涙 -choose him-
「香奈、こっちこっち!」
店に入った途端、奥まった場所にあるスクリーンの向こう側から、大きな声で手招きされる。
「よー、高遠。1か月ぶり」
「遅かったねー」
「ごめん、電車が遅れてて」
詫びを入れつつ挨拶し、今夜参加の面々を見回して確認していると、先ほど手招きしてきた同級生の海晴が、出迎えに抱き着いてきた。
「あれ、由梨亜と一緒じゃなかったの?」
「今日は直接ここで落ち合うことにしてたから……来てないの?」
「うん。無言で欠席なんて、あの子にしちゃ珍しいね」
「昨日話した時には、来るって言ってたんだけどな」
ひとりごち一応携帯を確認してみるが、新着のメッセージが届いた様子はない。まぁしょうがないよと改めて席を勧められ、コートを脱ぐと空いていたそこに腰を下ろす。
「よ」
すると真向いに座っていた博之が小さく手を上げてきた。思わず動きを止めると、気まずさが顔に出ていたのだろうか、ほのかな苦笑が浮いた。
「それじゃあ全員揃ったし! かんぱーい!」
どうやら待ちきれなくなったらしい海晴が、先んじてグラスを掲げ声を上げる。ほかの者たちも早速追随し、場は俄然にぎやかになった。
夏から始まり何度目かを数えたプチ同窓会。今日は10人程度と比較的人数が少ないが、より親しくしていたグループの者たちが集っており、香奈は少しほっとした。今回が初参加の面々との久しぶりの再会を喜び、飲み食いしながら互いの近況を報告し合って盛り上がるうち、時間はあっという間に過ぎていく。
「ねーねー香奈ぁ、ちょっと聞いてよぉ」
すっかりアルコールが回ったらしく、顔を真っ赤にした海晴が突然絡んできた。
「彼氏が最近なんか冷たくてー。同窓会があるからって話したら『行って来れば』ってあっさり言うし。あたしのことなんか、もうどうでもいいのかなぁ」
「え」
「そういう時ってフツーは止めてくれたりしない? 同窓会でうっかり再会愛が始まったりしたらどうするのよ。久しぶりに会うってだけでもテンション上がるのに、まかり間違って男どもがイケメンにでもなってたら、どう転んだっておかしくはないでしょ?」
「間違って、かよ。海晴って相変わらず口悪ィな」
男性陣からブーブーと非難の声が上がるが、彼女はそれを笑って受け流し続けた。
「大事に思うんだったら、少しぐらい嫌な顔してくれても、ぶっちゃけ『行くな』って言ってくれてもいいのにさ」
「そんなこと言って、止めたら止めたで『束縛だ』だの『自由権の侵害だ』だの文句言うんだろ」
「毎回それだと確かに嫌になるけど、たまにはそういう反応もしてくれなきゃ不安になるの」
「うわ、女って勝手な生き物だな―」
「うるさいわね。女心は複雑で繊細なのよっ。ね、香奈」
突然同意を求められて慌てるが、なるべく平静さを装ってワインの入ったグラスを揺らした。
「まぁ、どうかな」
「何よその曖昧な反応は。そういえばちゃんと聞いてなかったけど……香奈って今フリーなの?」
「えっ、高遠って彼氏いねぇの?」
だったら今がチャンスじゃん、と博之をけしかける周囲の反応に眉を寄せると、海晴が何をいまさらと言いたげににやにやと笑みを浮かべた。
「皆、博之が香奈のこと好きだったの知ってるんだよ? 高校の時、結構あからさまにアプローチしてたのに、肝心の本人が気づいてないって、傍から見ててあれは相当イタかったなー」
場がひと時笑いに包まれる。エールを口にしていた博之は、そんな周囲の反応に少しムッとした顔を見せた。
「イタいとか言うなよ、傷つくだろ。それに『好きだった』ってなんで過去形になってるわけ? 俺は今でも香奈のこと好きだけど」
至極さらりと発せられたそれに、ざわりと場が湧き立つ。
「なんだよ博之、今更告白か」
「まぁな。あの頃は躊躇して言えなかったけど……香奈にはもう俺の気持ちを伝えてあるから、今は返事待ち」
「ちょっとなにそれ! いつの間にそんなことになってたの? 説明しなさいよ」
当時博之狙いの急先鋒だった既婚者の真由が、聞き捨てならないとばかりに迫ってくる。
「説明って言ったって」
「博之君、高校時代はすっごいモテてたのに、結局彼女らしい彼女は作らなかったから、事情を知らない連中からは、ソッチ趣味なんじゃないかって説まで出てたのに」
「女子ってホント想像力がたくましいよな。勝手に人の性癖を捏造すんなよ」
そうして再び視線がこちらを向く。
「で、そろそろ返事をくれる気になった?」
「おっ、どうすんだよ高遠」
「どうなのよ、香奈!」
本人と周囲の視線を一斉に受けて恥ずかしくなる。まるで公開処刑のような有様で手元が震えるが、けれど言うなら今しかないとも思えた。
「あたし、同棲してるひとがいるから」
え、と一瞬場に沈黙が降り、直後ざわりと湧き立つ。
「彼氏いたの?」
「同棲って、ホントに?」
予想外、茫然、やっぱりなという様々な反応が入り混じるが、いずれにせよそれぞれの中にあった自分の印象とのギャップに、少なからず驚いている様子だった。
「美人なのは相変わらずだけど、なんか雰囲気が変わったなーって思ってたら、そんな裏があったのね。何でずっと隠してたのよ」
突然降って湧いた恋バナに、つつく相手を得てはしゃぐ女性陣に対して、男性陣はどこか釈然としない様子だ。それになおのこと羞恥心を煽られる。高校時代の自分なら「人をなんだと思ってるの!」とでも息巻いただろうが、今はただひたすら身を縮こめているしかできなかった。
「ねぇねぇ、香奈の彼氏ってどんな人?」
何気なくそう問われてぎくりとする。
「いつからつきあってたの?」
「何歳? 仕事は? イケメン?」
端緒を得て途端に畳みかけられる質問。しかしどこまで口にしていいものかと逡巡する。
大学在学当時から周囲に目を置かれてきた存在。同じ分野の人間なら、おそらく一度は耳にしたことがあるだろうその名前。今日のメンバーが、彼と似通った業種の企業に就職しているとすればなおさら、いつどこで会っているかも分からない。一目見れば忘れられない印象を残すのは必至だろうし、自分と並ぶ姿を想像すれば、ギャップは更に深まることだろう。自信が揺らいでいる今、自ら傷をえぐるような真似はしたくない。
「大学の先輩で、今は研究員として会社務めしてるの」
だから、差し障りのない程度に濁すほかなかった。
「いつから同棲してるの?」
「今年の4月から」
「へー。もう半年も経つんだ」
「で、どうするつもり?」
「え」
「何よその反応。同棲してるんなら、もちろんその気があるんでしょ?」
それは考えないはずもない。けれど、彼の気持ちは未だ直接聞いてはいない。
「そういえば香奈ってこの間誕生日だったよね? その時はどうだったの? 何か特別なサプライズプレゼントとかさ」
「別に……一緒にお祝いはしたし、プレゼントももらったけど、特段なにも」
「うっそー! なんで? 誕生日にプロポーズとか、少女マンガでだって鉄板のシチュじゃない。なのに大の大人が何もないとかありえなくない?」
ばっさりと断裁されてさすがに気落ちする。ここ半年あまり、ただでさえ沈み気味で――先日やっとあとおしを得て少し上向いたと思った心が、再びどんよりと重くなり始めた。
「その彼氏も彼氏よね。そんな重大事をスルーして、こういう場にホイホイ彼女を行かせるなんてさ。何考えてんの」
「そんなヘタレ、こっちから願い下げたら? ここまで何度もチャンスがあったんだろうに、なにもなかったんでしょ? もう期待するだけ無駄じゃない」
「それよか、はっきり好きって言ってくれてる博之みたいな人の方が、よっぽど見込みあるわよねぇ」
「うっわー……女って怖ぇ」
次々にもたらされる、容赦なく厳しい裁定。酒の勢いにも乗ったあまりの過激さに、同席している男性陣は若干引き気味だったが、女性陣は気にせず舌論を交わし続けている。その輪から取り残され晒し者にされた香奈だったが、ふと身体の内側に灯った何かに押されて口を開いた。
「そんなにいけないことなの」
思った以上に重く低く響いたそれに、皆が驚いてこちらを向く。
「あたしはヒロが好き。なのに将来の見通しが立たないから、見限って別れろっていうの?」
半ば無意識的に口にしながら、今度はふつふつと怒りが湧き上がってくるのを覚える。
「彼の何がわかるっていうの。本人達を差し置いて、好き勝手なこと言わないで。ヘタレとか、女心に鈍いとか、朴念仁でなかなか進展しないとか、そんなことわざわざ他人に言われなくても百も承知よ。それでもあたしは……」
そう言葉にして、灯が確かな炎に変わった気がした。
けれど。
「辛そうじゃねーかよ」
博之が、突然怒りを含ませて言う。
「最初っから知ってたよ。誰か特定の相手がいるのかもってさ」
「え」
「指輪、ついてたろ」
彼は気付いていたのだ。鍵を拾ったあの時すでに。
「何で高校ん時みたいに『ヒロ』って呼んでくれねーのか不思議だったんだ。わざわざそうやって義理立てしてる相手だ、多分高校の時からずっと好きだったヤツなんだろ」
「なんで、それを」
「毎日お前のこと見てたから。一年の後期のあたりからかな、なんとなく変わったなって思ってた。誰かがお前の心ん中に入り込んだっつーか……その時はまるっきりのカンだったけど、今の反応からするとマジだったみたいだな」
ぐ、と言葉に詰まり頬が熱を帯びる。
「俺は別にそれでも構わねぇと思ってたんだ。けどよ、香奈がそんな顔するぐらいに悩んで、一途に思ってたってのに、相手はそれに気づいてくれたか? 同じくらい想ってくれてたのか?」
「それは」
「指輪なんてそんなもの、社会人になりゃ誰でも買えるだろ。それを贈った事実に胡坐をかいて、いいようにだらだら遊ばれてるだけじゃねぇの?」
明らかな非難に、流石にカッとして思わず立ち上がる。
「ごめん。気分悪いから、あたし先に帰る」
「えっ、ちょっと、香奈!」
静止する海晴の声を振り切り、鞄とコートを手に速足で店を出る。いささか乱暴に店の戸を閉めて外に出ると、すぐさまひやりとした秋の夜気に包まれた。
皆、勝手だ。
この半年あまり行きつ戻りつを繰り返し、落ち込んでは自分を慰め、叱咤し、時にはカラ元気や楽観を無理に持ち出してまで、なんとか心の平静を保とうとしてきたのは自分なのに。
ぎゅっと胸元を掴みつつ、速度を落として路地を歩いていると、じわりと涙が滲んできた。目の前の風景がぼやけて、瞼に触れる冷たさが余計に沁みる。
「香奈!」
そのとき、追って出てきたらしい博之の声が背後から聞こえた。いたたまれず再び駆けだそうとしたところで、後ろ手を掴まれ制止される。
「ちょっと待てって」
「離して! ほっといてよ」
「ほっとけねーだろ! 泣いてんじゃねーのかよ!」
ぐっと強く手首を掴まれる。しかし今は、慰めようとしてくれている優しさよりも、触れた手の嫌悪感の方が勝っていて。
違う。
これは、違う。
そうして自分を強く抱く腕の力と、耳元で響いた声がフラッシュバックし、一気に思慕が募った。
「離して」
背を向けたままで酷く冷たく言い放つと、彼の手の力が少し緩む。
「博之じゃない」
「え」
「あたしが好きなのはヒロだけなの。彼一人でいい。彼以外、あたしはいらない」
欲しいのはたったひとり。そしてその想い。それだけが自分の求める唯一なのだと、今更ながら強く自覚する。
「なんで、そんなに」
理解できないと言いたげな声色に、胸に抱いた炎を確かめて返す。
「惚れたから、だけど。他に理由がいる?」
ぎくりと身体を強張らせたのが手から伝わって来る。再会したあの時、彼自身が放ったそれと同じ台詞。それこそが紛うことなき真実、そして己のすべてだとも思えた。
「ごめん」
酷い仕打ちだという自覚はある。きっと傷ついた顔をしているんだろうが、それを慰めることは自分にはできない。
「さよなら」
厳然と言い放つと、完全に手が解かれた。最後まで振り返ることなく、駆け足で通りを抜ける。
夢見ているシーン、物語のように劇的な展開。それを未だ願い続ける自分と、叶わない現実に泣き続ける自分。それはどちらも、彼を慕うがゆえに生まれた偽りない自分の姿だ。
「あたし、なんでいままで」
非難に逆上してしまうほどに強く、深く、拭い去れないほどに留まる熱意。もうとっくの昔に気づいていたものだと思っていたのに。
「鈍感なんて……これじゃあ人のこと言えないわね」
かすかな自嘲を唇の端に浮かべる。それから一瞬にして靄の晴れた思考でひらめき、鞄の中から携帯を取り出すと、とある人物へ電話をかけた。
『もしもし』
「あ、あたし。急にごめんね。実は……」
用件を伝えて相手の反応を待つ。
「うん。じゃ」
約束を取り付けて通話を切り、深い息をひとつつく。
今までの迷いが嘘のように、堰を切ったように次々に溢れ出す感情。
その力強さ、圧力に翻弄されながらも、立ちあがろうとしている自分を自覚して。
だから今夜だけは離れていたい。
最後の覚悟を得るために。
ひとつ息をついてぐっと涙を拭うと、香奈は待ち合わせの駅へ向かって駆け出した。