破 -be ready.- (2)
「香奈ちゃん」
グラスを手に近づいてきた彼女。口を引き結んだまま自分の前に至るや、剣呑な視線を向けてくる。
「酔ってるの?」
そんなこちらからの問いかけに不満が浮く。他に言いようがあるだろうに、とでも言いたげだ。
「最初から、ずっと水しか飲んでないし」
そうしてスツールを挟んで自身も椅子に腰掛けた。届きそうで届かない、こちらを一切向かないその横顔に、少しばかり伺うように問う。
「こういう飲み会だって伝えなかったことを怒ってるの?」
「べつに。大人の付き合いなんだし、どんな飲み会に行こうがヒロの自由じゃない。あたしが口出しすることじゃないでしょ」
まるきり自分と同じ思考。けれどもその声には忿懣が多分に混じり込んでいて。
「やっぱり怒ってるんじゃないか」
「怒ってなんかないもん」
ぷんぷんとでも形容されそうな可愛らしい素振り。同棲を始めて来、沈みがちに見えた彼女にしては久しぶりの――本来の明快な感情表現に、自然肩の力が抜けてほっとする。
けれども楽観ばかりもしていられない。取りつく島は相変わらず与えられていないのだから。どうしたものかと思案し口をつぐんでいると、業を煮やしたのだろうか、ふと彼女が問うてきた。
「ねぇ」
「ん?」
「ヒロは、自分のことをどう認識してるわけ」
突拍子もないうえにひどく抽象的なそれに、主旨をつかめず首を傾げる。
「自分のって、たとえば?」
「そりゃあ顔とか名前とかよ」
「顔とか名前……どういうこと?」
疑念のままに問い返すと、今度は盛大なため息が漏れ出した。
「さっきまであれだけ大勢に囲まれてたんだから、いい加減気付いてるもんだと思ってたのに」
「だから何に」
はっきり喧嘩腰の台詞に、先程の恭司との会話が重なって思わずむっとする。
「だから……自分が眼鏡白衣のイケメン王子扱いされてることとか、学生時代から業界では結構名前が知られてる有名人だとか、そういうことよ」
「え」
「自覚なんて、どうせこれっぽっちもないんでしょ。だったら今日ここに来てる大半の女の子たちに狙われてるなんて、それこそ思いもしないんでしょうね」
まったく想定外の返答に驚いていると、心底呆れたような表情が向けられた。
「終始目で追われてるって気付かなかったの? 無自覚の天然を振りまくにしたってほどがあるわよ」
「でも、何で僕を」
「何でって、そりゃぁ研究職で実績もあって、人当りも穏やかで、フェミニストで優しくて、なんて理想的な恋人候補、業界どころかフツーに考えたってそうそういるもんじゃないでしょ」
「ちょっと待ってくれよ。いくらなんでもそれは夢を見すぎだ。僕はそんな大層な人間じゃない」
「実際、世間一般の評価がそうなっちゃってるんだから仕方ないでしょ。それに女の子なら誰だって、イケメンが目の前に現れたらそれだけでドキドキしちゃうし、その人が紳士的で優しい王子様みたいだってわかったらなおさら、その先の甘いレンアイを夢見ることぐらいしますッ!」
ぶすっと頬が膨れ、いよいよ怒り心頭といったところだ。こんな時どうすればいいのか、残念なことに、効果的な対応スキルが未だ身についていない事実だけが身に沁みる。後悔しても手遅れだと内心諦めの溜息をつき、せめてもの気持ちの切り替えのために、経過と論理的思考を脳内に呼び起こして……ふと至った仮説を試しにそのまま口にしてみた。
「カナちゃんも、そう思ってるの?」
「え」
「他の子たちが言うように、僕が眼鏡白衣のイケメン王子だって思うの?」
「それは……」
語末がすぼみ、グラスを支える指がもじもじと落ち着かなくなる。それを確認して再思考し、練り直した仮説を再び言葉に載せた。
「もしかしてカナちゃん、ヤキモチ焼いてくれてた、とか?」
途端に彼女の横顔が真っ赤になる。
「べつに、そんな」
慌てて反論しながら、口元には強張りが浮いたままで。
「なんであたしが。天然で朴念仁でマイペースすぎて、いつもこっちがやきもきさせられるし、ありえないぐらい女心にニブくて、記念日の概念だとか、ロマンチックな演出なんて到底期待できないって重々わかってるのに。それなのにヤキモチ焼くとか、そんなのただの独り相撲じゃない」
先ほど示された一般的な好評価とは真逆のそれ。本質を知る、あまりに的確で直球すぎるそれに、流石にプライドを傷つけられる。
「なら僕も聞くけど、カナちゃんは自分のことを、美人でスタイルがよくて、素直で純粋なお姫様みたいだってそう思ってるの?」
「なによそれ。そんな自意識過剰なこと思うわけないでしょ」
予想通りの反応に、こちらも仕返しじみたため息を吐く。
「そう言うだろうと思ったよ。でも今みたいなことを、この場にいる大半の男が考えているんだとしたらどう思う?」
「え」
「そんな君を、隙あらばモノにしようと狙っているんだとしたら?」
「それは……そんなはずないじゃない。だってあたしは、気が強くて負けず嫌いで、昔から男の子に混じって、鼻の頭すりむいて遊んでるようなお転婆だったんだし」
まったくの無自覚な卑下に、人のことを言えた口かと腹立たしくなる。
「今の君からそんなはねっ返りな雰囲気は微塵も感じられないよ。単純に綺麗で純真な女の子に見えるんだ。強い押し口調で迫れば、勢いに押されて落ちてくれるんじゃないかって思えるようなね」
柄にもない挑発を放つと、彼女の顔がそこで初めてこちらを向き、驚きの表情と共に強い怒りが覗いた。
「あたしが、そんな身持ちの軽い女に見えるわけ」
「そうじゃない。そういう期待を煽ってしまっているってことだよ」
まるで売り言葉に買い言葉。このまま続けたなら、もしかしたら泣いてしまうかもしれないとの自覚はあったが、結局抑えきれずに言ってしまう。
「要するに、君は無意識に無防備なんだ」
「無防備?」
「素直さや純粋さは君の魅力だけど、最初から下心を持って近づく男にとっては、うまく付け入る隙でしかない。いつ逆手に取られて、弱みを握られて、ひどく傷つけられたっておかしくはない状況なんだよ。さっき僕のことを無自覚だって非難したけど、君だってよっぽどじゃないか」
断裁がショックだったのだろう。先程まで見えていた威勢が急速に失せて、代わりに自分を恥じているような、今にも泣き出しそうな表情になる。心の動きがつぶさに見える所作。そんな沈んだ姿にすら誘われてしまうのに、と小さく苦笑しふと気づいた。
今までにないほどに激しく勢いづいて、そして真正面から彼女にぶつかっている自分。
同時に、胸の中にあふれるものを口にしたい、伝えたいと強く願っている自分に。
「まったく、らしくもない」
自嘲と共に口にすると、途端に頭の中が冴え冴えと澄み、刹那、数多の言葉が脳内で的確に組み合わされ、完成し、舌の上に雪崩れるような感覚が襲ってきた。
「心配なんだ」
そうしてついにはこぼれ落ちる。いつの間にか強く掴んでいたグラスを、彼女との間を隔てるスツールに置いてそのまま続けた。
「いつも気が気でならなかった。君が誰かにさらわれて、いなくなってしまったらどうしようかって」
その不安をはっきりと自覚した出来事、ふた月ほど前のとある場面が脳裏によみがえる。
『ごめんなさい』
なりふりかまわず縋り付き、彼女を引き止めようとしたあの時。ほとんど無意識の、まるで自分とは思えない冷静さをすっかり欠いた言行に、その後激しく動揺し、内に抱いていた何かが大きく揺らいだ気がしたのだ。
だが今ならその何かが理解できるような、三上の忠告の真が解るような気がする。
「本当は行かせたくなかった。でもそれを言ったらきっと失望されると思ったから。だから精一杯虚勢を張ったんだ」
はっと、隣で小さく息をのむ音がする。
「僕は皆が言うほど完璧じゃないし強くもない。見かけ倒しの殻の内側から遠目に人を覗って、傷つけられないように隠れてばかりいた、意気地無しの格好つけなだけだ。そんな情けない有様なのに、君を自由にしておく勇気なんか持てるはずもないだろ?」
整理などまるでされていないありのままを伝えると、彼女が戸惑う表情でゆっくりとこちらを向いた。
「ヒロ、もしかして」
その面に浮いたかすかな期待。
「ヤキモチ、焼いてくれてた……とか?」
そう口にされて、心の底から安堵する。
「やっと気付いたの? 今までずっと、誰にともなく焼きっぱなしだったのに」
「だって全然そんなふうに見えなかったし。いつも冷静で、取り乱すことなんてなくて……あんまり何も言ってくれないから、こっちが不安になって落ち込んでイラつくくらいだったのに」
驚きや戸惑いと共に返されたそれに深いため息をつく。
「自分で言うのもなんだけど、感情を露わに返すってことがどうも苦手でさ。どう表現したらいいのか、どう接したらいいのか、加減がよくわからないんだ。だからなおさら、君に惹かれるんだと思う」
「え」
「表情がよく変わって、感情がそのまま素直に表に出せる。喜怒哀楽を無理せず自然に相手に向けられる。そんな君と向かい合っていると、楽しくて嬉しくて、すごく満たされた気持ちになるんだ。僕もこんなふうに振る舞ってもいいのかもしれない、君のようになれたらいいのにって憧れて……側でずっと見ていられたら、本当に幸せなんだろうなって思うんだ」
次々に解け出る言葉。自分には無理だと思ってきたそれがすんなりとできてしまうのは、それこそが彼女と共にあった経験の賜物なのだろう。
「そんなこと」
どこか悔しげな、責めるような声色。
「今になってそんなこと言うくらいなら……いっそ捕まえて、早くに連れ出してくれればよかったのに」
そして少しだけ震える彼女の唇からも、欲求がぽろりとこぼれだした。
「そうだね。ごめん」
本気で今まで気づかなかった。けれど気付いたからにはこれ以上待っていられない。前進していたつもりが立ち止まり、知らず退行して、余計な回り道までしてしまっていたのだ。おそらくは彼女も、これ以上待ってはくれないだろう。
「もういい加減、ヤキモチなんて焼きたくないし、焼かせたくもないし」
そう、ここが二人の限界なんだ、きっと。
「カナちゃん」
「なに?」
「君が好きだ」
「え」
「結婚しよう」
告白に次いだそれに彼女が驚く。その目をまっすぐに見据えて続けた。
「僕は愚かで、ひどくくだらない人間だ。けれど奪ってでも君と共に生きたいと思うんだ。だから」
今なら言える。
今だからこそ、伝えたい。
「僕と、結婚してくれないか」
直後様々な感情が入り混じった彼女の表情を見つめて、静かに反応を待つ。不思議とそこに不安はなかった。穏やかに待つことができる自分が嬉しくなると同時に、恭司の言っていた『覚悟』の意味を悟ったような、そんな清々しい気持ちにもなった。
「なんでいつもいきなりなの」
非難がましい言葉が、桜色の唇から発せられる。
「もう少し、心の準備くらいさせてよ」
そうは言いながらも、顔には喜びが台頭してきて。その変化がありありと分かる。
「だって」
緩み始めた白い頬に手を伸ばし、そっと触れて。
「驚いた後の、君の泣きそうで心底嬉しそうな顔が好きなんだ」
正直に伝えると、直後耳まで真っ赤になって今度はうつむいてしまう。密かな満足感を得て椅子から立ち上がり、彼女の前に膝をつくとわざと下から覗き込んだ。
「にやけてるよ」
指摘すると一層顔が赤くなった。
「嬉しかったの?」
もう反論も出てこない。全身から滲み出る歓喜に答えを確信して、こちらの口元も同じように綻んだ。
「今度こそ、一緒に買いに行こうね」
「当たり前よ」
二度とは繰り返さない。彼女といれば揺らがないと心からそう思った。
「じゃあ、行こうか」
ゆっくり立ち上がり右手を差し出す。顔を上げた彼女は、どこか凛とした表情で、持っていたグラスを隣のスツールに置いた。チンとガラスの触れ合う音がすると同時に、自分の手を取って立ち上がる。
「奪われてくれるね」
小さな頷きを得てから、すぐさまその手を強く引いて踵を返す。そのまま相変わらず場の中心にいた幹事長の所まで歩いていくと、彼はこちらに気づくなり小さく口笛を吹いてきた。
「なんだよヒロ、あんなに嫌がってたのに」
遠慮なくニヤニヤとからかってくれる。
「な、後悔せずに済んだだろ?」
「そうだな、感謝してる。今夜ここに来て良かったよ。改めて考えてみて、今さっき結論が出たところだ」
そうかと笑みを乗せたその面ににんまりと返し、それから隣に立っていた彼女の腰を引き、そっと口付ける。ずかずかとホールの中央に進み出たせいか、いつの間にか周囲の視線をそれとなく集めていたようで、瞬間周囲が漣立ったのが分かった。
「Ich will mit dir alt werden」
唇が離れるのと同時に囁く、もうひとつの願い。怒涛の展開に彼女は大きな目を見開いていたが、こちらは至極当然とばかりに続けた。
「やっぱり、彼女と結婚するよ」
高く宣言し、固まった空気をよそに細い肩を抱いて歩き出す。
ざわざわと波立つ空気を背後に感じつつ、廊下を過ぎてクロークまで行き着くと、入店の時と同じ店員が対応してくれた。コートと荷物を受け取ったところで、ホールの方からどよめきと複数の小さな叫びが押し寄せてくる。伝わってくるそれに何事かを察したらしく、彼女にもマフラーを差し出していた店員が、にこりと小さく微笑んできた。
「是非またお二人でおいでくださいね」
見事な洞察。素晴らしいもてなしだ、という評価を込めてありがとうと返し二人で店を出る。扉が閉まってもなお、困惑する声が漏れ聞こえてくるさまに、優越感と満足感、そして充足感が全身に満ちた。
「ヒロ」
首に巻いた揃いのマフラーに触れつつ、恥ずかしそうに彼女が覗き込んでくる。
「大丈夫、かな?」
きっと週明けからの質問攻めを想像しているのだろう。けれど事もなげに答えた。
「心配ないよ。カナちゃんはいつものままでいればいい。それよりも」
「何?」
「家に着いたらさ」
告白の余韻冷めやらず、ひそりと耳元で囁く欲求。瞬間彼女の顔が再び真っ赤に染まった。
「そんなこと、いちいち言わなくていいの」
「じゃぁ誘われてくれるんだね?」
「ばか」
そうは言いながらも、摺り寄り絡められた腕。もう絶対に離れることはないだろうその温もりが嬉しかった。
「いこうか」
そうして丁重にエスコートしながら歩き出す。
クリスマスに向けた装いが徐々に華やぎを増していく街並み。
楽しげであたたかなその灯火の中、並び歩ける幸福を二人で共に噛み締めた。