弐 ーー 遠い日の姿 ーー (5)
当たり前のこと、大丈夫だと思っているもの。いつもの習慣だったりと、何気ないことを奪われてしまったら……。逆に、ないことが当たり前だと痛感させられるこたが起きてしまったら。そのとき、どんな気持ちになるんだろう。
5
何度目の呼び出しになったのかは分からない。何度も繰り返してしまう。
「……おかけになった電話番号は現在……ーー」
耳元で流暢に流れる女の声のアナウンス。若林のスマホに何度もかけているのだが、結果は同じで、繋がったことに安堵する暇もなく、すぐに学を絶望へと突き落とす声が響いた。
家に着くまでの間、家に帰り、着替えをすましてベッドの上で胡座を掻いて天井を見上げながらも、学の眼差しは虚ろだった。
ーー まさか、あいつが渡瀬由紀なんじゃないかって、考えてないだろうな。
以前、渡瀬由紀について執拗に圭介に聞いていたとき、彼が冗談交じりで話していた台詞が急に脳裏を巡った。
当時は完全に受け流せたのに、今になっては学を混乱させる言葉でしかなく、邪魔で仕方がなかった。
あり得るはずがない。
理性では自分を抑制しているのに、頭には若林の笑窪を浮かべた笑顔、そして、由紀の痛々しく目を細める姿が交錯していた。
淡い光を灯す蛍光灯をじっと眺めていると、目が霞んで余計に頭痛の苦しみを増してしまった。
蛍光灯の眩しさに頬を歪め、額を腕で覆った。
もう一度、かけてみるべきなんだろうか? ーー
額に当てた右手にはスマホが握られている。きっと、また同じ反応があるだけだと自嘲していたとき、手にしていたスマホが鳴った。
突然、震えて鳴ったスマホに驚愕して体を飛び起こさせた。
目尻の辺りをさすりながら、気持ちを鎮めた。スマホはすでに鳴り終えていた。着信音からメールらしい。
「……圭介か?」
一番に思い当たる人物の顔を思い浮かべながら、操作してみると、不意に学の手が止まり、首を傾げる。
身に覚えのない相手からに眉をひそめる。
「……ゴメン?」
途方に暮れていると、送信者の名前を見て、驚愕してしまう。
ーー 由紀。
「ーー嘘」
そこには、由紀と記されていた。
喉の奥が急激に詰まってしまう。それでも突然現れた渡瀬由紀の名前に驚愕して面喰らってしまう。
凝視してしまい、息をするのにも忘れてしまう。
息苦しさに耐えられず、口から息を吐き出したとき、ようやく瞬きをした。
「……由紀? なんで?」
目線を泳がせながら、状況を巡る。由紀のアドレスなどない。けれど、彼女の名前が記されている。
それは、やはり登録しているとのこと。
誰かのイタズラ? ーー
「いや、違うっ」
一瞬浮かんだ可能性を学は強く否定する。これまで彼女の存在を示すものは学校にはなかった。
「じゃぁ、なんで今?」
異変を抱いた日の前日まで彼女はいたのに、由紀の話題が出ることがなかった。圭介に至っては、学から聞いている。それでいて彼女の存在を否定されたのだから。
残るのは、やはり本人のみ。
口元を手で押さえて状況を整理していく。
なぜ、これまで確認しなかったのか。なぜ、気づかなかったのか。
襲いくる疑念を抑えながら、アドレスを調べてみる。すると、学のスマホに、渡瀬由紀のアドレスがあった。
「……なんで?」
戸惑い、恐怖が胸を掴もうとするなか、呼び出してみる。
彼女が現実の人物だと示す番号。短い沈黙を挟み、呼び出し音が耳元で鳴る。聞き慣れているはずの呼び出し音が今はとても苛立つ雑音に聞こえ、とても長く感じられた。
呼び出し音が止まり、繋がった瞬間、心が少なからず躍った。
「おかけになった電話番号は……ーー」
垣間見た希望は、公共の淡々としたアナウンスによって打ち砕かれる。さっきまでの若林と同じ展開に絶望し、目蓋を閉じた。
流れるナレーションを、奥歯を噛み締めながら途中で切ると、無言のまま違う動作に移る。
動作を終えると、学は大きくため息をこぼす。
ーー どこにいるんだ? 体は大丈夫なのか? お願いだから連絡がほしい ーー
打ち終えた文章を鋭く眺め、唇を一舐めする。
通話は繋がらなかった。まだこれなら繋がるかも、と可能性を望んだ。
何かの反応を見せてくれたならば、と。これは半ば賭けでしかなかったが、学は賭けるしかない。
届いてほしい。
スマホを強く握り、願いながら送信する。
これまで緊張で強張っていた学の表情が一気に解かれた。送信されるのは、確実に由紀が存在しているのを認めているのだから。
「……頼む。返事をしてくれ」
それでも完全に安心したわけではなく、スマホを両手で握り、額に当てて懇願する形で声に出して願った。
長い間、連絡を取れていなかった人に連絡を入れるときって、ちょっと勇気がいる気がします。相手が忘れていたら、とか、大丈夫かな、と。でも、連絡を入れるのは、それだけの理由があるので、怖がってなんか言ってられないですよね。うん。




