邪術②
ヤフヤーを呼び寄せた王が始めたのは……まさに邪術。これを黙って見逃せるアルゲティと宋ではなかった。
王がヤフヤーの肩を叩いて歓迎し、座らせるとヤフヤーの額に呪符を貼った。黄色い紙に朱の墨で書いてある。遠目からでは「勅」しか読み取れない。王が朗々と呪文を唱えると、これまで気付かなかった地面に並べられている幾つもの髑髏が燐光を放つ。虚ろな眼窩からぼんやりとした輝きが伸びていき、村の家々に滑り込んでいくではないか。
それからしばらくの間、王は呪文を唱え続けた。するとどうだ、村の方から年頃の女性が何人もフラフラとした足取りでやってくるではないか。二十人程もいようか。彼女達が墓地に入ると、王が手招きして並ばせた。そして指を鳴らすと女性達は一斉に服を脱ぎ捨て全裸になった。夜目にも白い裸身が並ぶ。
王は満足そうに頷くと、ヤフヤーの額から呪符を剥がし中央の髑髏に貼り付けた。ヤフヤーは王に促され、虚ろな笑みを浮かべると正面の女性に抱き着いた――時。
「何をしておるか! 目を覚ませヤフヤー!」
「な……ふ、副団長殿!? ここは……?]
「やはり操られておったか」
「やれやれ……まぁ他に機はなかったでしょうね」
「貴様等……異国の大男と宋か……邪魔をしおって!」
裸身の女性たちを見て鼻の下を伸ばしたヤフヤーだが、後ろに並ぶ髑髏を見るや慌てて歩み来るアルゲティの足に飛びついた。
「王師兄。貴方は何をしておられるのですか」
質問というより問い詰める口調。いつもの宋からは想像できない厳しい言葉が紡ぎだされた。それに対する言葉は――冷笑。
「見て分からぬか? ならば言っても分かるまいよ」
酷薄な笑みと歪んだ口元が肥大化した自我を物語っている。冷たい光を湛えた眼差しは独善的な人間特有の偏狭さにあふれていた。宋が言葉を失ったその時、アルゲティがその肩を叩き一歩前にでた。
「待てい! 待たぬか! 待てと言っておろう! 待てというのが分からぬか!」
「待っているだろう! 何を言っておるのだこの木偶の坊が!」
「おお、そうであった」
一つ咳ばらいをすると改めて王に詰問を始めた。
「そなた、我が部下に何をしておったのだ! 事と次第によってはただではおかんぞ! いや既にヤフヤーの体はこの有様だ。見よ、痩せこけ、さらばえ衰え立ち枯れて……見るも無残なこの姿! 貴様これを見ても何も思わぬか! それでも人間か!」
「副団長殿、私に堪えております……」
「おっとそれはすまぬ。とにかく王とやら! 貴様一体何をしおったのだ!」
「だから見ても分からぬならば聞いても分からぬと……」
「黙れい! 聞いた事に答えぬか!」
「答えろと言ったり黙れと言ったり! これだから異国の輩は! 」
「やかましい! さっさと聞かれた事に答えぬか!」
「貴様は話にならん!」
「うるさい! 聞かれた事に答えれば良いのだ! とっとと答えぬか!」
騒々しいやり取りの陰に隠れていた宋がやっと前に出た。
「アルゲティ殿、時間稼ぎ感謝します」
「おお、終わりましたかな。流石にお早い」
王の目つきが変わった。冷たい目が刺すような目つきに。
「いつの間に打ち合わせを?」
「必要ありません。分かるのですよ」
「信頼出来る相手を持たぬそなたには分かるまいがな」
宋が帳面に何かサラサラと書き、肌も露わな女性達の背中に貼り付けると、皆我に返り服を引っ掴むと走り去った。
「一晩寝れば記憶も消えるでしょう。しかし……こんな邪術に手を染めるとは……」
「お見事。事を知った村の衆に襲われたくはありませぬからな」
術が破られた事に動揺するかと思いきや、薄笑いを浮かべた王が厭味ったらしく――ゆっくりと拍手して宋を称えた。
「これは素晴らしい。あのヒヨッコがやるようになったものだ」
「ならばこれも褒めて頂きましょう」
地面を踏み鳴らし雷鳴訣という印を結び一喝した。すると王向賽の体が動かなくなってしまった。それでもまだ表情を崩さないのは大したものだ。
「よくぞここまで成長した。兄弟子として鼻が高いぞ」
「王師兄が励んでいれば……惜しい事です」
「それは誤解だ、世栄よ。私は日夜励んでいたのだ」
「その成果がこの邪術なのですか! 本来は繁栄をもたらす金池揺母の術を組み替えてこんな……!」
「一朝一夕に出来る事ではあるまい?」
「何を馬鹿な事を! このまま武当山に連れて行きます! 裁きを受けていただく!」
歩み寄る宋の目前で不可視の何かが弾けた。半歩後ずさった宋の目前から王の姿が消えたのはその瞬間だ。
「何処を見ている。私はここだ! ここにいるぞ!」
宋とアルゲティが後ろを振り向くと墓地の入り口に王向賽と――小柄な老人が佇んでいる。アルゲティがすぐに行動に移らなかったのは老人が纏う禍々しい気配のせいだった。
――何者だこの老人……まるで悪神の化身ではないか――
先に我を取り戻したのは宋だ。
「貴方は……一体?」
「うむ、儂の事は九星道人と呼ぶがよい」
アルゲティもようやくいつもの調子を取り戻した。
「同人とな?」
「道人じゃ戯け者が」
「それは失礼」
ゲフンゲフンとわざとらしい咳ばらいをしながら横目で様子を伺うが、どうも付け入る隙――油断する気配が見当たらない。この老人は相当な手練れのようだ。王と違いこちらの流れに引き込む事も難しいだろう。さてどうするか。考えがまとまるより早く宋が口を開いた。
「ご老……九星道人。貴方が王師兄をたぶらかしたのですね?」
「それは誤解じゃ。此奴の方から弟子にしてくれと頼み込んできたのよ」
「な……」
風の噂に九星道人の事を聞いた王が手を尽くして居所を知り、苦難の末に辿り着いたのは黄山。数多の奇岩・奇松が立ち並び、眼下に果てしなく広がる雲海が「此処こそが秘境である」と無言で主張する。そこの奥地に彼はいた。辿り着けただけでも相当なものだ――と喜んで弟子にしてくれそうなものだが、そうは問屋が卸さなかった。けんもほろろに追い返されたのだ。
それでも諦める事無く通い詰め、三顧の礼を一桁超える礼を示す事でようやく――半ば強引に弟子となったのだ。そして恵まれた才を欲望を満たす術の開発に捧げたのだ。
「何故ですか王師兄。どうしてその才を正しい事に使わないのですか!」
「お前こそ何故分からぬ。優れた者がそれに見合う扱いを受けるのが正しい世の中なのだと!」
真っ当な道士――丹鼎派の道士は特に節制を重んじるし、修行の為に禁欲が必要になる事も多い。それと引き換えに不老長生や様々な方術の行使が可能になるのだ。
ならば功を成し、術や不老長生を得たならばそれに見合う快楽を楽しむべきではないか。ただ長く生きるだけで何が良いのか。理解に苦しむ。それが王向賽の考えなのだ。
「ただ生きるだけなどと……」
「ならば言い換えよう。ただ利用されて生きるだけでなにが良いのだ」
この世を損得だけで切り分ける。実利主義と言えなくもないが、浅ましいとの誹りは免れないだろう。
ここでアルゲティがずいっと乗り出してきた。
「ふむ、要するにそなた……いい目を見たいが為に方術を学んだ。そういう事であるな?」
「それがどうした?」
嘲る王の顔に叩きつけられたのは、豪快な哄笑だった。王も宋も九星道人も呆れて言葉を継げない程のけたたましい笑い声。それがようやく終わると、王の顔に視線を投げる。その眼力に王の余裕が吹き飛んだ。まさに剛剣で威圧するような視線だ。
「やれやれ、武当山を袖にするからには相当な理由があるのかと思えば……個人的な欲望が理由だったとはな! 見下げ果てたものよ! そなたに理想はないのか! 己が身命よりも大切なものを何一つとして持たぬか!」
「あるとも」
「なに?」
これ程までに自我が肥大化した男にそんな物があるというのか。にわかには信じられないのが当然だろう。しかし本当だったのだ。極めて利己的なものではあったが、確かにあったのだ。
「異国の男よ。大いなる理想を成し遂げるには個人の欲望を捨て去れとでも言いたげだったな。だがそんな不自然極まりない事よりも円滑に、滞りなく進める方法があるのだ。お前の杏の種ほどの脳では分かるまいがな」
「ほうほう。そのような都合の良い方法があるならば、是非ともご教示願おうか」
アルゲティもこの程度の挑発には乗らない。自分の得意とするところなのだから当たり前だ。だが意表を突くのはその限りではない。それを得意とするのは九星道人のようだ。
「それはな……欲望に飽きる事じゃ」
「なん……?」
「王の言う通り理解出来んか。欲望という物はな、押さえつければ押さえつける程に膨れ上がるものじゃ。そのような不自然なやり方は道の真理からほど遠い。もっと自然な方法で克服すべきよ。例えば空腹はどうじゃ? 食い飽きれば欲しくなくなろう。寝飽きれば起きたくなろう。それと同じじゃよ。女も抱き飽きれば欲しくなくなる。そういう事じゃ」
「なんと非道な……」
飽食の生贄となる者の事を全く気にもしないとは、なんたるやり方なのか。しかし、それならば何故ヤフヤーを連れて来る必要があるのかが分からない。
「なに、大した事ではない。これだけ広範囲に術をかけるにはな、それなりの気を必要とする。それを提供してもらった……見返りとして快楽のひと時を与えた。それだけの事じゃ」
「それだけの事……で済むものかぁぁぁ!」
アルゲティが地面を踏み鳴らして怒声を上げた。巨体から怒気が膨れ上がり、物理的な硬ささえ感じられる。隣にいた宋が半歩後ずさった程だ。
「貴様ら! 人を何と心得る! そこまで捩じくれた性根は見た事も聞いた事もない! このラス・アルゲティが叩き直してくれる!」
「ふん、所詮は大事の前の小事よ。我らが目指すは単なる飽食ではない。それは成すべき事に専念する為の手段に過ぎん。」
「ならばそれは何だと言うのだ! つまらぬ事ならば猶更に容赦せぬぞ!」
アルゲティの眼が赤光を放つかと見紛う程に充血している。凄まじい憤怒の証拠だ。大切な部下を欲望の為に利用された怒りと悲しみ、そして屈辱が心の中でマーブル模様をなし、激情となって噴き出しているのだ。
「教えてやろう。邪魔する事が出来るのならやってみるがよい。余興程度にはなろうでな……。我らの目的は南海の底に沈む海底神殿で永久の眠りにつく巨大神を蘇らせる事よ」
「そんな物は聞いた事もありません。世迷言を!」
「いや、宋殿……これは……まさかこの地でそれを耳にしようとは……」
「ふむ、そこのデカいのは知っておったか。確かに砂漠の国の人相。なる程の」
アルゲティの怒りも吹き飛ぶ衝撃。あの忌まわしきアル・アジフに記された禁断の邪神にまつわる知識を持つ者が絹の国にいようとは。それも超常的な力と邪な心を持つ者だとは。
「貴様ら、それを成せばこの大地がどうなるか知っておるのか! それでも成そうと言うのか!」
「無論よ」
「一体どうなるというのですか!?」
口を開こうとしないアルゲティに代わって九星道人が得意げに語る。
「歴史上何度も起きた天変地異を聞いた事があろう。あれらは……その巨大神が寝返りをうったためとされておる。ましてや目覚めれば……どうなろうなぁ」
「な……」
宋が言葉を失った。それが本当なら宋が知っている魔神――蚩尤や饕餮ですら物の数ではない。そんな途轍もない怪物が蘇ればこの世は――いや、自分達ですらも生きてはいられまい。何を考えているのか。
「ふん、分からぬか! 出来の悪い師弟よ。この大地の神々を超えた巨大神の一部となり永遠を生きる! これこそ完全なる神人合一よ!」
「させるものか! キメラトルン・アメデラトン・マルメラ・キメラトロン・アマデルトン・マキムラ・ハリタレルラ・オリタロルラ・コリムリア!」
アルゲティが風の呪文を唱え全力で右手を振った。五本の指から放たれた五本の疾風が互いに高め合い不可視の刃となって襲いかかる――寸前、邪悪な二人の術師は姿を消した。気配を探すアルゲティ達に捉えどころのない声が降り注ぐ。
「ふははは。なかなかの術だが、呪文が長過ぎるな。それでは実戦では当たらん。余程の間抜けでもない限りな」
「若いのとデカいの。邪魔できるのならやってみるがよい。待っておるぞ……ヒッヒッヒ……」
「くそっ……何たる事か……」
「一旦武当山に戻りましょう、アルゲティ殿。ヤフヤー殿の治療もありますし……」
「承知した……」
珍しくアルゲティが項垂れたまま頷いた。結局のところ。ヤフヤーは救えたものの敵を取り逃したどころか有効な攻撃は何も出来なかったのだ。これまでの自信を打ち砕かれてしまった。
帰りは三人とも押し黙り、宋は統括本部に事と次第を報告し、アルゲティはヤフヤーを治療所に預けた。
――このままではいかん……もっともっと! 何倍も強くならねば――
アルゲティはこれまで以上に貪欲に、精力的に修行に打ち込むのだった。
次の更新は週明けになる予定です。
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