精一杯であり、これ以上言葉を繋げられない。
「……ゴメン。ゴメンね…… ガク」
二つあるもののうち、どちらかを選ばなければいけない境遇に陥ったとき、究極の決断をしなければいけないということ。でも、どちらも大切なものであり、どちらも見捨てるなんてできないのを理解していれば、辛さしか残らないですね。やっぱり……。




