【砂糖小話】 香 -fragrance-
「ただいま」
二人して帰宅し、同時に呟く。あまりのタイミングのよさに苦笑した後で、靴を脱ぎ上がろうとしたその時だった。
「あ」
自分の前に立っていた彼女が、脱ぎかけのショートブーツに躓いてバランスを失う。
「おっと」
咄嗟に右腕を回して自分の方に引き寄せる。自然に後ろから覆いかぶさるようになり、接したその身体から、ほのかに彼女の使う香りがした。
「ありがと」
「いえいえ」
そうは言いながらも、なんとなく手放せなくなる。
「ヒロ?」
いつまでも動かない気配に、少しだけ不思議そうな表情がこちらに向けられた。その視線を受け止め、余韻にほだされたまま、そっと顔を近づけていく。
けれど。
「待って」
ふと制された。く、と少し身じろぎしての戸惑い。折角の好機におあずけをくらって、ほんのりいじけてみせる。
「ダメ?」
「そうじゃなくて」
「なんだい」
意識して甘い声を出すと、彼女は頬を一層赤らめて言いにくそうにもじもじした。
「……いや、なの」
ぼそりと呟かれたそれに、急いた行動が気に障ったのかと一気に背筋が凍る。けれど「誤解しないで」とすぐに否定された。
「あのね、香りが」
「香り?」
一体何の。自分は香水の類は嗜まないし、もとより彼女は嗅覚が鋭いため、家の中に芳香剤の類を置いてはいない。
そうしてふとひとつの可能性にたどり着いた。さっきまで二人で居たあの空間――店内に配されていた花々。けれども本格的なレストランで香りの強い花を置くはずもあるまいと思い直す。
いいや、ちがうな。そうじゃない。
大勢の人が集っていたあの場のことだ。おそらくはいずれかの女性がまとっていたのだろう、彼女の苦手な――薔薇の香りを。
服に纏わり付いていたにせよ、もうほとんど飛んでしまっていただろうに。それに気づくとはと、半ば感心したそのときだ。
「あたしのじゃないから」
少しむくれたような口調で放たれる。
「誰かの香りがするところでは嫌だから」
どき、と大きく拍動する。自分で言ったくせに、直後耳まで真っ赤になっている後ろ姿に、今度はぎゅうと心臓を鷲掴みされた。
「……まいりました」
素直に負けを認め、彼女の髪に鼻先を埋める。
この分だと一生彼女にはかないっこない。
そんなこと、最初から分かっていたけれど。
「ヒロ?」
戸惑い気味に聞いてくる彼女を更に強く抱き。
「ちゃんとシャワー浴びるからさ」
そうして、店を出るとき囁きかけた欲求を再び放つ。
だったら。
いっそ。
「ひと思いに、君の香りに染めてくれ」




