始 -Uncertain scale-
「国枝」
5月初旬、夕方のミーティングルーム。
打ち合わせ後のホワイトボードを拭いていると、ふいに背後から名を呼ばれた。
「はい?」
「お前、特定の相手はいるのか」
室内に残っているのは自分ともう一人だけ。予想だにせぬ問いかけに思わず身体ごと振り向くと、見遣ったその先で、チームリーダーの三上が書面に目を落としたまま続けてきた。
「唐突に何事かと思ったか?」
「はい」
正直な奴だな、と苦笑しつつ顔が上がる。
「では聞こう。今回の事業の経過については知っているな?」
「ええ」
頷いてひととき思い起こす。
昨年までの数年間に渡り、社内で事前準備と調整を進めてきたプロジェクト――大学との共同研究事業は、新しい年度を迎えた4月から本格的にスタートしていた。
これに合わせ、各部署から選抜されたメンバーによる特別チームが再編成され、準備段階から関わっていた浩隆も、本来の職との兼務という形で継続参加していた。
「お前が相手の大学出なのが幸いして、今のところ目立ったスケジュールの遅れはない。俺は今年から混じった身だが、随分楽をさせてもらってると感じるよ。それで、本題だが」
「はい」
「事業全体の指揮を任された俺には、当然各所属の長に代わって、選抜されてきたメンバーをマネジメントする職責がある。ウチもWLBに本腰を入れはじめたから、管理職は仕事の影響が部下の私生活に及ばないよう、極力配慮しなければならんのだ」
なるほど、と納得と共にイレイザーを片付けて席へと戻る。
「直属の上司から情報を貰えばいいんだろうが、俺は、そういうのはなるべく本人から直接聞きたい主義なんだ。しかしながら、お前だけはどうも……人当たりはいいのに、生活感が窺えないというか、近づきがたいオーラがあるというか、なんとなく話題を切り出しづらくてな」
困ったように頭を掻く三上に、同じチームと言えども未だそう映るのかと、少し複雑な気持ちになる。
「だが、ひと月の間手をこまねいていた甲斐はあったな。そんなきっかけが今になって出てきたんだから」
首を傾げると、視線が手元に向けられてきた。そこには打ち合わせで使った資料と筆記具――先月貰ったばかりの万年筆がある。
「それ漆塗りだろ? 日本人離れしてる外見のお前だ、海外ブランドのデザインの方がしっくり来るんだろうに、そんな純和風な色合いと柄を示し当ててくるなんて、大胆すぎて、およそ本人のセンスじゃあるまいと思ったんだ」
ほとんど事情を察しているかのような言いように、少しだけ照れつつ正直に答える。
「実は……この春から一緒に暮らしはじめた相手がいます。別に隠しているつもりはないんですが、不思議と誰からも聞かれないもので」
「どんな子だ」
少々の興味を含ませた問いに、しばし言葉を選んで。
「かわいいですよ」
「それだけか」
「むしろ、それ以上の表現があるならお聞きしたいところですが」
しれっと返した次の瞬間、三上の大きな笑い声が室内に響き渡った。
「結構結構、そこまで言い切れるなら将来は安泰だな」
「そんな自信はありません」
「ん?」
「高校の頃からずっと一人暮らしで自由にやってきたので、ちょっとしたことで彼女を怒らせたりするんじゃないかと、毎日綱渡りです」
けれど、と内心呟くと同時に、脳裏に浮かんだ面影。そして自然緩む表情に、今日はさっさと残務を片付けて、スイーツを買ってから帰ろうと心に決める。
「ま、いずれは一緒になるつもりなんだろ」
しかし話がなおも飛躍して続いたのに驚き、弾かれたように顔を上げる。
「まさかとは思うが、考えもしなかったわけじゃあるまい?」
「それは」
考えていないはずもない。けれど、半ば願望のままのそれを、堂々と口にするにはまだ憚りがある。自分の中にある何かが、まだしつこく燻って邪魔をしているような、そんなブレーキを取り払えずにいるのだ。
次ぐ言葉を見つけられずに口をつぐんでいると、それ以上は会話が発展すまいと思ったのか、三上が小さく息をついて立ち上がった。
「ひとつ、いい情報をやろう」
「え」
「俺が関わった事業が途中で潰れた例はない。最終的に『成果』を得られるかどうかは、各々の努力次第だがな」
にや、と笑う。
「世の中は万事やってみなきゃわからん。全てが済んでこその結果だから、どう転んでもおかしくはない。『成果』を狙っての下地や準備はもちろん大切だが、そこにこだわりすぎると失速し機を失う場合もある。そういう意味では……『同棲』って奴は表裏一体、見た目の甘やかさに比べて案外厄介なものだぞ」
仕事と私事を絶妙にハイブリッドした教示。そこに滲んだ三上自身の経験とからかい、そして自分への激励を覚る。
「じゃあな、お前も早く帰れよ。かわいい恋人が待ってるんだろ」
言い残して部屋を出て行く背中に「ありがとうございます」と礼を言い、改めて万年筆を手にとってまじまじと見つめる。
彼女に出会い過ごしてきたこの数年間、予想外の出来事に何度も晒されながら、自分の内が思いのほか豊かで複雑で、ひどく貧相で鈍感であったことを思い知らされた。
そして同時に湧き上がり蓄積されてきた願望と欲。自らの言葉で彼女に示した『手段』は、これまで抱いてきた自らの想いが結実した、ひとつの到達点だと自負していたけれど。
そこへ第三者から客観的に示された現況。不完全で不安定極まりない、危なっかしさは拭えていないという事実。何の確約もないまま、共に過ごす時間にそれらを忘れ、安穏と生活に甘んじていた自分を今更省み、改めて忠告に感じ入る。
「なにも変わっていないってことか」
情けなさ、やるせなさと共にひとりごちて唇を噛み、浩隆はすがるように、手にした万年筆を握り込めた。