第二話:変人
2022年3月下旬 棚村の研究室
「誰だお前は?!」
8階廊下に響き渡る棚村の大絶叫に、目の前にいた奈良澤もびくっと肩を震わせる。
「……え? いやいや、ですから今日からお世話になります、って――」
「そうではない! 君が奈良澤という人だということはわかった! 何故?! アポも何もなく! 私のところに来るのか! それを聞いているんだっ!!」
32にもなってこんなに叫ぶ時が来るとは思わなかった。隣では警備員式守がその平時とのギャップのあまり、涙を流しながら大爆笑している。
「ですから! 先ほど警備員さんも仰いましたが、来月から棚村先生と研究をお供するのでご挨拶に来たわけですよ!」
「……はぁ、まあいいとりあえず中に入りなさい。警備員さんお騒がせしました」
「いえいえ、ごゆるりと」
式守のその表情は喜色満面、竹取物語で燕の子安貝をゲットしたかと思われた石上麻呂レベルだった。式守は笑った笑った、とまだ落ち着かぬ呼吸で肩越しに手を振りエレベータで持ち場へ戻っていった。
丸みを帯びた木製のテーブルに散らかる書類を片寄せ、奈良澤の座る場所を確保する。
「コーヒーは飲めるかい? 飲めるならブラック、それともミルクや砂糖は入れるか?」
「ありがとうございます! じゃあミルクお願いします!」
棚村はあごひげを摩りながら、ドリップ中の一滴一滴をぼーっと見つめる。奈良澤には視線をやらず、さも気だるそうに問を投げる。
「君はどうしてここへ? 私は特に許可を出した覚えも無いんだが」
「えっ、はい! 当時中学生だった私には、5年前の先生の熱弁がとてもかっこよく映ったんです」
「……嫌なことを思い出させるな、君は。あれは若気の至り、先を見据えぬ無邪気さと危うさを孕んだ私は学会にはお荷物だったんだ。廊下にあるエレベータだってそうだろう、重すぎると警告が鳴る」
「……そんなことないです、先生だって心づもりがあってのことだと思いますし、何より私にかっこよく映ったんですから、それはもう変えようのない事実ですよ!」
「格好いい、ねぇ……君は本当に変人だ」
「先生に言われたくないですよ!」
「ひどい」
カップにコーヒーを注ぎ、奈良澤の分にはミルクを添える。
「ありがとうございます! ――んん、おいしい!」
「それは当然、何故なら豆はコピ・ルアク、最高級のものを使っているからなぁ!」
「へぇ~」
「もっと関心を持て、科学者としてあるまじき知的好奇心の無さだぞ」
「これって一杯いくらぐらいなんですか?」
「8000円ぐらいかな」
「えぇ~!!」
奈良澤は即座にガタガタと震えだした手を落ち着けながら、とりあえず器をテーブルに置く。これで器まで高級品だったら仕方がない。
「何でそんな高いものを飲んでいるんですか……?」
「……うむ、そうだな、じゃあたとえば君の好きなデザートか何かあるかい?」
「そうですねぇ、苺タルトとか好きです! 高校の時は学校帰りによく友達と色々な店に寄っては食べ比べしてました! 買い食いって言われたらそこまでですけど、えへへ……」
「その感覚だ」
何を当たり前のことを聞いているんだと言わんばかりの憮然とした表情で、棚村が即答する。
「金額が全然違うじゃないですか!」
「そりゃそうだ稼ぎが違うもの」
「1日3杯としてコーヒー代だけで1年あたり800万も使うしがない研究者がどこにいるんですか!」
「しがないって……言ってくれるね」
棚村は一度器を机に置き、自分のテーブルの横にあったキャビネットから分厚いクリアファイルを取り出す。そのクリアファイルには大量の書類が明らかに許容量を越えて収納されていた。
「目を通してみなさい」
「はい……えーと、『室温超伝導体生成』、『カラビ・ヤウ多様体の対称性応用』なんですかこれ?」
「私が申請した特許リストの一覧だ。そのファイルがあと1ダースある」
「まさか……」
「その通り、私は別に何もせずとも平均寿命ぐらいまでは生きられるだろうな」
降参と言わんばかりに、奈良澤は平伏してファイルを棚村に返却する。既に落ち着いた両手でコーヒーカップを持ち口へ運ぶ。
「それで、君がここに来たいという感情が私によるものだということは分かった。では次」
棚村も一度口へコーヒーを運び、浅く呼吸する。
「……誰が認めた?! 言え、名を言え!」
「非常に申し上げにくいんですが……」
「構わない、ほれ言うてみい」
「……寺尾先生、です」
アーロンチェアに腰かけていた棚村が、某番組の桂何某のごとく椅子ごと倒れた。
「っっっっっはぁああああ?!!」
「先生やめてください、コーヒー臭の呼気が! 呼気が!」
「端的に100字以内で説明しなさい」
「えーと、私の高校にOB・OGの方々が毎年訪問して講演をされるという催しで、寺尾先生がたまたまゲストでした。棚村先生に興味を持った後だったので寺尾先生にお話ししてみると了承という形に……」
「私が了承してねえよ!!」
寺尾、彼は5年前棚村が干された学会で国際学会長を務めた権威ある人間だった。棚村に公に関わろうとする人間すら共に黄泉送りにしようという魂胆だろう。
「もしかしたら先生は、いい迷惑だ! とか余計なことを! とか思ってらっしゃるかもしれません」
「分かってるじゃないか」
「即答ー! そこはもう少し我慢してくださいよ! でもですね、私はここに来ることができて幸せです!」
満面の笑みで棚村に自己申告した奈良澤に、思わず棚村を挙動不審になってしまう。今まで自分を超える変人はいないと思ったが、こんなところにいるとは。
「……わかった。ここは私が折れよう。だがしかし、私はそう普通の人間ではないから、辞めたくなっても辞めさせんぞ?」
「もちろんです!」
最後に大きな脅迫じみたハッタリをかませば流石に躊躇するだろうとは思っていた。しかし期待を裏切り、代償として棚村が常に奈良澤に付き纏われるという案件まで発生した。
「神は私を見放したか……」
「先生!?」
素性も知らない出自も知らない、見た目はごく普通の女学生。それが棚村から見た第一印象だった。
自分のところの門を叩くような奇想天外な行為を除けば。