第一話:誰だお前は
2022年3月下旬 都内
非効率的なことは大嫌い、それが棚村の信念であった。
こうして都内の研究室に通勤する間も新たに出た論文のチェックを欠かさない。人は彼を天才科学者だなんだと囃し立てるが、彼には天才か否かはさておき合理的にものごとを進めている自信はあった。その為彼は早寝早起きを徹底するなど人間味にあふれた部分も多くあった。
研究所の地下駐車場に車を停め、所の玄関へと向かう。途中に植わる桜の木々は桃色の花弁を滝のように降らす。この景色はこの時期の風物詩であり、彼もまた幾度目の季節かと思考を巡らしていた。
"人間"・棚村が学会から干され、大きな活動が出来なくなってからは5度目の桜吹雪。次の吹雪までどれだけ研究が進むのだろうかと、彼の楽しみの一つでもあった。
玄関には警備員が終日交代制で勤めている。もちろんこの研究所はそう大きいものではなく、中に危険な病原体を扱うバイオセーフティーレベル(BSL)4の厳重な施設が入っているわけでもない。確かに宇宙法則を記述しようとする天才科学者の書類やデータは盗まれては困るが、危険なものではない。
「お疲れ様です」
「棚村さん、おはようございます! 顔色がいいですね、何かいいことでもありました?」
往来の激しい朝の時間帯は、たいてい責任能力の高い警備員が配置される。今日はこの男、式守だった。45歳で非常に体格がよく、まさに優秀な警備員然としている。
笑顔と元気がトレードマークの中年マッチョ式守の問いかけに、思わず棚村も笑みを添えて返す。
「ははは、いやあ特別に何かあったわけではありませんが、こうして自然の移ろいを見てると時の流れを感じますし、同時に自分も頑張らなきゃなって思えるんですよ」
「あなたがやっていることは、私には到底理解の及ばない、とても難しいものであることは分かります。ですが、そんな棚村さんと同じ感覚を自分も抱いていますよ。1000年前の風流人は色・こころ・場所の経時変化を全て『うつろふ』という語で表したと言います。微細な時間にも微細な変化、案外私たちは今も昔も似たり寄ったりなのかもしれませんな!」
「プランク時間でプランク長の変化が起きる……ほう。ほうほうほう!」
「おや、何かお力添えできましたか?」
ぶつぶつとつぶやきながら自分の世界へ没入していく棚村を、いつものことだと優しく見守る式守。こういう時はあまり邪魔はしないほうがいい、長い付き合いの彼は十分理解していた。
「今の研究の一歩になるかもしれません、ありがとうございます!」
「それはよかった。季節の変わり目、十分体には気を付けてくださいね」
式守との世間話で時間を使ってしまったが、ヒントを得られたためここはトレードオフとしよう。肩に提げたバッグを担ぎなおし、玄関を抜けエレベータへと向かう。
この研究所はもともと日本の最高峰の研究者たちが自由な宿泊・研究を行えるように、と建設されたもので、今でも多くの研究者たちが日夜研究に励んでいる。国会議員にはJR無料パスが支給されるのと似たような原理で、毎年選ばれる数人にこの研究所の利用権が贈られる。
もちろんそこらのカプセルホテルのようなものではない。専門機関レベルの研究設備、ストレスフリーな研究のための食事・睡眠設備、施設内の治安を守る先述の警備員含む厳重なセキュリティなどなど、まさに家に居ながら最高の設備で研究ができるとあって、その利用権は研究者の垂涎の的である。
それほど貴重なものが棚村へ送られたのは僥倖でも奇跡でもない、彼の実直かつ豊富な思考力・発想力から生み出された研究結果が実を結んだのである。
チン、と自室のある8階到着が知らされ、少し歩いて向かう。
ホテルのようにカードキー仕様となっているため、胸ポケットよりカードを取り出す。カードというよりプレートと呼んだ方がいいそれは、厚みと重さをはっきりと感じさせ紛失防止に一役買っている。とはいえ、紛失しても内臓のマイクロチップがGPSと連動、すぐさま位置が分かるようにはされているのであるが。
カードリーダにカードキーをかざす。カチャッと音が聞こえる。ドアを開く。
ガコン。
「開かない……?」
瞬時、棚村は考えをめぐらす。音が聞こえてドアが開かないということは、既に開いていた。しかし私が昨日ここを退室したときはしかと施錠を確認して出た。スペアキーも作れないようになっているはず。
ここで紛失時にキーの持ち主がGPSで見つけられることを思い出した棚村は、そのシステムを逆手にとって『仮にスペアキーができていればキーのアドレスが2つ以上出るはずだ』と考え、手にしていたスマートフォンから早速ブラウザを起動する。
「……2つある? 何故だ」
画面に表示されたのはこの研究室近辺の地図。自分がいる位置に赤いピンが立っており、キーの位置に緑色のピンが立っている。緑色のピンは自分のところに1つ、そしてもう1つは。
「室内? スペアキーを作れてかつ内部に潜伏する者の仕業か」
即座にドアから離れ、先ほど話をしたばかりの警備員式守を電話で呼び出す。
「もしもし、棚村です。盗難に入られたかもしれません、今室内にいることは確かなので至急こちらへ」
「盗難ですか!? この夜の間防犯カメラにも怪しい人物は居なかったんだが……わかりました、その場を離れず、身の安全を確保してください。すぐさま向かいます」
式守が訪れたのは1分後、素晴らしい警備体制だ。その調子で不審者も入れないでいただきたい。
「この中ですね? ……と、どうして室内にいることが分かったんですか?」
「え? あぁ、開錠しようとしたら鍵がかかったのでスペアキーの可能性を考え、GPS検索しました。犯人はキーを持ってこの中にいると思われます」
その時、再びドアの方から今度こそ開錠音が聞こえる。身構える棚村に対し、式守は何故か笑顔でそちらを向き直っていた。
「あっ先生! お待ちしておりました! 中々来ないから待ってたんですよ!」
「式守さん、この怪しげな女学生を即刻連れ出して刑務所へ叩き込んでやってください」
「まあまあ棚村さん、落ち着いて! そうだ、まだ知らされてなかったんですね」
事態のあまりの急転に理解が追い付かない棚村は、次ぐ言葉を口にしようにも出てこない。天才科学者と称される棚村でもここまで思考が及ばないこともあるのだ。
「初めまして、私、奈良澤静です。4月から先生の研究室にお世話になることになりました!」
「私もあまり詳しいことは分からないのですが、どうやら彼女が言う通り4月から先生のもとで一緒に研究をすることになったそうですよ。私が頼まれて2枚目のカードキーを彼女に作ってあげたのです」
「……あぁ、なるほど。それで、1つを除いてすべて合点がいきました。じゃあ、奈良澤さんと言ったっけ? 1つだけいいかな?」
「はい! なんでもどうぞ!」
目をキラキラ輝かせ、鼻息荒く、お前は小学生かと思ったがそんなことは棚村にはどうでもよかった。
「誰だお前は?!」
所内に響き渡る棚村の絶叫に、窓の外の桜の木に止まっていた鳥が全て飛び立ち、8階の他の研究者がドアから怪訝な顔で覗き、その日のホットなニュースになったという。
謎の女学生奈良澤と棚村の出会い 期限まで残り5年