会 -key-
ちゃり。
会社の敷地を一歩出た歩道。帰宅を急いで半ば走っていた香奈は、家の鍵を落としたことに気づいて振り返った。
「あ……」
落ちた場所から大分進んでしまっていたたため、すぐさま拾いに戻る。鮮やかな夕日の赤い光に照らされ、きらりと反射した『それ』を確認してほっとした瞬間、自分よりも前にそれを取り上げる人の姿が目に入り、慌てて数歩手前で立ち止まった。
「これ、落としましたよ」
スーツ姿に、図面筒と大きな鞄を肩にかけた青年。
「高遠さん」
名を口にされたことに驚きつつ、鍵を手にして上げられた顔を目にするや、直後あっと小さな声が漏れた。
「よっ! 香奈、久しぶり」
「博……之?」
まさかの高校時代の同級生――井上博之との思いがけない再会に、ひと時言葉を失う。
「お前も、今帰り?」
「あ、うん。それより、なんでウチに?」
「俺、今年建設会社に就職してさ。まだ新人だし営業も兼務してるけど、今度この会社で別棟の一部を改修するんだろ? その設計やらなんやらの打ち合わせに参加させてもらってんだ」
「別棟って……あたし、今そこで仕事してるんだけど」
「えっ、本当かよ」
「うん」
「そっかー。知り合いがいるとか、すっげー安心するわ」
にかっと白い歯を見せて屈託なく笑う姿に、ひととき昔を懐かしむ。
高校一年の春、入学直後の研修で初めて出会い、同じ運動部という共通点を得て友達になった彼。当時と変わらぬ人懐っこさに、確かに営業マンにも向いてるかもと一人納得する。
「打ち合わせが今しがたまでかかってさ。やっと解放されたんだ」
言いながら肩から提げた荷物を抱えなおす。
「新入社員は色々大変ね。カバン持ちかー」
「うっせぇな。香奈だって今年就職したばっかでまだ下っ端なんだろ。人のこと言えるかよ」
ブスッと頬を膨らませていじける姿に、思わず吹き出してしまう。こざっぱりした明るい性格は変わらないな、と好感が持てた。
「5月に入ってから、何度かここに来させてもらってたんだけど……いつだったかお前と偶然廊下ですれ違ってさ。あれ、もしかしてって思ってたんだ」
「そうなの?」
「髪も短くなってたし、すげー綺麗になってたからさ、正直見違えた」
「お世辞でもありがと。あたしは全然気づかなかったなー」
「なんだよお前、高校の同級生との感動の再会シーンだったっつーのに、完全に眼中になしかよー」
「だって卒業してから随分経つから。博……之も結構見た目変わったし、スーツ着てピシッとしてるっていうか、大人になったなぁって」
素直な感想を述べると、ひそりと眉を寄せつつその面になぜか苦笑が浮いた。しかし次の瞬間、何事かを思案する顔つきに変わったことに気づく。
「なぁ、香奈」
「ん?」
「お前さ、今夜これから予定とかある?」
「これと言って、特にはないけど」
「そっか。なら再会を祝して、二人でどっか飲みに行かね?」
唐突な誘いにぽかんとしていると、彼がぷっと吹き出した。
「お前って昔っから反応がいちいち素直だよな。裏表がないっていうか嘘つけないっつうか。そういう意味では、俺的には好感度大だったんだけど」
含ませた言い方に首を傾げつつ、旧友との再会は嬉しいが今は――と脳裏に浮かんだ面影の主を思う。途端湧き上がった思慕に、やっぱり断ろうと決めた直後、自分が口を開く前に彼が先行した。
「折角こうして再会出来たんだし、多分これからも顔合わせると思うし……俺、悶々とするのは好きじゃねーから、この際ハッキリ言っとくわ」
そうして、至極真剣な眼差しを向けられる。
「俺と、付き合わない?」
「は?」
思いもよらない言葉を突き付けられて、激しく動揺し頭の中が真っ白になる。
「なんで、突然、そんな」
「いや実はさ、俺、高校の時からお前のことが好きだったんだ。努力家できちんとした美人なのに、すげー気さくでサバサバしてたし、部活も隣同士で、話も盛り上がって楽しかったし。お前となら、真面目に恋愛できるかなーって」
初めて聞く彼の心中、そして唐突に向けられた告白に戸惑う。高校時代の彼は、それこそ裏表のない性格で男女問わず人気者だったはずで。むしろ交際する相手を選ぶには事欠かなかったはずなのに、そういえば浮いた話をついぞ聞いたことがなかったなと思い出す。
「でも……なんでよりにもよってあたしなの?」
「惚れたから、だけど。他に理由いる?」
あっけらかんと事もなげに放ってくる大胆さ。瞬時に顔が赤く、熱くなったのが自分でもわかる。先ほど考えていたはずの断り文句を見失い、困り果て返答に窮していると、彼も照れくささを執り成すように頭を掻き、そうして懐から名刺を一枚取り出した。
「しばらくの間は、出入りさせて貰う予定だから」
そう言いながら、裏に番号とアドレスを書く。
「考えといてくれねぇかな。返事はその気になったときでいいし、それまでは……まあ今までどおり友達として接してくれれば、それだけでも嬉しいからさ」
そうして拾った鍵と共に掌に乗せてきた。
「じゃ、また」
されるがままにそれを受け取り、それ以上何も加えずに駆け出した彼の背を見やる。走り去るその影が、通りの向こうに消えた頃、半ばぼんやりとしながらふと視線を手元に落とす。
そうして掌の中に収まった紙片に並んだ文字と共に、鍵に括りつけられたそれが目に入って。
「あ」
途端に我に返る。激しくどきどきと打つ鼓動を覚ると同時に、思い起こした彼の姿。自分を呼ぶ声。
「帰らなきゃ」
言葉に出すや身の拘束が解け、弾かれたように駆け出す。
直後、彼の元へと向かうその足に感じた違和感。
心の奥に灯った淀んだ重み。
「帰らなきゃ」
もう一度口にして戒めても拭いきれない何か。
大いなる気の迷いだと無理矢理思い込むことにし、香奈は夕暮れの通りを家路に急いだ。