事の発端
「“旦那さんの、ドイツでのお話を聞きたくありませんか”って誘ったら、簡単に乗ってくれましたよ。愛されてるんですね。羨ましいなあ。僕も結婚したくなってしまった」
専務は長い脚を組んで窓枠に座り、にやりと口角を上げた。
どこか冷たく、なんだか寒気がする笑い方で、俺は好きになれない。
「…妻に、何をしたんですか」
「ははは、そんな怖い顔しないでください。せっかくのイケメンが台無しですよ。大丈夫、まだ軽くお話ししただけですから。まだ、ね」
軽くお話し?
知り合ったばかりの専務と総務部の女性社員が、一体何をお話しするというのだろう。
「今後一切、妻に近づかないでください。何が目的なんですか」
俺が冷たく言い放った言葉に、専務はぴくりと眉を動かした。
そして、極めて静かに話す。
「僕の目的、ですか。いいでしょう、教えてあげます。あなたの奥さんを…、凛さんを、僕のお嫁さんにすることです」
「…え……?」
凛を、専務の嫁に……?
「僕が彼女を初めて見たのは、ほんの3か月前。専務として入社してすぐのことでした。昼休みに、本社裏の桜並木で煙草を吸っていたとき、子猫を抱えた凛さんが土手のほうから歩いてきた。僕は彼女の美しさに圧倒されて、すれ違ったあとも目が離せなかった。……まさに、一目惚れだった。その後、うちの社員だということを知り、彼女に会いたくて総務部のある階にちょくちょく足を運んだ。そしてあの日、ついに彼女と再会した。…しかし、彼女の薬指の指輪を見たとき…、大きなショックを受けた。彼女の夫が誰なのかすぐに調べ、…それが社内の男性だと知ったとたん、僕は歓喜した。課長職と専務では、どちらに勝敗があるかは明らかだ。それに、遠くへ飛ばしてしまえば邪魔は入らない…」
狂っている、と思った。
一目惚れした女性に夫がいたから、専務という役職を武器に手に入れようとするなんて、普通の人がすることではない。
それに、凛はそのような男には決して靡かないだろう。
「…残念ながら、凛は役職に目がくらむような女性ではありません。俺のことだって、べつに課長だから選んだのではないと思います。俺は何があろうと、彼女を信じる」
「そのようなこと、いつまで言っていられるでしょうね。物理的距離は、僕の方が断然近いんですよ?」
専務はプロジェクトの代表の1人でもあるから、しばらくは日本とドイツを往復するのだろう。一方、俺は現地スタッフとしての参加のため、プロジェクトが落ち着くまでは無断で帰ることはできない。
たしかに専務の言うとおりかもしれないが、俺と凛の絆は、距離が開いたら駄目になるような弱いものじゃないと信じている。
「話はそれだけですか?朝一で会議があるので、失礼します」
これ以上専務の口から凛の話を聞いていたくなくて、無理やり話を遮った。