満 -namida-ame-
ざあざあと激しい雨脚がベランダを叩く。
寒気の張る真冬には極めて珍しいその光景を見つめ、香奈は漣立つ何かを身の内に感じていた。
いや、それは今に始まったことではなかった。昼過ぎに彼を送り出して以降、言い表しようもない何かにずっとせき立てられている。
『夕方から、ちょっと用事があるんだ』
彼――浩隆はそんな一言だけを残して出かけていった。
スーツ姿に張り付いたいつになく硬い表情。全身から漂ってくるあきらかな緊張感に、かける言葉を失い胸騒ぎを覚えたが、この季節はずれの激しい雨を予感させていたのだろうか。
外はもう暗い。それに傘を持たずに出たはずだから、きっと途中でタクシーでも拾って帰ってくるだろう。落ち着かない心持ちに最善の予測を被せ、午後7時を指した時計を見遣ったその時だった。
ふいに玄関の扉が締まる音が聞こえて思わず駆け出す。お帰りなさいと出迎えるやいなや、視界に入った姿に驚いた。
「どうしたの、それ……」
帰宅した彼は濡れ烏そのもの、黒いコートの裾からぽたりぽたりと滴る雫が、絶え間無く足元に染みを作っている。扉を閉めた姿勢のまま微動だにせずうつむいていたが、じきにゆっくりこちらを向いた。
「ああ」
問いに対する答えではない、まるで今初めてこの場所を認識したかのような声色。対峙した能面のような顔つきにぞわりと肌が粟立つ。
「とにかく早く拭かなきゃ。風邪ひいちゃう」
背筋を伝う冷気に弾かれ、タオルを持ち出そうと身を翻したその時、思いのほか強い力で手を掴まれ引き寄せられる。背中にぶつかる衝撃を感じた直後、胸の前に回されてきた腕にそのまま捕われた。
「痛……」
身じろぎすら叶わない程のきつい抱擁。息苦しさと軋みを訴えるも、彼からはなんの反応もない。動きを完全に封じられ、半ば諦めが先行したその瞬間、密着した身体が突然がくりと崩れ落ちた。
二人分の体重を支え切れず、強く尻餅をつくと同時に、左頬に触れた濡れ髪から雨の匂いが漂ってくる。ぐっしょりと重くなったコートの水気が背中越しにどんどん染みてきたが、放してくれそうな気配はまったくなかった。
こんなふうに――まるで縋り付くかのように抱かれるのは『あの日』以来で。理由を知りたいと思っているのに、きりと張り詰めた空気に、言葉も、声すら空に散ってしまう。外で激しく打つ、みぞれが混じり始めたらしい雨音を聞きながら、なすすべもなくただ身を任せる時間だけが過ぎていった。
「会ったんだ」
ふと、こめかみのあたりにかすかな呻きを覚る。
「父という人に」
半ば掠れたその言に心の底から驚いた。
どんなに関係が深まろうとも――結婚を決意した後でさえ――一度たりとも口にされたことのなかった存在。ゆえに決して触れてはいけないのだと思わされてきたそれが、今彼自身の口から明らかにされようとしている。その気配を察して思わず身体に力が入った。
「どうして、急に」
「今日、さる育英基金の特別奨学生の集まりがあってね」
「育英……?」
「学生に対して、修学や研究費用を給付する民間の制度で、各分野で大勢の学生がその恩恵を受けている。僕もその一人だったんだ」
これも初めて聞く話。学生時代の彼がそれだけ能力評価され、その研究内容も含めて給付――実質的な投資――に値すると認識されていた証だ。
「その基金の賛同者の中に、僕の父という人がいたらしい」
「え」
「この間、伯父にそのことを教えられたんだ」
そうしてふいに思い出す。
二週間ほども前になろうか。年が明けてすぐ、ドイツに住む彼の伯父から電話があった。受けた直後こそ久しぶりの身内との会話を喜んでいる様子だったのに、ふとした瞬間から、その表情がみるみる凍りついていくのが窺えて驚いたくらいだ。
まるで昔に戻ったかのような――高校時代、初対面で感じた冷たい壁、どこか近寄りがたい雰囲気。あの時煽られた何かが、いまこの瞬間に至る布石だったのだと分かれば合点がいく。
「集まり自体は毎年あることだけど、通知が来るたびに僕は欠席し続けてきた。実際、学業も仕事も忙しかったしね。けれど……今回その人が初めて顔を出すという情報を、伯父はどこからか得たらしくて、あの夜連絡を寄越してきたんだ」
そうして、耳元で深い息が吐き出される。
「会場では奨学生も賛同者も入り混じっていてね。一体どの人なんだろうって気にはなっていたよ。とはいえ母からは、存在も含めて一切教え置かれていなかったし、伯父は何かを知っているようだったけど……だから実際はそれ以上どうしようもなかったんだ。そのうち場に居るのも苦痛になってきてね、もう帰ろうと廊下に出たところで、突然ある男性から声をかけられた」
どきり、と心臓が大きく跳ねる。
「『きみが国枝君だね』って、初見ではっきりと言い切られた。背が高くて、スーツ姿が板についた、優しそうな面差しの人でね、『くれぐれも身体を大事に励んでくれ』とだけ残して去っていった。どこかで見た顔だなと思ったけど、向こうは名乗りもしなかったし、思い出せなかった。けれど……なぜだか分からないけど覚ったんだ。ああ、この人がそうなんだって」
ぐ、と更なる力が身体を締め付けてくる。
「そのあとのことは正直よく覚えてないんだ。いつ外に出たのか、どうやって……途中で何か見かけたような気がしたんだけど……なんだったかな、忘れちゃったよ」
布地ごと肌に食い込んでくる、肩を掴んだ手。加減のないそれと少し舌足らずな語末に、幼児性をひとときかいま見る。
「いまさら何のつもりだよ。かあさんは僕のせいで病気になって死んだ。今までずっとそう思ってきたし、みんなしてそう言ってたんじゃないか。なのになんで……今になって姿を現すなんて。一方的に現れて去った人間の事なんて、どうやっても責めようがないって言うのに、あの人も伯父も、僕に何をさせたいんだ。一体、僕にどうしろっていうんだ」
激しい混乱と共に言葉が霞んでいく。幼くして最も近しい肉親との永別を経験し、無防備にさらされた彼の心は、その時の周囲の反応を敏感に捉えていたのだ。自分に向けられる奇異の目、無言の誹謗、いわれなき中傷。賢い彼ならなおのこと、それらを多感過ぎるほどに受け止めたに違いない。
ああ、なんてこと。
死は誰のせいでもなく、まして彼が原因などではないのに。誰もがいずれ知ることだが、幼くしてそのトラウマにとらわれた彼には、今更そんな理屈が攻を奏するとは思えなかった。
内罰と贖罪を、一人収め続ける苦痛はいかほどであったろう。そしてどれほど孤独であったことか。彼の内からにじみ出ていた近寄りがたさ、決定的な距離感は、自らを母の死と結びつけた彼なりの、他人に対する思いやりの現れだったのかもしれないと、今ここに至って唐突に理解する。
そして誰も――養護してくれていたという彼の伯父たちですら、そんな馬鹿げた呪縛から彼を解き放つことはできていなかったのだ。
知らなかった。
自分はなにひとつ、知らずにいたのだ。
頑なな秘匿と表裏一体の空虚、喪失の深さに初めて触れ、香奈は心底おののいて、まるきり思考を失ってしまった。
真冬に降りしきる雨、激しく打ちつけるその音をただ茫然と聞く。
それから一体どのぐらいの時がたったのだろうか、自分を抱く腕の力が僅かに緩み、耳の後ろに緩い呼吸を覚える。次いで首筋にやわりと触れてきた感触にどきりとした。
まるで温もりを求めてさまようような、触れ合いを切望する動きに、途端湧いた身体の熱と自身の拍動がことさらに意識される。
「生まれてくれたから……あたしはあなたに出会えたの」
すると自然に言葉が滑り出た。それが届いたのか、探る唇の動きが止まる。次第に腕の拘束も弱まっていき、やがて完全に解けた。
そうして自由を得たところでゆっくりと彼を振り向き、今まで窺えなかったその表情に初めて対面する。濡れ、乱れて散る前髪の間から覗く瞳。そこに点った怯え、戸惑い、恥じらい、そして切望の光。まるきり幼子と同じ純真そのもののそれに、一瞬で心も視線も感覚も、すべてが奪われ引き寄せられた。
「ひろ」
そうして真正面から向かい合う。
「あたしにとっては、今ここにいるあなたがぜんぶなの」
冷えた頬を両手で挟み込んで、未だ定まらずに揺らぐ瞳をまっすぐに見つめる。そして、まぎれもなく己の内に湧く真実を告げた。
「どんなあなたも、だいすきよ」
言うやそっと唇を寄せる。すると、ひくりとちいさな反応があった。
「かな……」
触れたそれが離れるや、瞳に、声に彼が帰ってくる。視線が自分を捉えてやっと重なり、心底ほっとした。
「また、救われた」
安堵の息遣いと共に、向けられたその表情がゆったりと緩む。
「君は僕をありのままに許し容れてくれる。本当の僕に導いてくれる。初めて会った時からずっと……僕に表情を思い出させて、感情を蘇らせて、ここに在りたいと思わせてくれるんだ」
直後彼の表情が大きく歪んだ。これまで堪えていた何かが瓦解するかのように、双眸から瞬く間に涙が溢れ出し頬を伝う。
「だから、失いたくないんだ。もう」
言って再び抱き寄せられる。
なんて愛おしくて、愛しいんだろう。想い、彼を同じ力と優しさで抱き返す。
「僕が今までどんな風に生きて来たか、何があったか、すべては話せないかもしれないよ」
「いいわよ、言いたくないなら言わなくたって。そんなのヒロの自由だもの」
「逆に、今日みたいに勝手に取り乱したり、突然振り回すかもしれない」
「そんなこと、今までだってなんの予告もなしにしてくれたじゃない。それなりの覚悟は持ててるし、それ自体が『あなたらしい』って範疇よ」
ふふ、と彼が笑う。
「まいったな、ぜんぶ見抜かれてる」
当たり前よ、と返しながら、いつものやりとりが戻ってきたことに嬉しくなる。
「格好よくなくても、情けなくても、どんな姿でも構わないから。ずっと本当のヒロのまま、あたしと一緒に生きていて」
すると明らかに彼の肩が震え出した。低くかみ殺すような嗚咽。今までずっと、こんなふうに密やかに、知られぬように一人泣いてきたのだろう。背中に回した腕に力を込めてそれを受け止める。
自分にどれほどのことができるかなど分からない。もしかしたら、一生かけても彼の喪失を埋めるには至らないかもしれない。
でもね、ともう一度。
「あなたのぜんぶが、だいすきよ」
まぎれもない想いを、再び放つ。
だから二人で共に。
何度涙雨に打たれようとも。
生きて行こうと、決意した。




