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そのごのひろかな -ever after-  作者: 水成豊
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傘 -Retrospective-

いつものように改札を抜け、出口まで進み出て――そこで初めて香奈は気づいた。

「雨……」

空一面に重く垂れ込めた雲は、明らかに通り雨ではない様相で。きっと電車に乗っている間に降り出したのだろう。それに気づかないとは、今の今まで自分は何を見て考えていたのか。そうしてぼんやりと煙る風景を半ば呆然と見遣り、あ、と改めて気づく。

「忘れてきちゃった」

今朝テレビで天気予報を見て、それから窓の外の空の具合を見て確かめて。用心だからと彼にも声をかけて持って出たはずの傘は、折角の出番を奪われ、今頃会社のロッカーでいじけているに違いない。

「ばかみたい」

最近こんな小さなミスや掛け違いが多い気がする。長雨の続く不安定な気候のせいだろうか。時々頭の中がぼうっとして、思考がうまく回らず、やもすれば沈みがちになる傾向が続いている。

いけない、また。

ふる、と頭を振ってもやもやとしたものを追いやる。やっぱり気候のせいだととりあえず結論付け、改めてどうしたものかと考えた。ふと目に入った駅構内のコンビニの看板に、ビニール傘を買って帰ろうと方針を決めて歩きだそうとしたその時。

「あ」

今しがた到着したのだろう、後続の列車から降りてきたらしい人が改札に殺到している。その波が少し途切れたところで、見慣れたいでたちを見つけ思わず声が出た。向こうも気づいたらしく、改札を抜けて上げられた顔に驚きがともる。

「カナちゃん」

片手をあげて合図してきた彼――恋人の浩隆は、自分の名を呼んで嬉しそうに微笑んだ。

「駅で会うなんて奇遇だね。もう少し早く上がれてたら、同じ列車に乗れたかもしれないな」

わざわざ駆け寄ってきて、少し悔しそうに言う。会社はそれぞれ別方向なのだから、一緒になることは決してない。けれど、そんなちょっとした冗談に笑みが漏れた。

「雨、やっぱり降ったね」

直後目を移した外の風景に、彼の眉間に微かな皺が寄る。

「でも、カナちゃんに言われたとおり、傘を持って出て正解だったな。今のうちならまださほど濡れずに帰れそうだ……って、あれ、傘は?」

「えっと……会社に置いてきちゃったみたいなの」

苦笑交じりに答えるが、まるで他人事のような台詞だなと自分でも思えた。それに気づいたのだろう、彼が小さく首を傾げる。

「仕方ないから、ビニ傘でも買おうかと思……」

「なら丁度良かった。僕の傘で一緒に帰ろう」

先ほど決めた方針を途中で遮ってきた台詞に、今更のように驚く。

「大きめの傘だから、二人で入っても大丈夫だと思うよ。小降りになってる今のうちに、ね」

にこ、と笑うや自分の手を引いて歩き出す。出口のひさしまで出たところで、ゆっくりと傘が開かれた。

「さ、どうぞ」

「いいわよ。相合傘なんて、恥ずかしいし」

気にしない気にしないと、器用に傘を持った手で背中を――勢いを押され、なすがまま二人で並んで歩き出す。車道を跳ねる水音を聞きながら、家までのほんのわずかな道のりなのに、周囲がひどく気になって仕方がなかった。自らの照れくささというだけではなく、明らかに見られている気配を感じるのだ。

こういう時、大抵視線を集めているのは彼の方。長身に薄い髪の色、そして眼鏡のイケメンとくれば、誰でもひととき目を奪われることは必至で。その隣にいる自分が、他人にどんなふうに映っているのか、どんなふうに思われているのかを想像しただけで、最近は心の中がどんよりする。世の中には美人でスタイルがよくて聡明な、それこそ彼の容姿に釣り合う女性は山ほどいるだろうに、本当に自分でいいのだろうか、とそんな風に考えてしまうのだ。

あ、だめだ。

淀み曇る心。今すぐに、どこかに身を隠したくなる、そんな衝動が湧く。

「そういえば、前にもこんなことがあったよね」

けれど、歩きながら唐突にかけられた言葉に、はっと我に返った。

「再会して間もなくの頃かな。連絡をもらって、雨の中を迎えに出たことがあったじゃないか」

その言葉によみがえった思い出。初夏の雨、二人並んで歩いた記憶。

「覚えてたの?」

「もちろん。だって、カナちゃんとお近づきになれた日だったからね」

そう言う横顔はほころんで穏やかで。自分にとっては忘れようもない大切な思い出だったが、彼にとっても同じだったことを初めて知る。途端に心が浮き立ち、頬が熱くなるのがわかった。

「そう、なんだ」

ひとり小さく繰り返し、なおも思い出す。

雨というきっかけを得て近付いた距離、初めて親しげに彼の名前を呼んだ瞬間。

思い出に浸りながら、先ほどまでの暗い思考が嘘のように、喜びが全身に満ちて表情が緩む。思わずちら、と窺い見て。

「どうかした?」

視線に気づいた彼が聞いてくる。

「ううん、なんでも」

ふふ、と笑顔が滲んだ。

嬉しい。

単純に、ひたすら、同じ思いを共有できたことが嬉しい。

あの時と同じく触れる肩。そうして自覚する彼への――。


ぶぶ……


幸福感に浸りかかった瞬間、鞄の中に入れていた携帯が短く震えたのが分かった。

「あ」

ぎくりと反応すると同時に、背中に嫌な悪寒を覚える。

「カナちゃん?」

不思議そうな視線にうつむいて。

「なんでもない」

心の中で自分を非難しながら振り払い、そうして身を擦り寄せた。


いっそ、降り続いてくれればいい。

そうすれば、取り戻せる。


再び胸に広がった何かを押し込め、香奈は静かに降り続く雨にひそやかに願った。



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