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そのごのひろかな -ever after-  作者: 水成豊
5/14

綻 -Boost-

どうぞ、と差し出された紅茶のカップ。

ふわりと鼻先に漂った香りにほっとしつつ、香奈はソファに座ったままでそれを受け取った。

「ごめんね、ジャス」

そうして礼よりも先に口をついて出た謝罪に、ジャスティナがほのかな苦笑を浮かべた。このぐらい平気よと隣に腰を下ろして一息つく。

ことの発端は先週届いたとあるメッセージ。

『急な出張でしばらく家を空けるから、その間ジャスのことを頼めないか』

兄である英一から、そんな依頼が突如舞い込んだのだ。義姉ジャスティナが最近体調を崩していたことは本人からも聞いていたし、なにより兄が自分に折り入って頼み事をしてくるなど初めての経験で。それならばと一念発起し――もちろんご当地スイーツのお土産も追加要求済みだが――今夜から数日間、兄の自宅マンションに滞在することにしたのだ。

「それで、具合はどう?」

「大分よくなってきたみたい。でも、まだ少し身体が重だるい感じかな……」

白湯を一口飲んでから言う。そのおもては元々の白い肌より一層白く見え、表情もまだ冴えない。確かにこの状態では、兄が心配するのも無理はない。一人でも平気だと最後まで言い張った彼女だったが、やはり押しかけて正解だったなと、香奈は小さく息をついた。

「そんな様子なのに無理させられないわよ。必要なことはあたしがやるから、ジャスはゆっくりしてて」

「ありがとう。正直言うとやっぱり心細かったから、カナちゃんが来てくれてすごく安心したわ」

「でしょう? たまにはあたしにも、義妹いもうとらしいことさせてくれなきゃ、ね?」

「大いに頼りにさせてもらいます」

まっかせなさい、とわざとらしく胸を張って見せると、ほのかな笑みがこぼれ出た。こちらもほっとし、そうしてやっと手にしたカップに口をつける。

「うん、やっぱりおいしい」

「ありがとう。でも、急に私が淹れた紅茶を飲みたいだなんて。カナちゃんは、私のよりも格段においしい紅茶を家で味わえるじゃない」

何気なく放たれたそれに内心ぎくりとする。いや、現に身体がこわばり、カップの底がソーサーにぶつかってかちんと小さな音を立てた。

「今日来てくれたのは、本当に私の援けになるためだけ?」

自分よりもいくつも年下ではあるが、洞察と観察眼が鋭く、もとよりの聡明さも加わって、その目は何もかもを見透かすかのように澄んでいる。やはり隠しきれないかと観念し、体調が思わしくないところに負担をかけるのは申し訳ないと思いつつも、その客観性に少し寄りかかりたくて口を開いた。

「最近、色々と考えてることがあって」

「浩隆さんとのこと?」

えっ、と思わず声が出る。あからさまな反応に、ジャスティナがぷっと噴き出した。そうして続きを促す視線に、最後の逡巡と羞恥を感じながらも抑えきれなくなる。

「二人で一緒に暮らし始めてだいぶ経つけど、改めてヒロってああいう人なんだなって思って」

多分に含んだ物言いに、ジャスティナが少しだけ意地悪な表情を見せた。

「生活スタイルや考え方が合わなかった? それで彼に幻滅したり、嫌気がさしたりしたとか」

同棲している者たちにとり、よく耳にする話だ。それこそ四六時中、生活を共にするにつれて見えてくる現実。お互いに様々な思いが蓄積して、その後――という例はそれこそいくつも転がっている。

「違うの。そうじゃなくて」

思わず顔をあげて即座に否定する。

「一緒に暮らすこと自体にはそんなに違和感がなかったっていうか、元々持ってたイメージと大差なかったの。一人暮らしが長いせいだと思うけど、忙しくてもきちんとしてて、自分のスタイルは簡単に崩れないし、料理でも洗濯でも家事は割と何でも出来ちゃうし。だから」

「だから?」

「この間、つい言っちゃって」

『あたしなんて、いてもいなくても同じよね』

自ら放った台詞と共に、あの時の情景がありありと脳裏によみがえる。

些細なことがきっかけでの喧嘩――というより、勝手に突っかかったと言う方が妥当だろう。そのぐらい一方的で自分勝手な振る舞いだったと今では思う。自身の乱れに対して、彼の反応はあくまで冷静だったから、なおさら自己嫌悪を助長され、様々な感情に揺さぶられるまま、自暴自棄にそう口走ってしまったのだった。

それなのに。

「ヒロが謝ったの」

半ばパニックに陥り部屋を飛び出そうとした自分を、彼は珍しく強引に胸に引き寄せた。

『ごめんなさい』

いつになく力強い腕に身を縛られ、耳元で響いた声は、まるで小さな子どものようで。愁いに満ち満ちて、弱弱しくて、必死で。抱きしめられているはずなのに、なぜか縋り付かれているような気持ちにさせられ、思いもよらない事態に反動で自分を取り戻した。冷静さが戻るにつれて罪悪感が湧き、元々自分が悪いのだからとその場で素直に謝罪すると、腕の力を緩めた彼がうつむいたままで続けてきた。

『すまない』

その時には、もういつもの彼の口調に戻っていたけれど、伏せ気味の目元と頬に微かなこわばりが残っているのが分かった。

「あんな取り乱したふうの彼を見るのって、初めてで」

言って紅茶を含みながら、頬が熱くなって胸がきゅっと締め付けられる。身もだえしながらも、どこか重苦しく暗鬱として。

「あたし、自分がよくわからない」

「え?」

「なんでもないことでひどく沈んだり、でもちょっとしたことで嬉しくなって復活したり、不安定過ぎてすごく落ち着かないの。彼の傍に居られるだけでいいってずっと思ってたけど、時々それが苦しくて辛い時があったり、でも絶対に離れたくないとも思ってて。自分がこれからどうしたいのか、どうなりたいのか、頭の中がぐちゃぐちゃでわからなくなっちゃった」

「なにかあったの?」

探るように放たれたそれにどきりとして。でも彼女にならと心を決めて口にする。

「この間、プチ同窓会をやってるって話したでしょ?」

「ええ」

「実はね、その発起人の同級生から『俺と付き合わないか』って言われてたの」

え、と怪訝な表情が覗く。

「その人、春からウチの会社に出入りしててね、偶然再会したその時に告白されてたんだ。でもそのあと職場とか同窓会で何度顔を合わせても、特段なにも言ってこないし、昔と同じで気さくなやりとりができてるから、そんなに気にしなくてもいいのかなって」

「それで浩隆さんは、カナちゃんがその集まりに出かけることをどう言ってるの?」

「同級生と会える機会は大事だから、気兼ねなく行っておいでって」

包み隠さずそのまま彼の言葉を引用すると、盛大なため息で返された。

「ずいぶん理解があるのね。大人の対応の見本みたい」

完全に自分と同じ感想が出てきたことに、香奈は密かにほっとする。

「それにしても再会したその場で告白なんて、随分大胆な人なのね」

「高校の時からそんな感じだったよ。ござっぱりした性格だし、言いたいことはきちんと言うし。たまに度が過ぎて喧嘩なんかもしたけど、自分の悪いトコとか、説明されれば納得できたから」

「そうなの。それでも、彼の気持ちには気づかなかった?」

「うん。そんなふうに彼を見たことなんてなかったし」

「なら、その人にはなんて返事をするつもり?」

核心を衝くその問いにぎくりとして押し黙る。

「わかっているけど、わからない?」

的確な代弁に素直に頷くと、ジャスティナは深い息をつきながらソファに身体を預けた。

「カナちゃんは、その同級生さんとの再会のおかげで、欲張りに拍車がかかっちゃったのね」

「え」

「だってその人が持ってるものは、今の浩隆さんに絶対的に足りないものだもの。カナちゃんはきっと、浩隆さんに彼のようになってもらいたいんだわ」

驚いた拍子に、自覚がなかった? と悪戯っぽく聞いてくる。

「これは私の主観でしかないけれど、浩隆さんってあえて感情を抑えてるっていうか、意識的に人との距離と客観性を保つことで、自分自身を頑なに守っている怖がりさんのように思うの。だからいつもスマートな人当りで、クールで、格好よく見えちゃうんだわ。だってそれは彼の『外殻』でしかない、本当の姿は分厚い殻の内側に閉じ込められたままなんだから」

思いのほか、その表現がすんなりと腹に落ちて驚く。

「一緒にいて感じる安心感や幸福感とは別次元で、カナちゃんはありのままの姿の彼を見たい、弱さや我が儘や強引さが欲しい、本心が聞きたいと求めてるのよ。だからなかなか殻を外してくれないことにイラついたり、自分の魅力や力不足なんじゃないかって落ち込んだりするんだわ」

的確な査定に自覚を新たにすると同時に、今までかかっていたもやがさっと晴れたような気がした。

「今のカナちゃんは、色々考えすぎだと思う。大人になるほど思慮深くなるのは必定だけど、ほどほどにしないと物事がすべて停滞しちゃうわ。それに、カナちゃんが浩隆さんに求めているのと同じくらい、彼だって本来のカナちゃんが持つ力を欲して、待っているんだと思う」

「あたしの力?」

「そう。素直で純真で、見たものを見たままに感じて現す感性。それってきっとおひさまの光と同じくらいの影響力があるのよ。浩隆さんはきっとそれに引き寄せられたんだから、カナちゃんは思い出せばいい、取り戻せばいいだけ。だから」

「だから?」

「遠慮なく行ってきたら」

急に、そして至極あっけらかんと、力強く続いたそれに驚く。

「お墨付きをもらっているんだし、飲み会なんて最初からビジネスライクに考えればいいのよ。それに同級生の彼とのことは最初から結論ありき、カナちゃんの『芯』は変わらないんでしょう?」

穏やかな口調ながら、その実まるきり喧嘩腰の発言。過去にも似たような台詞をどこかで聞いた気がして、そうして問いかけにゆっくりと頷く。

「行ってこようかな」

自分自身の想いにきちんと整理をつけて、明らかにするために。

「そうよその意気。そのぐらいやって当然よ」

明らかに強気な自分を真似た口調に思わず吹き出す。

「なんか今のって、ジャスっぽくない」

「そうね。ちょっと……ううん、かなり恥ずかしかった、かな」

ふふ、と笑う。

「無理ってやっぱりよくないわ。私はどうやってもカナちゃんにはなれないし、それこそ唯一無二だもの。だから大事なものを守るために、できるだけの努力をしないとね」

私たちも、と呟いたジャスティナの横顔が酷く冴え冴えとしていて。

こんなふうに、堂々と、自分の心の内を――想いを――再び口に出来るようになったら。

その時こそ、まっすぐに正面から彼に望むことができると思う。

本来の自分に戻れる気がする。

「ありがとう、ジャス」

どういたしましてと笑う義姉に笑みで返し、香奈は久方ぶりに触れた自らの熱情に、ほっと小さな安堵の息を洩らした。




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