壱 ーー 遠のく影 ーー (1)
昨日の夕食、何を食べたのかを思い出せないときがありませんか? でも、それも時間が経てば思い出したり、気にならないことの方が多いかもしれません。
でも、忘れたくないことを忘れていたらどうでしょうか?
例え、自分は覚えていたとしても、周りの人は何も覚えていない。
周りが知らなくても、自分は知っていることがある。それはある意味、不安に駆られてしまうかもしれません。
周りに合わせて、知らないふりをするのか、それとも自分を信じるのか。どちらが楽だと思いますか?
壱
1
熱っぽさを微かに額に残しながら、高原学は学校の廊下をゆっくりと歩いていた。
もうすぐチャイムが鳴り、朝のHRが始まろうとするなか、学の足取りが重たいのは、風邪で休んでいた翌日でまだ本調子でないのか、それともこれから始まる一日が面倒なのかは区別が難しい。
ただ分かっているのは、開かれた窓から入り込む風が朝にも関わらず生暖かく、九月になってもまだ残暑が続いているのを痛感させられ、頬は引きつりそうになる。
二年三組。
すでに登校していた生徒の話し声を掻き分け、学は自分の教室に入っていく。
学に気づくクラスメイトに「おはよう」と軽くあいさつを交わしながら、グランドを見渡せる窓際の自分の席に進み、カバンを置いた。
教室ではすでに、何組かのグループに分かれて賑わっていた。ふと学は教室を見渡してから、椅子に座った。
机の横のフックにカバンをかけながら、不意に首を傾げてしまう。
首を傾げた意味を探す前に、あくびが出てしまった。だらしなく大口を開きながら伸びをしてしまう。
そのまま机に突っ伏して、HRが始まるまで眠ろうかとしていると、タイミングよくチャイムが鳴った。
一瞬、教室の賑わいが制止するが、すぐさま何事もなかったみたいな空気が流れ、誰もがチャイムを聞き流して話を再開していく。
学もやはり机に突っ伏していると、
「よっ。昨日はサボり? それとも、バイトか何かか?」
前の席に着いた生徒が、茶化すように声を弾ませて聞いてきた。
声から学の友達、進藤圭介であると直感する。
顔を上げると同時にあくびがまた出てしまう。あくびで出た涙を拭いながら、学は苦笑いを浮かべる。
「バ~カ。本気で風邪だったんだよ」
まぁ、夜はカメラをいじっていたけど…… ーー
風邪で休んでいたのだが、昨日の夜は体調も回復して、趣味に没頭していたとはさすがに言えない。
椅子に凭れ、手を振りながらごまかしておいた。
ただ、学の嘘を見透かしたみたいに、圭介は学の机に頬杖を突き、不敵に笑ってみせた。嘘に気づいたみたいだが、あえて指摘はしなかった。
圭介とは高校に入り、最初に仲がよくなった友人である。髪は短く、どことなく幼さの残る童顔で、子供みたいな行動をする明るい奴であり、一年半も経てば、学校で一番気の許せる相手であった。
「まだ、ちょっと頭も痛いんだよ」
実際そうであり、眉をひそめて、こめかみを右手の人差し指で突いてみせた。すると、圭介は唇をタコみたいに尖らせて頷いた。
「なんだよ」
茶化されるのを踏んで、先には突っ込む学に、圭介は学の反応を楽しむように目を細め、「はい、はい」と軽くあしらわれてしまった。
小馬鹿にされた気になり、顔を背けて外の空を眺めた。光に反射した窓に、微かに映る教室を眺めていると、また頭に引っかかるものがあった。
「あ、そうだ。なんかちょっとーー」
振り返り、頬杖を突いていた圭介に聞こうとしたのと同時に、教室の入り口がギィィと音を立てて開いた。
「ほら、もうチャイム鳴ってるぞ。自分の教室に戻れっ」
担任の米倉が入ってくると、友達と話に来ていた隣のクラスの生徒を注意しながら、黒板の前の教卓に進む。
注意された生徒、席を立っていた生徒が米倉の低い声にはやし立てられ、各々自分の教室、席へと戻っていく。圭介もそのなかに含まれ、教卓の目の前という特等席へと戻っていく。心なしか背中を丸くして。
そんな圭介を眺めて頬が緩んでしまう学であったが、すぐに頬が強張っていく。
ざわめきがまだ残るなか、委員長の「起立」との号令も重なったこともあるが、話を中断されてしまい。
「え~っと。今日の休みは前田に若林だな」
点呼を終え、出席簿にチェックを入れながら独り言をぼやく米倉の声に、学はふと顔を上げ、教室をまた見渡してしまう。
米倉を気にせず、隣の生徒と話す生徒や、うなだれる者。机に隠れてスマホを操作する者、様々だっが、欠席者の二つの空席以外はみな席が埋まった日常の光景。
別に変わったところなんて一つもなかった。
それを分かっているのに、意味もなく教室全体を見渡してしまう。
* * *
紅い夕焼けの色が空を覆う午後。長い一日をようやく終えた開放感に浸りながらも、朝から治まってくれないあくびを我慢できず、大きく口を開きながら、学は歩道を歩いていた。
自然と足取りは速くなる。
空を見上げると、夕焼けにグラデーションみたいに薄い雲が広がる様子をカメラに収めたい衝動に駆られ、ふと足を止めた。
ゆっくりと流れる雲を追いかけて視線を動かしていたが、ふと顔を前に戻し、思い立ったみたいに足早にその場を立ち去ろうとする。
まるで何かから逃げるみたいに足取りはさらに速くなる。
「ちょっと、何急いで帰ってんのよっ」
すると突然、学の背中に声が投げかけられる。叱咤にも似た口調の甲高い声に、うんざりして唸りながら足を止め、振り返る。
げんなりとした先に現れたのは、一人の女の子だった。
「まったく、なんでそんなに急ぐのよ」
「分かってるだろ。僕はあのビルが嫌いなんだ。だから、見えなくなる場所まで急いでるの」
嘆くように呟き、また空を眺めるが、ある物体を捉えるとすぐに眉をひそめてしまう。
都会と田舎。
学の住む街をどちらに振り分けるとするならば、どうしても中途半端な位置に存在してしまう。
都会ほどもビルや高層マンションがあるわけでもなく、対して田畑が視界に一杯に広がって、川のせせらぎが聞こえたり、イノシシやシカが不意に道路に飛び出してくるとした、田舎でもない。
本当に中間に位置する街であった。密集した住宅に公園といった緑が隣接して上手く共存している街と学は考えていた。
学はそんな中途半端であっても好きな街であったが、そこに異物みたいに突然現れたのが、学の睨む大きなビルであった。
整然とした街並みに、そのビルはまさに地面に突き刺さった棒にしか見えなかった。何十階かも分からないビルの周りは、異質な建物が囲うように並んでいた。
ビルはある有名な薬品会社の建物であり、十数年前にこの街に移転して建てられていた。
沈みゆく夕日を眺めるようなビルは、存在感を悠然とはびこらしているようで、学は胸の奥を掻き毟られる嫌悪感に苛まれてしまい、気分は晴れなかった。
さらに、この地帯を建築する際、隣接する大きな公園を切り取った事実が、より嫌だったのだ。
「仕方ないじゃない。もう、あのビルがこの街の象徴にもなってしまっているんだから」
「だから、嫌なの。だから、見えるところは速く歩くんだよ」
「ったく。子供みたい」
子供と指摘されて口を尖らせた。
「だから子供なのよ。それより公園行かない?」
「公園って、あそこ? う~ん。嫌」
街で有名な公園とはビルに隣接する公園しかなかった。学はかぶりを振ると、また足早に地面を蹴った。
「ちょっ、待ってって。そんなに嫌がらなくてもいいじゃん。ちょっ…… ゲホッ……」
背中で勢いよく叫んでいた声が急に咳き込み、しばらく続いていた。ハッとして学が振り返ると、目を見開いてしまう。
さっきまで悠然としていた体をしゃがみ込ませ、胸を押さえながら、背中を丸めてうずくまっていた。
乾いた空気を切り裂くように、咳が激しさを増していく。
「ちょっ、お前、大丈夫かよっ。また喘息がっ」
叫びながら、丸まる背中に駆け寄り、背中をさするが、焦りは強まってしまう。
「無理するなって。病院に行くか?」
「……だい…… じょうぶ。うん、大丈夫だから」
「けどさ……」
胸を押さえ、肩を上下に揺らす姿は見るからに辛そうで、学は口を噤んでしまう。
「これぐらいだったら、すぐに治まるから。それに……」
「ーーそれに?」
「……負けたくないの。こんなことで、誰かに甘えてしまう自分に。弱い自分に負けてしまうのが嫌なの…… だから、ね?」
「……何が、“ね?”だよ……」
辛いのを堪え、痛々しい笑顔を浮かべる姿に学は困惑して、これ以上は何も言えず、ため息をこぼした。
「……由紀」
* * *
確かに名前を言った気がした。だが、散り散りになった意識が戻ったとき、学は戸惑いを抱いてしまう。
違和感は学校に着いても拭いきれず、朝のHR、米倉の点呼を上の空で聞いていた。
点呼を終え、いつもみたいに独り言を呟く米倉に不意に学は反応して、頬杖を突いていた顔を上げ、キョトンとしてしまう。
あれ? 今呼ばれたっけ……? ーー
米倉の話を尻目に、学は脳裏を駆け巡らせる。
渡瀬…… 由紀…… ーー
不意に脳裏の片隅に浮かんだ名前。霧で隠れた記憶が浮かばせてくる。
つい数時間前に見ていた、会っていた女の子の名前であるのを瞬時に理解した。
それは夢での出来事。
確かに彼女の名前を発した。しかし、名前を口にした瞬間、目の前は自分の部屋の天井。
白い壁紙の天井が広がっていた。
戸惑いながら辺りを見ても、間違いなく自分の部屋。自分のベッドの上に横になっていた。そばにあった時計を見ると、針は午前七時を回ったところ。
彼女は喘息から咳をして、その背中をさすって気を紛らわそうとした。時間も朝ではなかった。
夕焼けが広がっていた。嫌いなビルを目の前にしていたので間違いはない、と確信を抱いていた。なのに、彼女の名前を放った瞬間、場所が部屋にすり替わっていた。
夢、だったのか……? ーー
自然な流れの結論を出すしかなかった。それでも学は納得できずに、学は今まで時間をすごしていた。
それは夢にしてはあまりに鮮明に記憶に残っていたから。まるで、本当の記憶を思い出したみたいに。
彼女の笑顔、声、辛そうな咳を。
何より、一番奇妙なのは、「渡瀬由紀」そもそも、このような名前を学は知らなかった。
夢なんだと考える一方で、ずっと違和感を拭えないのも事実であり、それが米倉の点呼が終わったとき、より強くなってしまった。それが二日も続いていたのだから。
教室を見渡しても、制服を着た彼女の姿はない。当たり前なのに、無意識に捜してしまう自分がいた。
ただの勘違いなら、さほど気にすることはないのかもしれません。それでも気になってしまうことは、その者にとって、大切なものや、大きな存在だからこそ、忘れたくないと心が訴えるから、認めたくないこともあると思います。だからこそ、不安や恐怖を抱いてしまうのかもしれません。今回の作品において、高原学はそんな気持ちを抱いています。今後もよろしくお願いします。