弐 ーー 遠い日の姿 ーー (3)
夢で有名人などが出てきたり、その人と知り合いだったりすることってありませんか? それは憧れからなど、いろいろ言われますけど、ちょっと嬉しいですよね。でもその反面、まったく知らない人が出てくることもありませんか? それは幻なのか、妄想なのか、ちょっと気になることってありませんか?
3
結局、暗闇で聞こえた女の子の正体を思い出せないまま時間はすぎていた。
誰だったんだ? ーー
答えに迷う問いかけが宙を待っているだけ。
誰かに聞こうにも、自分自身が明確に思い出せないために逡巡してしまい、ずっと口を噤んだままになっていた。
何か気を紛らわしたくても、今日は圭介も別の友達との輪に入っており、いつもみたいに前の席に陣取ることはなかった。
学も誰かのところに行こうかとしたが、胸の詰まりが邪魔してしまい、腰が上がらず、休み時間は机に突っ伏していたり、スマホのアプリをいじって時間を潰していた。
眠気はすっきりと取れてはいない。目をつぶれば、考え込んでしまい、実際はあまり眠れていなかったので。
口元に手を当ててあくびを我慢していると、ふと若林が教室にいないと気づいたのは朝のHRが始まる直前であった。
彼女の机の上には無造作にカバンが置かれて欠席ではない。それでも彼女は椅子に座ってもいなければ、席を立って友達と喋っている姿もなく、教室にいなかった。
どこにいったんだろうと考えていると、チャイムが鳴り、しばらくして若林は教室に現れた。
どこか浮かない顔をしているように見えた。
そこから、奇妙に見えだしたのは、次の休み時間になってだった。
一時間目から苦手な英語が待ち構えており、チャイムが鳴ってようやく重圧から解放されて肩の荷を下ろし、教室が賑わいだそうとしていたとき、ふと見ると、若林はまた姿を消していた。
授業の間は確実に教室にいたのに。
どうやら、休み時間になると姿を消しては、授業が始まると姿を現す、を繰り返していた。
時間がすぎるたびに、若林の表情は強張り、切羽詰まっているように見えてしまった。
ちょっと喋りかけようとしてみたが、そのときにはすでに姿を消していたために、気づけば放課後になっていた。
しかし、放課後になると、すでに若林は忽然と姿を消していた。教室を見渡しても、カバンを片手に喋っているいくつかの輪に若林の姿はなかった。
窓越しに外を眺める。
学はカバンを手にすると、そそくさと教室をあとにした。
一目散に階段を駆け上り、屋上に繋がる扉を勢いよく開いた。走っていたせいで、火照っていた頬に風が当たると、生暖かい風でも気持ちよく感じた。
勢いに任せたまま、屋上の中心部まで走り、ようやく足を止めた。
無意識に額を拭ってしまう。額には薄らと汗が滲み、学は肩を揺らしていた。
口から激しく息を吐きながら周りを見渡す。
四方を囲む鉄柵を追いながら、景色が流れていく。最後に薬品会社のある方角で止まったとき、学の眼差しはより険しくなった。
若林までいなくなるのかっ ーー
不意に焦燥感に襲われる。
なぜ、こんな迷いが生じたか上手く説明できないが、屋上に若林はおらず、学一人が立ち尽くしていると、急に世界の端に置き去りにされた寂しさが強まっていた。
当てが外れてしまい、眉をひそめながら頭を掻いた。
「何、焦ってるんだよ」
屋上に誰もいないのを確認して、焦っていた自分を嘲笑すると、スマホを取り出した。
アドレスを開く動作のなか、横目でビルを見た。嫌っているビルを眺めて、嫌悪感を沸き立たせることで、焦りを鎮めたのは皮肉でしかなく、学は頬を歪める。
若林の番号は、ここですごしていた数日のうちに交換していた。若林から聞かれたのだが、彼女からでなければ、知ることはなかっただろう。
学から聞く勇気はなかったから。
呼び出し音が耳のそばで鳴っている間に鉄柵まで進むと、鉄柵に凭れて空を見上げた。ここから見る夕焼けは好きだったが、今日は生憎のの曇り空で、重たい雲が空を泳いでいた。
「……もしもし、高原くん?」
繋がった瞬間に、若林と電話で話すのは初めてだったと気づき、急に緊張さそて声が詰まってしまう。
「どうしたの? 珍しいね」
学の緊張とは対照的に、若林の声は弾んでいた。
屈託なく笑った顔がよぎると、何をこんなに焦っていたのか、と自分が情けなく、表情は曇ってしまう。
「今、屋上にいるんだけど、どこにいるの?」
「あ、ゴメン。もう学校出たんだ」
居場所を聞くと、予想外の返事に耳を疑い、顔を上げる。
「どうしたの? 何かあった? なんか、休み時間になったら、いなかったみたいだから」
朝からの様子を聞いてみると、若林はしばらく黙ってしまった。
「実は、ちょっと、探している物があって」
「ーー探している? 何か落としたの?」
「落とすような小さくはないから、どこかに置き忘れているんだと思うんだけどね」
「なんなの?」
「文庫本。この間、進藤くんが今、読んでるって言っていたやつ。あれと同じやつなの。ほら、前に話したことがあったでしょ」
あぁ、と頷きながら、圭介から見せてもらった文庫本を思い出した。確かに落として気づかないほどの小さな物ではなかった。
「それで、私が行ったことのある場所を朝から探していたの」
だから、休み時間になると姿を消していたらしい。
「思い当たるところは探したの?」
「うん。大体はね。教室とか、美術室とか、そこの屋上も探したんだけど、やっぱりなくて。それで、今度は家に置き忘れてるのかなって……」
初めは弾んでいた口調も、今は切羽詰まっているのか、どこか早口になっていた。
話を聞いて、学なりに本を忘れてしまいそうな箇所を考えてみた。顎をさすりながら、思い当たる場所を駆け巡る。
脳内の視界が校門から校舎へと進んでいく。誰もいない校舎を走るなか、耳元では、視線のランナーを解説するように、若林は自分が探した場所を口にしていく。
一階を走り終え、二階へ上ろうとするころには、若林は諦め、「どこなんだろう?」と呪文のようにブツブツと呟いていた。
半ば野次になっている若林の独り言を聞き流し、学は校舎を駆け巡るのを続ける。
頭をさすっていた左手が止まったとき、ランナーは屋上の扉を勢いよく開き、閑散とした屋上に迎え入れられた。誰もいないゴールに到着したのである。
探している間に本の隠れていそうな場所はなかった。
「なぁ、それで誰かに聞いたの?」
一拍置いてから聞いてみた。すると、若林から間の抜けた声で「ーーえっ?」と吐くだけで終わってしまう。
しばらく若林は体を硬直させたみたいに黙ってしまう。何か間違ったことを聞いてしまったのかと、学は首を傾げてしまう。
「だって、どこを探してもないんだろ? じゃぁ、誰かに聞いたら早いじゃん。もしかしたら、お前がどこかに置いているのを見てるかもしれないんだし」
説明不足かと、つけ加えると、「あぁ~、そっか」とまた拍子の抜けた声で返事されてしまう。
「……聞いてない。ってか、そこまで頭、回らなかった」
ハハッ、と情けない笑い声添えながら、若林は言う。
なんで聞かないんだよ、と毒づきたいのを堪え、頭を支えて目蓋を閉じた。
目蓋の奥では、照れ臭そうに、それでいて気に留めない笑顔を浮かべる若林の姿が浮かんだ。
情けないと思いつつ、それだけ、大事な本であり、切羽詰まっているのだろう、と受け入れるしかなかった。
「そっか。誰かに聞けばよかったんだ。でも、もう帰っちゃったしなぁ」
「なぁ、若林が学校でよく立ち寄るところってどこ?」
素早い行動が仇となり、嘆く若林に尋ねる。
「ーーん? それはやっぱり、教室と美術室かな。最近では屋上もそうだけど。ほかは、授業で行くぐらいしか」
長い間を空けずに返事をしたのは、彼女がすでにその場所を探し終えているからであろう。
「でも、なんで?」
「いや、まだ僕、学校にいるから、ついでに一回りして帰ってもいいなって思って」
言いながら、学の背中は鉄柵から離れ、入口に進もうとしていた。
「別にいいよ。わざわざ」
申し訳なさげに若林は声を曇らせる。
「いいよ、そんなの。ちょっと見て回るだけだし。美術室なら今の時間、美術部の人らがいるだろうし、ついでに聞いてみるよ。それにほら、本人とは別の人が探した方が見つかるかもしれないし」
すでに美術室に向かおうとしている学は、なぜか不思議と自信があって声が弾んでしまう。
「いいっ。探さないでっ」
耳元で、これまでに聞いたことのない若林の叫び声が響き、咄嗟に学の足は止まってしまう。
つい、スマホを耳から離し、困惑から目が泳いでしまう。ややあって、我を取り戻しと意識をスマホに戻す。
スマホからはもう通話を切ってしまったのかと疑うほど、静かになっていた。「若林?」と声を出そうとしていると、
「……ゴメン」
弱々しく、今にも崩れてしまいそうな若林の微かな声が届いた。さっきとはまったく違う、覇気のなさにまた、学は声を失う。
「ゴメン。やっぱりいいよ。わざわざ。忘れてしまった私が悪いんだから。明日、もう一回、ちゃんと探すし。そのときはちゃんと誰かに聞いてみるからさ。だから、別に探さなくていいよ」
「……そう、なの?」
ようやく出た一言に、若林は「うん」と子供みたいに無邪気に答え、
「ほんとにゴメンね」
と言い残して、半ば強引に通話を切ってしまった。
先ほどの叫び声に圧倒されて、学はどう声をかけるべきか言葉が浮かばず、胸の奥にしこりを残してしまいそうな切り方に、小さな気持ち悪さがあった。
入口付近で立ち竦み、通話の切れたスマホを力なく眺めた。
どこか、探しに行くのを拒んでいる。
胸に残った違和感が導き出した答えである。
最初は心配して声を震わせていたのに、学が探そうと言った瞬間、口調が変わったのは、鮮明に耳に残っている。
探されたくないの? ーー
若林に体する疑念を投げかけながらも、学はスマホを戻した。
一度、大切なものを失ってしまうと、同じような境遇にまた鳴ってしまった場合、もの凄い不安になりませんか? それは心が拒もうと抵抗しようとしているのかもしれません。苦しいですよね、そんな状況になってしまうと……。




