弐 ーー 遠い日の姿 ーー (4)
無垢な善意が、誰かを傷つけてしまうことはあるんでしょうか? もしかすれば、相手にとって、それは“おせっかい”だと否定されることも。それでも、相手のことを思い、体が動く。そういうことってあると思います。
4
一方的に拒絶され、勝手な親切心は悪いと自嘲するなかで、ふつふつと好奇心が芽生えているのを学は抑えられずにいた。
まぁ、見つかればそれでいいんだし ーー
悩んでいる自分を納得させ、静かに息を吐いた。
美術室に辿り着くと、部員でなければ扉をノックしなければいけないのか悩んでいたが、運よく美術室の扉は解放されていた。
おそらく換気のためであろう。扉付近で立ち止まると、油絵の具の鼻を突く独特な臭いが鼻孔を刺激される。
なかを覗いてみると、何人もの部員が各々自分のスペースを作り、イーゼルに抱えたキャンバスに向かい、真剣な眼差しを注いでいた。
教室の机は隅に寄せられ、中央が開けられていた。元々、普通の教室二部屋分を一つとして使っているので、みんな余裕でスペースを作っていた。
奥の窓際にある棚の上には、石膏でできた白い胸像がいくつか並んでおり、部員を観察していた。
ほとんどの部員が制服のカッターシャツの袖を肘までめくり、エプロン姿でいた。なかには見ているだけで異質な空気を漂わせている部員がいたが、その人たちはみんな三年生だった。
モデルとなりそうな物体は教室のどこにもなかった。視線を動かしていると、風景画、肖像画、様々で、みんな自分なりに筆を動かしていた。
教室を見渡す一方で、生徒が描いている絵に意識を移すと、自分ではどうあがいても描くことのできない絵がキャンバスに浮かび上がり、度肝を抜かれる。
「ーー何か用?」
手前にいた生徒の絵に目を奪われていると、女の声に呼び止められ、学はドキッとして背筋を伸ばしてしまう。
部員の邪魔にならないように回り込みながら声をかけてきたのは、美術の顧問をしている教師、飯田であった。
細い体に背が高く、細い目も吊り上がり、キツネみたいで冷たい印象を与えていたが、生徒と真剣に向き合ってくれると評判で、特に女子からは受けがよかった。
普段から絵を描くのに邪魔にならないようにと、淡い栗色をした長い髪をポニーテールに束ね、上着として白衣を着ているのが特徴で、白衣は医師を彷彿とさせる真っ白ではなく、飛び散った絵の具が色鮮やかなモザイク模様となっていた。
美術の担当だけでなく、部活の顧問もしているようだ。
普段は温厚で、目が鋭くても威圧感はなかったのだが、部員の邪魔をしているように見えてしまったのか、目尻を吊り上げて注意してきた声には威厳があった。
「……っと、高原くん?」
気迫に臆してしまって肩をすぼめると、学に気づいたのか、目から鋭さがなくなり、驚きながらも穏やかな細目になった。
「どうしたの? 見学?」
無論、飯田も学の画力を知っている。「見学?」と聞きながらも、それが社交辞令であるのは学も痛感してしまう。
残念ながらそのようなレベルはない、と内心嘲笑し、照れ臭く「いえ」と右手を振った。
「ーーあれ? 高原じゃん。なんで、お前がここにいるんだよ。まさか、お前が入部ってことはないだろ」
飯田に説明しようとすると、奥から誰かが声をかけた。飯田の体越しに首を伸ばすと、クラスメートの加賀が自分のイーゼルの前で振り返りこちらを見た。
加賀は陽気な奴なのだが、ずけずけと容赦なく物言いする奴である。悪気はないので憎めないのだが。今も学の画力を容赦なくさらけ出してしまう。
恥ずかしさでうつむきたくなるのを堪え、「よっ」と手を上げて会釈した。
そのまま手を首筋に回し、うなじの辺りをさすりながら、飯田に事情を説明しようとすると、後ろから真っ赤なエプロンをした加賀がこちらに歩いてくるのが見えた。
この際、加賀にも聞いてみよう。
「えっと、探している物があって。美術室に忘れてるかなって思って」
飯田が普段との印象が違うためか、やけに緊張して声が上擦ってしまいそうになる。
「探してるって言っても、別に変わった物とか、忘れ物とかってあったかな」
話を聞いて、飯田は首を伸ばして教室を見渡した。
「探してるって、なんなんだよ?」
「本なんだ」
「ーー本?」
「本って言われてもねぇ…… どんなやつ?」
「あ、文庫本なんですけど」
もっと詳しく言えばいいのだが言えない。見た目はほかの文庫本と大差ないのだから。
「なぁ、それって、もしかして若林が読んでいたやつか?」
「ーーえっ?」
飯田に上手く説明できずにいると、加賀が唐突に言い、学は目を丸くする。
確かに若林の本を探しているのだが、彼女の名前は一度も話していない。
「ちょっと待ってな。確か、あっちに仕舞っておいたんだけど……」
加賀は手の平を見せて制し、教室の奥にあるロッカーへと小走りに去ってしまう。
「あの、若林って、本当に美術部に入っていないんですか?」
残された学はふと聞いてみた。
「あの子、結構実力があるから、何度も誘っているんだけど。部に入るまで上手くないって謙遜しちゃって。ただの趣味だって」
首を傾げて悔しがる姿に、若林の実力は相当なものだと知れた。
う~ん、と唸る飯田に、思えば若林が絵を描いているのを見ていても、どんな絵を描いているのかは見ていなかった。
彼女の絵に興味を巡らせていると、遠くから手に文庫本を持った加賀がこちらに駆け寄ってきた。
「ほら、これだろ?」
手渡された文庫本を受け取り、一ページめくってみると、圭介が見ていた文庫本と同じタイトルと作家名が書かれた扉が現れた。
「お前、若林と仲いいのか?」
どうも、彼女と一緒にいるのが珍しいのか、茶化そうとしているのか、嬉しそうに聞く加賀に、あまり触れたくないのですっと流した。
「どうして、あいつの本がここにあるの?」
「それは俺も知らないよ。今朝、ちょっと用事があって、俺ここに来たんだ。そしたら、机の上にあったんだよ。ま、昨日、何人かと喋っていたから、そのときに机の上に置き忘れたんだろう。珍しいよな。あいつがそんなことするのって」
「でも、よくあいつのだって知ってたな」
「あぁ。それはそのしおりだよ。この前、珍しいしおりだなって見たことがあったから」
「ーーしおり?」
文庫本を指差す加賀に促され、学はペラペラとめくってみると、しおりが挟まれているページで止まる。
「なんだっけ。確か、どこかのメーカーの記念品とかで、確か名前がーー」
「ーースノードロップ……」
腕を組んで考え込む加賀をよそに、文庫本を開いた学がそっと呟いた。
「ーーあぁ、そうそう。やっぱ、知っていたんだ、お前も」
加賀の一言がまったく聞こえそうにないほど、学は時間が止まってしまいそうになる。
眼前に現れたしおりは、記憶のなかで由紀から見せられていたしおりとまったく同じしおりが現れたのだ。
金色のスノードロップの形をしたしおり。自然と声がもれる。
あれは懸賞だって言っていた。きっと、偶然だよな。若林も当たったんだ ーー
変な憶測をしてしまう自分に嘲笑して宥めると、ふとしおりを手に取ってしまう。
止めておけ、と制止する気持ちが心の隅に潜んでいた。けれど、学の手は勝手に動いていた。
シリアルナンバーが彫られていたな。確か…… ーー
違う番号が彫られて……。
「……27……」
それまで平静を保っていた胸の鼓動が一気に爆発しそうになり、学は思わず奥歯を噛み締め、唇を閉じた。
襲いくる動揺に気が狂いそうになる。目は見開き、じっとしおりを睨んでしまい、動こうとしない。
遠くに消えていく華奢な人影。腕を掴もうと手を伸ばしても、遠ざかる背中に深い霧が立ち込め、学の行く手を遮ってしまう。
消えていく背中が誰であるのかは、理解していた。
最近、渡瀬由紀の存在が薄れていくことに学は違和感を抱くことが少なくなっていた。だがこの瞬間、消えかけていた姿がまた鮮明に浮き彫りになっていく。
完全に忘れてはいなかった。
シリアルナンバーを見た瞬間、やはり渡瀬由紀が夢ではなく、現実の人物だという安堵感に覆いかぶさり広がる不信感。
文庫本を握る手から力が抜けていき、床に落としそうになるのを必死に堪えたが、うつむいたまま顔を上げられなかった。
平静を保つ自信がなかった。今、自分の顔を加賀に見られると、なんて言われるか分からない。
茶化されても、受け流すこともできなければ、真剣になって怒ることもない。
きっと、呆然としてしまうしかなかった。
「探していた物ってそれでいいの?」
黙ってしまう学を怪訝に思い、飯田が確認する。学は「あ、はい」とできりりだけ平静を保って返事をするが、まだ顔は上げられない。
「しっかし、よくそんな本、読めるよな。俺だったら、一ページももたないで閉じてしまうよ」
呑気に言う加賀に返事すらできない。普段なら、「同感」とふざけられるのだに、今は声も届いていない。
「ってか、なんで加賀くんがいるの? ほら、進んでいるの? 早く戻りなさい」
用事を終えても佇み、話し続けようとする加賀を諭し、自分の場所に帰るように飯田は忙しなく促した。
はい、はい、と唇を尖らせふてくされる加賀。飯田に肩を掴まれて無理矢理に体を反転させられ、背中をポンッと叩いた。
じゃぁな、と学に声をかけて、ピョン、ピョンと跳ねるようにして自分の場所へと加賀は戻っていく。
じゃぁ、とようやく顔を上げて返事する学だが、その表情はまだ虚ろだった。
「あ、あの、すいません。邪魔しちゃって」
「別に。探しているのが見つかってよかったわね」
本当は、そそくさと逃げ出したかったのだが、飯田に頭を下げると、しおりを元のページに戻して本を閉じ、学は美術室をあとにした。
まだ動悸は治まらない。
美術室を出てしばらく廊下をゆらゆらと倒れそうになりながらも歩き、不意に立ち止まると、手にした文庫本をあらためて眺めた。
渡瀬由紀が読んでいた小説。同じ文庫本などいくらでもある。それでも納得できない最大の理由があった。
しおりに刻まれていた番号は“27”。由紀が見せていたのも同じ番号。記念品であっても、同じ物は一つしかないはずだった。
それを若林が持っていた。由紀が持っていたはずの物を。
「……なんなんだよ、これ?」
誰もいない廊下。学の声が空しく木霊した。
探していた物が見つかったとき、それはやっぱり嬉しいものです。それが大切にしていた物だとしたら、その嬉しさは計りきれません。だって、その嬉しさに包まれたいからこそ、探してしまうのかもしれないから。でも、見つかったときに包まれるのは、嬉しさではなく、驚きの場合もあるのかもしれませんね。




