話 -an oath-
「明日なんだけど、ちょっと出かけてきてもいいかな」
唐突なそれに、首を傾げて続きを促す。
「移動もあるから、最低でも午前中いっぱいぐらいはかかると思うんだけど……会って話したい、大切な人たちがいるんだ」
「え」
思わず声が漏れた途端小さく笑われる。きっと無意識に不安が覗いてしまったのだろう。心配しすぎる自分を恥じて身を縮こめた。
「ここまでの経緯と、入籍の報告をしてこようと思ったんだ。よかったらカナちゃんも一緒に行く? 皆に紹介するから」
相手の素性は未だ知れないが、自分を誘ってくれたのは――自分のことを知らしめようとしてくれているのは嬉しい。でも、としばし考え、ふと妙案を思いついた。
「ううん。あたしは家で留守番してる」
「そう。じゃ、朝食が済んだら行ってくるね」
言いながら向けられた笑顔が、いつになく柔らかでどきどきする。一瞬自分の策に後ろめたさを覚えるが、結局は好奇心の方が勝った。
「行ってらっしゃい」
次の日、同じ台詞で彼を送り出し。
そうして、ひそかな旅は始まった。
****************
日曜日の朝の最寄り駅。
自宅で彼を送った後、香奈はすぐさま続いて家を出た。動きやすい服装に、深めにかぶったキャスケットで顔を隠しカムフラージュする。気づかれないよう慎重に距離を取りながら、遠目に彼の背中を追った。
どこまで行くのかしら。
彼は『大切な人たち』に『入籍の報告』をすると言っていたから、相手は会社の同僚とか、学生時代にお世話になった面々といったところだろうか。けれどもそれならば、わざわざ遠回しな表現をする必要もないだろう。改札を抜け、人込みに紛れて階段を上りながらさまざま推測するが、さすがに判断材料が少なすぎた。
ま、ついて行ってみれば、じきにわかるでしょ。
たどり着いたホームで推理を諦め、入ってきた目の前の車両に乗り込む。連結部近くに立って、隣の車両に乗り込んだ彼の動向を覗いながら、目的地の知れない旅へと出発した。
通勤で使う路線だが、今日は逆の方向。その後別の路線を乗り継ぐにつれ、ふと既視感を覚えた。
あれ? この経路、どこかで……。
そうしてやがて聞こえてきた車内アナウンス、次の停車駅の名前を耳にするや一瞬で思い出した。
本格的に交際をスタートさせた頃、誕生日に彼が海へ連れて行ってくれたことがあった。電車を乗り継いで、都内から小一時間ほどで着いた海沿いの街、波打ち際の情景。きらきらと夕日を反射していた水面の像と共に、ひどく甘やかな思い出が脳裏をかすめる。
にわかに火照った頬を慌てて押さえていると、列車が停車するなり彼が動いた。慌ててそれを追い、改札を抜けて駅舎の表側に出る。
老若男女、特にも観光客らしき様相の人々が多く集っている駅前広場。その一角にあるバス停の前に彼の姿を見つけて、どうしたものかと少し思案した。
……もう、なるようになれっ!
変装してるんだしと、無理矢理自負をかぶせて思い切り、バス待ちの列に自分も列ぶ。やがて滑るように入ってきたバスを前に、いよいよ緊張が高まった。
乗り込む人並みに押され、彼は前方のスぺースに流され立っている。なら自分は後方にと画策するも、結局後続に押され、よりにもよって彼の真後ろにまで追いやられてしまった。
目と鼻の先――正確には間に人一人を挟んでの背中合わせ。緊張に高く打つ自身の鼓動をひたすら聞きながら、街並みら海沿いに変わった風景を見つつしばらく進むと、ふと車内に電子音が鳴り響き停車が予告された。
徐々に速度を落とし、パン屋の前で完全に止まったところで彼が降りていく。何人かの客の後に続いて、自分もすかさず降り立った。
既に十数メートル先を歩いていた彼の姿が、ふと商店の角を曲がり見えなくなる。追いかけると、その先には狭く緩やかに上っていく小路が続いていた。およそ土地勘のなさそうな地域なのに、と首を傾げつつ、住宅が並ぶ区域の小道を、姿を追って縫うように渡って歩く。
そうしてやがてたどり着いたその場所と、突然こちらを振り返った彼に、すっかり油断していた香奈は飛び上がるほどに驚いた。
「カナちゃん」
山門の階段前に立ち、自分を呼ぶ声が心底楽しげで。面に浮いたいたずらめいた笑みに、自分が彼の策にいつの間にかはめられていたことを察してムッとする。
「いつから気づいてたの」
「そうだね……バスに乗った時かな」
明らかにはぐらかす口調に、本当はもっと前から気づかれていたのだと確信する。自分の尾行センスのなさにがっかりしつつ、いいように試されていたことへの憤懣と羞恥がないまぜになった。
「僕が誰と会おうとしてるのか、どこに行くのかがそんなに気になった?」
少々自惚れな問いかけだが、図星を衝かれて言葉に詰まる。しかしながら真正面から肯定する気にもなれず、彼の傍まで歩み寄ると強がりに返した。
「ばか」
「はいはい」
言いながらキャスケット越しに頭を撫でてくる。優しげな笑みをも向けられて、少し心のトゲが和らぎ素直になった。
「騙し討ちみたいについてきてごめんね」
「そんなの全然気にしてないよ。それよりも、せっかく合流したんだから、ここからは僕に付き合って」
ちょっと待っててと言い残して階段を上がり寺の敷地に入る。本堂の右手にある寺務所へと駆けて行くのを見送り、しばらくそのままで待っていると、小振りな花束を手に戻ってきた。
「どうしたの、それ」
「ここの大黒さんは、僕の母の同級生でね。今日来ることを伝えておいたんだけど、わざわざこれを用意しておいてくれたみたいなんだ」
こっちだよと手を引かれ、敷石の敷かれた庭を渡り本堂の裏手へと回っていく。目の前に広がったそこには、初夏の日差しに照らされて輝く墓石がいくつも並んでいた。
「まさか、お墓参り?」
ああ、と答えながら通路をすいすいと進み、そうしてじきにとある区画の前で立ち止まった。
「ここだよ」
目で促され、石に掘られた文字に視線を移して驚く。
「ここには僕の母と、祖母と……ヨウコウ先生がいるんだ」
ほんのかすかに強張ったように見える横顔。ゆっくりと段差を上がり、手にした花を手向ける様子を、香奈はただ背後から見守った。
「驚いた?」
ゆっくりと進み、隣に並ぶ間に改めて問われ、こくりと頷く。
「だって、この街に縁があったなんて、全然知らなかったもの」
「まあ、戸籍を詳しく遡らない限り、この街に行き当たることもないだろうからね」
「じゃあここがヒロの……国枝の家のルーツなの?」
「ああ。僕は幼い頃、母とヨウコウ先生と共にこの街で暮らしていたんだ」
すんなりと口にされた事実。初めての、生活感を伴う過去の告白に心底驚く。けれど同時に違和感も覚えた。
「ねぇ、ヨウコウ先生って誰? 国枝のお墓に入っているのなら、ヒロの近しい身内じゃないの?」
それはきっと核心を衝く質問だったのだろう。彼の顔から笑みがすっと消えて、代わりに苦さが口元に滲む。
「ヨウコウ先生はドイツ出身の医師でね。日本が大層気に入って、帰化後に『国枝陽光』って日本人の名乗りを上げたあと、同僚の看護師と結婚して一人娘をもうけたんだ。それが僕の母だよ」
墓石の傍にある戒名板に刻まれた三人の名。そのうちのひとつが彼の母親の名なのだろう。
「じゃあやっぱりヒロのおじいさんなのね」
「祖父、ね……それはどうかな」
「え?」
「僕は孫と認められていない存在だったから」
口調はさらりとしているが、明らかに表情が強張っている。未だ秘めたものが何事かあるのだろう、辛そうな面持ちに心中を察し、これ以上掘り返すことはすまいと思ったその時、彼が深い息を吐いた後で自ら言葉を継いだ。
「母が病気を患っているのが分かった直後、僕ら母子は先生に呼ばれて、この町に移り住んだんだ。先生はその時既に祖母を亡くしていたから、医師として、父親として、家族には出来る限りのことをしたかったんだと思う。けれど手当の甲斐なく母は亡くなって、僕はヨウコウ先生と二人暮らしになったんだ」
そこで一度話が途切れる。さわりと風が通って、あたりの木々の葉が揺らいだ。
「先生は母を心から大切に思っていたんだ。だからなおさら、元々身体が丈夫でなかった母に、余計な心労と生活の苦労を負わせて、病気に追い込んだ僕を許せなかったんだと思う」
「だってそれは」
ヒロのせいじゃないのにと、言いかけたところを視線で制される。
「同居を始めた時から、僕と先生との関係はぎくしゃくしていたけど、母が亡くなって以降は尚更、彼にとって僕は完全に他人だった。衣食住の提供と引き替えに僕が得た役割は、先生が開いていた診療所の診察補助と雑用、そして家事とはっきり決まっていたからね。それ以外の家族らしい交流なんて皆無だったよ」
それを聞いて、彼の持つとある傾向に合点がいく。だからあんなにと、慣習づけられたその容赦のなさにおののいた。
「ただひたすら機械的に過ぎる毎日。自分がどうしたいかなんて、そんな意識や思考は、当時の僕の中には一切なかったんだよ。1年ぐらい経って、そんな状況を見かねた伯父が僕をドイツに連れて行ってくれた。向こうで、母が亡くなって以降身近になかった『生活』を、その匂いを味わわせてくれた。だから、今更だけど……伯父たち一家には感謝してるんだ。本当に」
そう言った彼の表情が少しだけ緩み、こちらもほっとする。
「でも、ドイツに渡って10年が経った頃かな、先生が倒れたという知らせが伯父の元に届いてね。その時にはもう、手の施しようがない状態だったから……だから僕は、せめて最後に彼に問おうと決意したんだ」
「もしかしてそれが帰国の理由なの?」
「そう。すべてにケリをつけようと思ったんだよ。帰国した後、僕は先生が入院していた病院に向かった。ベッドに横たわる彼はひどく痩せていて虚ろで、まるで母の死に目と同じだった。けれど僕を見るなりその目に力が宿った気がしたんだ。だから直接問いかけたんだ。『僕はどんな存在なのか』って。そうしたら……」
「なんて?」
「『お前はお前でしかない。私が定義づけるものではない』ってばっさりだよ。結局最後まで溝は埋まらなかったし、答えもくれなかったんだ」
盛大な苦笑が漏れ出す。
「その後だよ、君に出会ったのは。正直、あのころはどう生きたらいいのか分からなかった。けど、君の兄さんになんとなく興味が湧いて、そして……君に出会って心を惹かれて。多分無意識的に、こんな生き方ができたらいいのにって憧れを持つことができたんだと思う。それをはっきり自覚したのは、それこそつい最近だけどね。本当に君の言うとおり、僕はひどく鈍感なんだなぁ」
そういう彼の表情は、もういつもの穏やかさを取り戻していて。間近にそれを見ながら小さな息をひとつ吐いた後、香奈は彼にゆっくりと向き直った。
「ヒロが自分から昔のことを話してくれたの、初めてね」
途端、彼の顔に驚きが灯る。
「あたし、ヒロが言いたくないなら無理矢理聞き出すようなことはしない、ずっと知らないままでもいいって思ってた。でも、いざこうやって話してもらえたら……なんだかすごく嬉しい」
「嬉しい? どうして」
「だって『話して』くれたのよ? 今更過去を変えることなんて絶対にできないけど、どんな過去であれ自分を形作ってきた歴史を話してもいい、さらけだして共有してもいいって思ってくれたってことでしょ? きっと他の人にはない特別だから、だからそれが嬉しいの」
包み隠さず伝えると、そこで初めて彼が顔を赤くした。この期に及んで羞恥が生まれたらしい。そんな反応を小さく笑う。
「まいったな。こんなに話すつもりじゃなかったのに。でも」
「でも?」
「ほんとうは、多分、話したかったんだと思う」
少し照れつつも、彼は素直にそう認めた。その答えに満足して誇らしげに胸を張ろうとしたその時、突然肩に手を回され強く引き寄せられる。
「先生、朋恵さん、そして、母さん」
ぐっと精悍さの増した横顔をすぐ側から見上げてどきりとする。
「彼女が僕の、一番最初の家族です」
「え」
「あなたがたがここに根差したおかげで、僕は彼女に出逢うことができました。そして今こうして家族を紹介することもできる。だから……心から感謝しています。生前には言えなかったそれを言いたくて、今日はここに来ました」
一呼吸の間を置いて。
「ありがとう」
放たれたそれに胸がきゅっと締め付けられる。目の奥がじんわり熱くなって――いや、こらえきれずに涙がこぼれた。それを拭おうと慌てて手を上げるも、途中で彼に制されてしまう。
「なんで香奈ちゃんが泣くの」
「だって、なんか感動しちゃって」
続けざまにぽろぽろとこぼれるそれを、彼の大きな手が拭ってくれる。長い指が優しく繊細に頬に触れている、その感触がたまらなく心地よくて、ゆっくりと目を閉じるとなすがままに身を任せた。
「あの時」
ふとその指の動きが止まり、香奈は「え」と瞼を開ける。
「初めて出逢った時……君が僕に微笑んでくれなかったらどうなっていたかなんて、今じゃ全然見当もつかないな。そういう意味では、あれが僕の人生最大の転機で、そしてすべての起点だったんだと思う」
優しく懐かしげな、耳に触れ心へと落ちてゆく声に、とある決意を揺り起こされる。
そうして、決めた。
「違うわよ」
「え」
「きっと自覚なんてないんだろうけど……あたしはあの時、ヒロの笑顔につられたの。だからあれは、その、たぶん……」
「たぶん、何?」
「ひ……」
「ひ?」
「……ひとめぼれ、だったのっ!」
羞恥のあまり半ば自棄になって言い放つと、彼がきょとんとした顔を見せた。
「改めて考えたらそうとしか言いようがないのよ! し、仕方ないでしょっ! 自分のことがまるでわかってないイケメンに、間近であんな無防備な笑顔見せられたら……女子高生のハートなんてものの見事に持って行かれちゃうわよ! ああもう、ホント女心に鈍いんだからッ!」
身の内にあるすべてを言葉にした途端、余計に身悶えが増した。プロポーズされた直後から、思っていることはなるべく言葉にして伝えようと心掛けてきたのだが、こういう類の話だけは未だどうにも苦手で、正直言って辛い。もぞもぞと身体を動かして誤魔化そうとしたが、未だ呆けたままの彼の様子に更なる羞恥心を煽られて、思わず言葉が喧嘩腰になった。
「ちょっと! 何か言ったらどうなの」
「……同じだよ」
「え?」
「僕も、同じだ」
至極真面目な顔で返されたそれに、思わず眉を寄せる。
「あの時、君が自然体で接してくれたから。だからほとんど意識せずに済んだんだ。それこそ無自覚の美人に、間近であんなかわいい微笑みを向けられたらね、落ちない方がおかしいよ。そういうのって……一目惚れって言うんだよね」
「もしかして」
「そうだね」
「なら、あたしたち最初から」
「そういうことになるだろうね」
「……そういうことは、早く言ってよっ!」
「ごめん」
まるで道化のようなやり取りに、これまでの経過が走馬灯のように脳内を巡って愕然とする。
けれど胸の奥には確かな喜びが満ちていて。長い長い回り道も、今ここに至れば、自分達には必然だったのかもしれないと、そんな風に思えてきた。
「話してくれてありがとう」
言いざま彼が自分を引き寄せて髪に頬を寄せてくる。一層近くに感じられる体温と、より深く繋がった絆。
「ありがと」
だから香奈もありのままの感謝を返す。
思い、想われて。それでいてささやかで、なにげない、そんな共有。
この先もずっと、そうでありたい。
このひとと共に、そうありたい。
ただひたすらの願い、尽きることのないそれを胸に抱きながら。
二人は心からの笑みと誓いを、やわらかに重なった視線のうちに強く交わした。
- "happily" ever after ! -




